三、宿業の身
夢が薄くなり、聴覚は冴える。足音、
障子戸を透かす払暁の薄明かりが目に入ると、夢の景色は一片の記憶も残さずに散じた。拾の大きな足が、
「おはようございますぅ。お隣坊、
拾の手が、遠慮もなく、私から掛け布を奪う。初め、私の寝起きが悪いことに慣れなかった拾は、具合でも悪いのかと重ねて枕元で尋ねたが、この頃には、何の
「近頃、ほんに日ぃが早うなりましたねぇ。見てくださいな、綺麗な空ですわ。気持ち良え日ぃですなぁ」
掛け布を腕の中で畳みながら、拾は、大和盆地の縁、山の端を振り返った。日の出を前にした空は金色の薄衣を掛けたように霞み、峰々には青紫の
拾はいつも通り丁寧に、私の肌へと直に触れないように、髪を梳いた。次いで白粉を塗る。頬と唇とに紅を指す。鏡の中には、穢れを隠して生観音を装った、知恵あり顔が出来上がっていった。
「ほんに、義王丸さまは、御仏に愛されたお方ですわ」
「……そうじゃと良いの」
「そうですわぁ」
こうして、昨日と同じ一日が始まり、私は自身の内部に残る純真さが、また一つ消え落ちたように思うのだった。
日が指し来るころ、鐘が鳴り、朝の勤行が始まる。本堂とその南の庇には、各塔頭より僧侶や稚児が集まり、高低の合わない声で次第通りに読経を進めた。赤漆の壇の正面には
勤行の時は、一番心が穏やかであれた。仄暗い堂内、不意に揺らぐ燈明。目の前には、鉦に花瓶に、種々の宝具が並べられる。その先には、
南の大戸より漏れ入る光が、次第に明るさを増す。諸衆が何か動くたびに、如来の面は影りを変えて、清かな慈愛を見せたり、妖しく微笑んだりするのだ。
『観音経』に至ると、私は読経の声を一層張った。
――観世音は
たとえ巨海に漂流して、龍魚や諸鬼に襲われようとも、観音に念ずれば、波に溺れることはない。
たとえ牢獄に閉ざされて、手足を鎖に繋がれようとも、観音に念ずれば、たちまちに鎖は解けて自由となる。
寺院の中であっても、俗世の穢れとは無縁でいられない。勤行を終えて、本堂の敷居を一歩踏み出せば、怒鳴り合う声が聞こえた。
玉砂利の先、山門の下では、小汚い男たちが数人掛かりで、地面に押さえ付けた男から粗末な着物を剥ぎ取っていた。指示しているのは、赤い小袖を
あの小屋では日毎、褌まで取られる者が生じていた。小金を得たものは、並びにある遊女小屋へ行く。あるいは、酒屋へ行く。法貴寺はこれらを咎めるどころか、
「――義王殿、如何にぞありけるや?」
本堂前の石段を降りたところで足を留めていた私へと、聖人が振り返って穏やかに尋ねた。私は一礼して大人しく聖人の側へと寄り、砂利を踏む二人の足音に消されるほど小さな声で答えた。
「……哀れなる者をば、
「賭博の者なるか。御目が穢れにぞなる、な見賜いそ」
「彼の者共、何故に博打に興ずるや。僅かなりとも銭のあらば、貯めおきて、物売の元手とにもなさば良きものを」
「義王殿は賢きお方なれば、
一歩先をゆったりと歩く聖人が、柔らかく微笑みかけた。涼やかな目許には、生来の知性と静穏が宿る。朝日を背負った面立ちは、なおのこと、美しさと清らかさとが密接であると思わせた。
私は、哀れなことに、聖人を敬愛していた。長谷川の一員として、学僧として、私に求められる生き方は、聖人の人格に倣うことだった。けれども、日の下にすくと立つ聖人の隙もない聖者の姿は、私には眩し過ぎた。私は幾らかのまばたきと共に、松葉の落ちる足下へと目を落とした。
「吾は賢くもあらじ、ただ物売る人をば見知り侍るのみ。彼の者共とて、物売ること知らずとは思い
「材料を求め、品を作り、町に運び、これを売るは、日数を要したり。されど、賭博は小屋にてぞ済む。愚かなる者は、明日なることをえ考えず」
「聖人さま、教え諭しは、し賜わずや?」
「侍らず。元よりの
良寂坊へ戻っても、問答は続いた。御厨子の観音像の前で向かい合う。私は宿業について、得心がいっていなかった。
前世にて仏への善行を積んだ者は、富貴なる家に美麗な容貌を持って生まれ、対して、仏への悪行をなした者は、容貌醜く、不治の病を得て貧者となり、死して後も地獄の業火に苛まれる。貴賤貧富も美醜、賢愚も全て、前世の諸行の現れと見做されるのだ。
「宿業の、一生を左右すものならば、一家離散して孤児となることも、また前世の悪行が現れにこそ。しかれども、聖人さまは悲田院をばお作り遊ばす。孤児には
「人が負いたる業は、その多少、外より見ても知りえず。ならばこそ、子らには仏道にぞ親しませ、正しき道を示すべし。その先、
「人は皆、仏性を持つとぞ。博徒らも、さなるべしと思い侍りぬが」
「ええ、博徒らも持ち侍りぬ。されど、種子は自ずから発芽するものにあらじ」
人は皆、仏になり得る存在であり、心の内に仏の種子を宿している。しかし、それを発芽させることは、本人の帰依心にかかっているのだ。そのため、寺の門前に住みながら、仏に手も合わせない博徒たちには、仏性が現れる見込みがないのだと、聖人は述べた。
「義王殿はお優しきお方なれば、救済叶わぬこと、お心苦しく思い賜うべし。されど、吾らは人の子。吾らが救い得る者は、自ら救われんと働く者のみにぞ侍る」
聖人の穏和な口調による結論に、私の反論は止まった。博徒らへの哀れみは、優しさからのものではないと思うのだが、漠然とした憤りを覚えるだけで、胸中を弁明する言葉は浮かびこない。思案に苦しく黙せば、聖人はゆったりと頷き、重ねて諭した。
「お釈迦さまも、病老死に苦しむ衆生を哀れみ賜い、またお悩み賜いつるとぞ。
義王とは観音菩薩の化身である、との前提で世界は進む。自身と、孤児と博徒と。仏性の優劣を見出された箇所は、何処にあったのだろうか。私は聖人の目を見た。善い物を見たときの幸福の眼差しがあった。
もし、私の玉眼が、本当に前世の徳行の表れだとしたら、御仏はどうして、見た目などという
それでも、私は観音の微笑みで応じた。感嘆の溜息が、小さくも返された。
「まこと……如何なる徳行を積み賜いける前世にぞあるべきや……」
つい、私の口を突いて、言葉が出た。
「貧しき籠作りの子となむ思い侍る」
「おや、ふふふふ。それは、よろしきこと」
私の
聖人の細やかな目は、さほど優れた学徒でもなかった私の成長を捉え、認めてくれるのだった。私はさらなる承認を得るために、また善き仏弟子であるために、学問に励んだ。
仏は説く。一切は空。すなわち、不変の本質は存在せず、世界は全て、仮有なものの集まりであると。ところが、視覚以下の六識は、世界は実有なるものと誤認させ、煩悩に従って行いを為そうとする。そこから抜け出すことが、悟りへの一歩なのだ。
勉学と勤行、そして、御仏。寺にあるものが、これらのみであったのなら、私は仏の慈悲に身を投げ出して、感涙の間に一生を終えただろう。けれども、俗世の欲望は、日の光にも陰らない。日没後にはさらに、闇と共に房内へと及び、仏弟子の心にも現れる。
「義王殿……お麗しきや……」
仏法を説いた唇は、私を愛する。十五夜を前にした月光が、薄い障子紙を透かして、私の裸体の縁を克明に浮かばせていた。
先日、
信仰に静寂な心を破って、官能が湧き出でた。その白き腹へと頬を擦り当てたいと、私は欲してしまった。官能を揺さぶる光とは、
聖人は、爪の背にて私の足の甲を撫で、脛骨の形を二指で挟んでなぞり上げ、膝頭を丸くくすぐる。汗に湿った手が幾度も往復して、私の喉は一層詰まっていった。足先に掛かる忍び笑いの息遣いまでもが、痺れをもたらし、身を震わせる。聖人の目が、私の震えを最も引き出す唇の形、指先の動きを探して、暗闇を鋭く見据えていた。
「ふふ、義王殿……この聖人めに何をかお望み賜うや?
私は口許を塞いだまま、頭を振った。聖人がそれで許すはずもないと知りながら、声を漏らさないように必死だった。
「義王殿や、聖人が此の手、何処にぞ向かわし侍りてん。ご指南賜えるか? 義王殿や」
聖人がゆっくりと指先を歩かせて、太腿の柔らかな肉の下、内側の筋へと爪をかける。そのたび、糸でも繋がっているかのように、背中が引き攣り、肩が跳ねた。今にも攻め立てる気勢に、指先は脈打つ。
「――しょ、聖人さま!」
「……如何に?」
「どうか……お許しを……!」
「よろしく思し召されずや……?」
「よろしく、は……あらじ……」
「お
憐れみの声を出す聖人は、しかし、決して手を緩めない。このところ、聖人は執拗に、私の口から欲望を引き出そうとするのだ。愉悦のうちに、私へと罪を与え、
「お教え賜え、聖人めは如何がすべしや?」
「……は、侍らず」
「それは、
指先が
私とて、焦燥を落ち着かせる方法は、知識に有していた。けれども、与えられるままに快楽を感受することと、快楽を得ようと働くことは、越え難い違いがあるだろう。そこだけは越えてはならない。
「聖人さま……!
「心にもなきこと、な
「心にぞ、心にぞ侍る。
微弱な刺激によって、情欲を
「聖人さま、何卒――」
両手の下から、涙声に訴えれば、聖人は私の手首を片手ずつに掴み、口から離させて、自身の唇を合わせた。私も舌で応えた。早く終えて、東の対に帰りたかった。
交わりの苦痛は、夜毎、不確定の快感に覆われゆく。私は、自身の身体が充満に達しつつあることに気付いていた。
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