天狗に拐われし子

小鹿

一、夜啼き鳥

 初夏の夜は、皆が寝付かない。

 良寂りょうじゃく坊の南庭には早咲きの蓮池があり、その夜も、目的を持たないのったりとした足取りが、白洲の砂利を軋ませていた。月明かりの下、白蓮華の開いたものがないかと探しているのだろう。池や門田かどたの蛙、虫の音に交じって、足音は、十坪ほどの蓮池を周り続ける。


――ケッペンカケタカ、ケッペンカケタカ。


 軒端には、夜啼よなき鳥が啼いた。梅雨も間近い十三夜に、錐のように強く硬質な声を立てて、雌を呼び啼く。姿を見せない、けれども、けたたましい。

 庭の足音は啼き声に引き寄せられて、驚かさぬようにそろりと庇へ近寄り、東庭に降りる三段の檜階段に腰を下ろした。烏帽子のない痩せた影を、月光が障子戸に映す。

 その内側、良寂聖人りょうじゃくしょうにんの主房にて、私は息を殺していた。既に四畳半間に灯りはない。房主は寝ているものと、表の風流人は思っていることだろう。気配を揺らしてはいけない、勘付かれてはいけない。

 そうして、絹の掛け布を口に押し当てていようとも、とばりの長髪を掻き分けて、情欲の指先は首裏の窪みを撫でるのだった。並々と酒を注いだ桝の、満ち溢れる量を探して、一滴ずつ足しゆくように。

 私は十六歳で、身体は未だ熟しきらない。潜む情欲を尋ねる手付きに、沸々と高まる体温を感じながら、細く息を吐いて、夜啼き鳥が早く飛び去ることのみを祈っていた。


――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。


 他所事を考えて気を紛らわしてもいた。幼きころの記憶にも、夜啼き鳥はいた。この鳥が軒端に啼けば、父は、天狗が物色に来た、寝ない子を拐かしに来たと脅した。怯えて母に泣き付くと、母は私を床に寝かせ、寄る蚊を払いながら、優しく子守唄を歌った。

 長じて、この啼き声が時鳥ほととぎすであること、天狗とは伝説に過ぎないことを知ったが、夜啼き鳥は好きにはなれずにいた。

 春から初夏にかけて、山野は全ての色が溶け合い、何物もきっぱりとした輪郭を持たない。春霞、咲き初む花々、川の水も、響きはどこか柔らかい。肌に沿う空気が、徐々に湿り気を帯び、暖かになってゆく。やがて目覚めたうぐいすが響かせる初音はつねは、丸く、暁の鐘声のように、春の景色に染み入るのだ。

 立夏になれば、ぶなも楓も、結んでいた芽を一息に吹かせる。日を透かす薄い葉は青い木陰を作り、清かな風が時折、淡い色彩を掻き回す。春から初夏は、調和の季節だ。己の存在を主張するものも、自身の色や音を際立てるものもない。

 それを破るのが、時鳥ほととぎす。他の鳥が寝静まるなか、闇夜に独り啼く。


――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。


 痴戯ちぎの閨へと嘲笑を投げかけるように、時鳥は自身を知らしめた。

 聖人しょうにんの武術に慣れた左腕は、私の首の下を通り、汗ばむ肩に張り付く四尺の長髪に絡まりながら戻り来て、私のままならぬ呼吸を受け止める白絹の掛け布を掴んだ。布が引かれるが、私も離さなかった。

 真闇の中、私たちは声もなく、衣擦れすらも立てず、柔らかな絹布を引き合った。頑なな私に、聖人は小さく笑い、手を離した。諦めたのではない。成熟した獣の匂いは、さらに立つ。耳にかかる漆の髪が退けられて、耳孔へと直に囁きが吹き込まれた。

「……口付け、せさせたまえよや」

 口調ばかりは、観音菩薩へと向かう丁寧さだが、声は愉悦と欲情に上擦る。閨において、稚児ちごは聖人の申し出に逆らえはしないのだ。


――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。


 軒端からは、火事でも告げるかのごとく、鋭い声が挙がり続けていた。不躾な夜更けの来訪者も、立ち去る気配はない。月明かりは冴えて、映す影の輪郭は鮮明になる。

 その形が不審を覚えて揺れはしないか、私は気懸りに見遣りながら、聖人の唇によって唇を塞がれていた。静かに執拗に、私の舌を追い来る愛着あいじゃくの舌。悶え震えても、降参を示して顔を背けても、聖人は赦しを与えてくれない。

 太い指が、私の口内に残り、舌をもてあそぶ。唇を濡らして、なぞる。歯を食いしばり耐える術が奪われた私は、水音を立てないように、舌を逃し、唾を飲み込んだ。けれども、聖人はさらに不意に耳朶みみたぶを噛み、あるいは、不意に緩く息を吹きかける。


――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。


 時鳥は我が子を育てない。鶯の巣に生み落とされた雛は、鶯の子として育てられるという。などと考えて、気を逸らす余裕は、もはやなくなっていた。注ぎ込まれた愛欲が、愛欲を引き出す。声を殺そうとも、汗となって滲み出る。熱を発する。聖人は見逃さない。

 ついに、わずかな声が鼻より漏れた。聖人が唇を離す。笑う息遣いと共に、黒くぼやけた頬の輪郭が高く上がると、すぐさま、変声前のなだらかな喉仏に、歯が立てられた。


――チチ、チチチ!


 唐突な地鳴き。羽ばたきを残して、さえずりは絶えた。喉を捉えられた私は、狭窄きょうさくの浅い呼吸が響かないように、口内を広く開けながら、障子戸ばかりを見ていた。淡い影が、こちらを伺って揺れ動いたような気がした。

 しかし、表に腰掛ける夜歩き人は、満足気な伸びを途中で欠伸に変えて、二、三度腕を上下に振ると、立ち上がって庭へ降りた。

 遠退く足音に、私の身体の強張りが解けた。抜けた気をとがめ立てるように、再び深い口付けがなされ、浮いた腰の下に手が入り来た。先程までの、どこまで耐えられるかを探る、いやらしい手加減はなかった。

 夜毎違わぬ執心の手付きが、私の内なる熱を直に暴く。丁子油ちょうじあぶらの香り、わずかに混ざるうずきは、私がいくら存ぜぬふりをしようとも、甘さを帯びた痺れへと変りゆく。聖人ももはや、忍び笑いを抑えない。

「あれ、義王殿ぎおうどの……今宵はお声、お聞かせたまわずかとなむ」

「聖人、さま……!」

如何いかに? ――ふふふふ、如何にぞ思しめさるるや、義王殿」

 無明の良寂房では、若い聖人の唇と指先が、全てを命じ、全てを許した。私が正解の文言を述べるまで、問答は続くのだ。

のたまえかし、疾く。――え宣わずや? さらば、お御口みくち、お塞ぎ侍りてん」

 息を与えられず、思考も抗いも、その意思を遂げられはしない。房主に許されなくてはならない。そのために求められるものは――

「何卒……お参りくだされ、聖人さま……!」

 台詞に過ぎないが、心よりの言葉に聞こえるように。この時ばかりは声を揺らすため、認めたくない快楽に感じ入るのだった。

 愛欲が私を貫く。その間が、私は最も安堵する。与えられるのは、仏に背く悦楽ではなく、無心に耐えれば過ぎ去る類の肉体の苦痛であるから。

 稚児とは――すなわち、私とは、観音菩薩の化身だった。生観音たる稚児との交わりは聖なる行いで、聖人は、直なる交わりによって、観音の慈悲を得るのだ。


 事が済めば、稚児は速やかに去る。私は、手探りで小袖を拾い、汗ばんだ肌の上にまとった。解放を求める自身の熱も、乱れた髪もそのままに、生観音いきかんのんの静けさを装って、作法通り、付書院つけしょいん御厨子みずしへと一念して。

 御厨子にたたずむ観音菩薩は、障子紙を透かす月明かりに、その輪郭をわずかに浮き立たせる。古風な赤樫あかがしの一体は、房の主にして次代の法貴寺貫首ほうきじかんじゅ、良寂聖人の持仏じぶつだった。

 見えずとも描ける、親しんだ姿。肉厚な腰は緩く左に寄せられ、太やかな腿にかかる衣のひだは、裾に向かって瀧の如く流れる。膝まで垂れた右手、細い三指で水瓶すいびょうの首を掲げる左手。丸みを帯びた肩、柔らかに微笑まれる赤い口許。金色に輝く玉眼ぎょくがん

 情欲の交わりを側で見そなわしていた御仏へと、幾重にも懺悔さんげを述べて、私は障子戸を開けるのだ。煌々こうこうたる十三夜月が目を指す。思わず目蓋まぶたを閉じた。眩しさは苦手だった。

「――美しき月にや。お開け賜えるか?」

 片腕で頭を支えた良寂が、床の中から願い、私は一礼して、障子戸を開け放った。冷ややかな湿度を伝える夜気と共に、月光は、雲もない南東の空から真っ直ぐに降る。照らされた聖人は、俗世の穢れや煩悩ぼんのうとは無縁であるかのように、美しい目許を微笑ませた。

「常に勝りてあかくぞありける、のぅ?」

「……まことに」

「義王殿が御目おんめなるお色なり」

 うっとりと感じ入る声に、私は習慣として観音の微笑みを浮かべ、聖人の眼差しを受け止めていた。聖人が最も愛した私の部位は、両の目の玉。日の下にてはみどりも指して見えるほどに明るい玉眼だった。

 玉眼とは、水晶玉にて造られた仏像の目をいう。父、長谷川遠江守安禎やすさだは、生来の玉眼を持つ私を観音の化身と見做して、長谷川党の菩提寺である法貴寺へと入れた。聖人もまた長谷川の一族で、安禎の従弟いとこに当たる。

 初めて聖人に引き合わされたとき、私は七つだった。聖人は私の手を取り、主房へと連れると、御厨子の菩薩像を見せた。私によく似ていると言われたが、そのころの菩薩像の目はまだ墨にて描かれていたので、私には、朧げに慕わしい、母なる姿が思われた。

 昼間の勉学は、主房にて行われた。その度に母に会えた気がしていた。法貴寺の何処の塔頭にわす仏像よりも、一尺足らずの観音像が美しく見えた。手を合わせるでもなく、浮かびくる子守唄を聞きながら、ぼんやりと眺めていることも多かった。三日月型に彩られた白地に黒の目が、慈愛にまばたいた気もした。寺に生きられることが、この上ない幸いに思えた。

 十二歳の夏。観音菩薩の目を玉眼へ変えると聞かされた。聖人は、観音像がより私に似ると言って頬を撫でた。時折、髪や頬を撫でられていたが、私はその意図を幼児への愛撫と信じて疑わなかった。

 仙人のような白い髭を蓄えた仏師が呼ばれ、私の目を上から下から眺め、きっと同じ水晶玉をめ入れようと約束した。如何にして、墨の目を玉眼へと変えるのか。仏師へと尋ねると、仏師は皺の重なる目尻を下げて、自身の技を誇らし気に解説した。

 観音像の後頭部を割り、面部の内より目の穴をり開けた後、その穴に水晶を押し当て、杭にて固定するという。私は聞かされる最中、両目の奥から突かれたような痛みを覚えて、目蓋を押さえた。

 二月間、良寂房の御厨子は閉ざされていた。再び対面した観音菩薩は、怜悧れいりな光を宿した金色の目で私を見返してきた。目が変わっただけだというのに、母と慕った面影は拭い去られてしまった。

 その翌年、私が十三となった春。聖人は三十歳を迎え、正式に法貴寺の次代に任命された。同時に、聖人と安禎との間では、良寂の次代は私と、内証に約されたようだった。

 そして、私には秘技が教えられた。そのときもまだ、丁子油の意味を理解していなかった。やがて床へ召され、身体を這い回る掌に尋常ならざる気配があると気付いたとき、誰にも知られてはならない行為だと直覚した。半刻ほどの閨事は、耐え忍ぶ内に終わった。

 しかし、聖人は、自身の根深い情欲と同じだけの情欲を、私の中に探した。いや、情欲を育むように、熱を注ぎ込んだ。

 耐え忍ぶ息遣いが困惑に変わったとき、聖人は、その感覚を悦楽に通じるものだと教えた。困惑の息遣いが、さらに不意の緊迫と弛緩とが混じったものになったとき、聖人は、悦楽は罪なものだと諭した。

 閨にて最も忌避されることは、稚児が悦楽を得ることだった。観音の化身がその類いの欲を持つはずがなく、よって、感受することもない。私が生観音でなければ、聖人は交わりを得ないのだ。

 自覚させ、けれども、耐えさせる。苦悩、混乱していく様に、俗な若き高僧は恍惚こうこつを覚えていた。夜毎、良寂の主房では、愛欲を持つ者同士が身体を重ね合わせ、それでいて、一方的な欲の発露が繰り返されるのだった。

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