天狗に拐われし子
小鹿
一、夜啼き鳥
初夏の夜は、皆が寝付かない。
――ケッペンカケタカ、ケッペンカケタカ。
軒端には、
庭の足音は啼き声に引き寄せられて、驚かさぬようにそろりと庇へ近寄り、東庭に降りる三段の檜階段に腰を下ろした。烏帽子のない痩せた影を、月光が障子戸に映す。
その内側、
そうして、絹の掛け布を口に押し当てていようとも、
私は十六歳で、身体は未だ熟しきらない。潜む情欲を尋ねる手付きに、沸々と高まる体温を感じながら、細く息を吐いて、夜啼き鳥が早く飛び去ることのみを祈っていた。
――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。
他所事を考えて気を紛らわしてもいた。幼きころの記憶にも、夜啼き鳥はいた。この鳥が軒端に啼けば、父は、天狗が物色に来た、寝ない子を拐かしに来たと脅した。怯えて母に泣き付くと、母は私を床に寝かせ、寄る蚊を払いながら、優しく子守唄を歌った。
長じて、この啼き声が
春から初夏にかけて、山野は全ての色が溶け合い、何物もきっぱりとした輪郭を持たない。春霞、咲き初む花々、川の水も、響きはどこか柔らかい。肌に沿う空気が、徐々に湿り気を帯び、暖かになってゆく。やがて目覚めた
立夏になれば、
それを破るのが、
――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。
真闇の中、私たちは声もなく、衣擦れすらも立てず、柔らかな絹布を引き合った。頑なな私に、聖人は小さく笑い、手を離した。諦めたのではない。成熟した獣の匂いは、さらに立つ。耳にかかる漆の髪が
「……口付け、せさせ
口調ばかりは、観音菩薩へと向かう丁寧さだが、声は愉悦と欲情に上擦る。閨において、
――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。
軒端からは、火事でも告げるかのごとく、鋭い声が挙がり続けていた。不躾な夜更けの来訪者も、立ち去る気配はない。月明かりは冴えて、映す影の輪郭は鮮明になる。
その形が不審を覚えて揺れはしないか、私は気懸りに見遣りながら、聖人の唇によって唇を塞がれていた。静かに執拗に、私の舌を追い来る
太い指が、私の口内に残り、舌を
――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。
時鳥は我が子を育てない。鶯の巣に生み落とされた雛は、鶯の子として育てられるという。などと考えて、気を逸らす余裕は、もはやなくなっていた。注ぎ込まれた愛欲が、愛欲を引き出す。声を殺そうとも、汗となって滲み出る。熱を発する。聖人は見逃さない。
ついに、わずかな声が鼻より漏れた。聖人が唇を離す。笑う息遣いと共に、黒くぼやけた頬の輪郭が高く上がると、すぐさま、変声前のなだらかな喉仏に、歯が立てられた。
――チチ、チチチ!
唐突な地鳴き。羽ばたきを残して、
しかし、表に腰掛ける夜歩き人は、満足気な伸びを途中で欠伸に変えて、二、三度腕を上下に振ると、立ち上がって庭へ降りた。
遠退く足音に、私の身体の強張りが解けた。抜けた気を
夜毎違わぬ執心の手付きが、私の内なる熱を直に暴く。
「あれ、
「聖人、さま……!」
「
無明の良寂房では、若い聖人の唇と指先が、全てを命じ、全てを許した。私が正解の文言を述べるまで、問答は続くのだ。
「
息を与えられず、思考も抗いも、その意思を遂げられはしない。房主に許されなくてはならない。そのために求められるものは――
「何卒……お参りくだされ、聖人さま……!」
台詞に過ぎないが、心よりの言葉に聞こえるように。この時ばかりは声を揺らすため、認めたくない快楽に感じ入るのだった。
愛欲が私を貫く。その間が、私は最も安堵する。与えられるのは、仏に背く悦楽ではなく、無心に耐えれば過ぎ去る類の肉体の苦痛であるから。
稚児とは――すなわち、私とは、観音菩薩の化身だった。生観音たる稚児との交わりは聖なる行いで、聖人は、直なる交わりによって、観音の慈悲を得るのだ。
事が済めば、稚児は速やかに去る。私は、手探りで小袖を拾い、汗ばんだ肌の上にまとった。解放を求める自身の熱も、乱れた髪もそのままに、
御厨子に
見えずとも描ける、親しんだ姿。肉厚な腰は緩く左に寄せられ、太やかな腿にかかる衣の
情欲の交わりを側で見そなわしていた御仏へと、幾重にも
「――美しき月にや。お開け賜えるか?」
片腕で頭を支えた良寂が、床の中から願い、私は一礼して、障子戸を開け放った。冷ややかな湿度を伝える夜気と共に、月光は、雲もない南東の空から真っ直ぐに降る。照らされた聖人は、俗世の穢れや
「常に勝りて
「……まことに」
「義王殿が
うっとりと感じ入る声に、私は習慣として観音の微笑みを浮かべ、聖人の眼差しを受け止めていた。聖人が最も愛した私の部位は、両の目の玉。日の下にては
玉眼とは、水晶玉にて造られた仏像の目をいう。父、長谷川遠江守
初めて聖人に引き合わされたとき、私は七つだった。聖人は私の手を取り、主房へと連れると、御厨子の菩薩像を見せた。私によく似ていると言われたが、そのころの菩薩像の目はまだ墨にて描かれていたので、私には、朧げに慕わしい、母なる姿が思われた。
昼間の勉学は、主房にて行われた。その度に母に会えた気がしていた。法貴寺の何処の塔頭に
十二歳の夏。観音菩薩の目を玉眼へ変えると聞かされた。聖人は、観音像がより私に似ると言って頬を撫でた。時折、髪や頬を撫でられていたが、私はその意図を幼児への愛撫と信じて疑わなかった。
仙人のような白い髭を蓄えた仏師が呼ばれ、私の目を上から下から眺め、きっと同じ水晶玉を
観音像の後頭部を割り、面部の内より目の穴を
二月間、良寂房の御厨子は閉ざされていた。再び対面した観音菩薩は、
その翌年、私が十三となった春。聖人は三十歳を迎え、正式に法貴寺の次代に任命された。同時に、聖人と安禎との間では、良寂の次代は私と、内証に約されたようだった。
そして、私には秘技が教えられた。そのときもまだ、丁子油の意味を理解していなかった。やがて床へ召され、身体を這い回る掌に尋常ならざる気配があると気付いたとき、誰にも知られてはならない行為だと直覚した。半刻ほどの閨事は、耐え忍ぶ内に終わった。
しかし、聖人は、自身の根深い情欲と同じだけの情欲を、私の中に探した。いや、情欲を育むように、熱を注ぎ込んだ。
耐え忍ぶ息遣いが困惑に変わったとき、聖人は、その感覚を悦楽に通じるものだと教えた。困惑の息遣いが、さらに不意の緊迫と弛緩とが混じったものになったとき、聖人は、悦楽は罪なものだと諭した。
閨にて最も忌避されることは、稚児が悦楽を得ることだった。観音の化身がその類いの欲を持つはずがなく、よって、感受することもない。私が生観音でなければ、聖人は交わりを得ないのだ。
自覚させ、けれども、耐えさせる。苦悩、混乱していく様に、俗な若き高僧は
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