終章 本能寺の恋
かつて十兵衛が丹波攻略の本拠地として使っていた、丹波亀山城。
その一角にて、彼の率いる明智家臣団の重鎮が顔を合わせていた。
従弟である明智秀満。
同じく明智光忠。
斎藤利三。
藤田行政。
溝尾茂朝。
俗に明智五宿老と呼ばれる彼等は当然、十兵衛とは男と男の契りを交わした仲である。
愛するその重臣達に向かい、十兵衛は語った。
「積年に渡りし、我が想いの丈……今こそ大殿に全て打ち付けようぞ」
そして、一同の顔をゆっくりと見据え――
「我が敵は、本能寺にあり」
決して大きくは無いその声は、しかし彼等の心に轟雷の如く響いた。
★
ところで襲撃される側の信長は、この時どんな感じだったのだろうか。
ちょっと覗いてみるとしよう。
翌日の深夜、本能寺にて。
その日、彼は息子信忠と久々に飲んだり、本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁頂点対決を観戦したりして、上機嫌のまま床に就いていた。
ところが夜明け前――
突然響いた鬨の声を聞くや、彼は即座に目を覚ました。程無くして寝間着姿の蘭丸が、押っ取り刀で現れる。
「これは何の騒ぎじゃ」
信長の問いに、蘭丸は絞り出す様な声で答える。
「寺が、兵に囲まれております……謀反にごさいます!」
「謀反……いかなる者の企てじゃ。旗印はどうか」
「旗は……むらさきに、桔梗の印……」
彼の言葉に、信長は一瞬愕然とした顔を見せ。
「十兵衛か……」
そう呟くと再び蘭丸に向き直り、今度は天をも衝く大声で吠えた。
「弓を持て!」
「はっ!」
駆け出す蘭丸の背を見つつ――
信長は呟いた。
「十兵衛……彼奴を甘く見過ぎておったか……」
★
一方の、攻める十兵衛。
彼は戦の趨勢には何の心配もしていなかった。何と言っても彼の軍勢は3千にも及び、対する信長は小姓や番衆等の手勢がわずかに百名程。しかも戦上手と評判の彼が、自ら指揮をしているのだ。これで負けない筈が無い。
にも関わらず、彼は何故か落ち着きの無い様子であった。
「まだ正門を崩せぬか」
「は。大と……織田勢、この場を死地と定め、尋常ならざる抵抗を続けておりますが故」
「左様か」
腹心中の腹心、明智秀満の返答に十兵衛はうわの空で答える。
刹那――
「正門が崩れましてございます!」
駆けて来た伝令が叫んだ。
十兵衛、その言葉を聞くや床几から立ち上がり、愛刀を手にすると。
「左馬助! この場を任せるぞ!」
「と、殿!?」
秀満が止める間も無く走り出す。
彼が向かう本堂には、早くも煙が立ち始めていた。
★
「大殿! 大殿はいずこ!」
抜身の刀を手に、十兵衛は堂内を進む。
既に誰かの手で火が掛けられたのだろう。辺りは俄かに煙が立ち込め始めていた。
それをまるで気にせず、血走った瞳で彼は叫び続ける。
何枚もの襖を開き、やがて最奥の間に差し掛かろうとした、その矢先。
「ほう。十兵衛自ら来おったか」
廊下のその奥に佇む、白装束。
返り血なのか己が流したものか、所々を朱に染めつつも隆と立つ者の隣には、やはり白い装束を纏ったやや小柄な影が寄り添っている。
その顔を見た瞬間、十兵衛は総身に粟立つ感触を覚えた。
「大殿……」
十兵衛を見据えた信長。斯様な状況にも関わらず、まるでその場の支配者が如き貫禄すら彼は纏っている。
「よもや貴様に裏切られようとは。なんじゃ、己が手で天下を掴みとうなったか」
「…………」
「それとも、余程にわしが憎いか。そうまで菊千代やお蘭に焦がれておったか」
「……それがしは」
自分が刃を向けた、つい先程までの主が放つ威容に飲まれぬ様、丹田に力を籠め。
彼の目力を正面から受け止めて。
言った。
「それがしが焦がれておったのは大殿。あなたにございます!」
「……………………今、何と?」
「天下でも美童でも無しに。それがしが誠に手にしたいもの。それは大殿にございます」
「え? いや、その……誠であるか?」
「誠にござります」
ああ、何たる事か! 何たる事か! 何たる事か!
明智十兵衛光秀、その真の狙いは天下でも美童でも無しに、主君織田信長その人だったのである!
「それがし、ここに至りようやく気付き申した。小牧山にて出会ったあの時より、それがしは心の奥底でずっと、あなたに恋焦がれていたのだと……美童を奪われし事も、無理難題を突き付けられし事も、激しく殴打されし事すらも、心の奥底では恭悦していたのだと!」
そのままずいっと歩みを進める十兵衛。今度は彼がいつぞやの様に、鼻が当たる距離まで詰め。
「大殿、それがしのものになってくだされ」
口説いたッ!
「す、すると貴様は、わし欲しさに、これだけの事をしでかしたと言うのか?」
「いかにも」
「な、なんと……」
これにはさしもの信長ですら肝を冷やした。簡単に言うと、十兵衛の修道に対するあまりの執念に恐怖したのだ。
「さあ、大殿。我がモノになりませい。あなたも衆道を嗜む身なれば、何の問題もありますまい。さあ、さあ、さあっ!」
「あ、いや、確かにわしは衆道を嗜むが、あくまでも美童を愛でるのが好きなだけじゃ」
「そこをどうにかなりませぬか」
「ならぬ」
「そこを曲げて是非」
「是も非も無いわ! 出会った頃ならいざ知らず、何が悲しゅうて貴様が如き爺に抱かれねばならぬ! 斯様な目に遭うのであらば、ここで焼かれる方が遥かにマシじゃ!」
言うや、信長は背後の襖をつたーん! と開く。その奥の間は、既に彼等が火を放っていたのであろう。既に紅蓮の炎が渦巻いていた。
「……そうまで、それがしを拒否いたしますか」
力無く零す十兵衛に、信長は背を向けて言葉を投げる。
「応。我が首も尻も、くれてはやらぬ。全く、貴様が如き痴れ者と出会ってしまったが、我が身の不幸よ」
そして、いっそ悠々とした足取りで炎渦巻く奥の間に向けて歩む。
「上様、御伴致します」
彼の背中を、蘭丸が追った。
「ならぬ。十兵衛ならば、軽々にそちの命を奪わぬ。わしに構わず行くが良い」
十兵衛が今まで聞いた事の無い、優しげな口調で信長が言う。しかし、蘭丸は大きくかぶりを振った。
「いえ。我が身、我が命、全て上様のものにござります。あなた様を失い、おめおめと逃げ去り、どうして生きていけましょうや」
怒気すら含ませたその物言いに、信長はにやりと相好を崩し。
「で、あるか。さればお蘭、参るぞ」
「はッ!」
呆然と立ちすくむ十兵衛を後に、ふたりは最奥の間に入り、襖が閉じられた。
戦国の覇者、第六天魔王織田信長。
その二つ名に相応しく、彼は業火の中に消えて逝ったのであった。
この後の顛末については、諸姉兄の知る通りである。
信長に完膚無きまでに振られ、抜け殻となった十兵衛が秀吉の軍勢に敵う筈も無く。
また、旧織田家の家臣団が彼に味方をする筈も無く。
唯一味方になりそうな細川親子ですら、彼を見限った。きっとそこには男男の痴情のもつれがあったに違い無いと、私は確信している。
とにかく、明智軍は山崎の合戦でこてんぱんに敗れた。
その後の十兵衛の行方については、杳として知れない。
敗走中に落ち武者狩りの農民に討たれたとも、秘かに生き延び、南光坊天海と名を変え徳川家康に仕えたとも言われているが、真偽の程は定かでは無い。
ただひとつ、言えるのは――
明智十兵衛光秀という稀代の衆道モンスターは、これを最後に歴史の表舞台から姿を消した、という事のみである。
めでたし、めでたくもなし
菊花、本能寺に散る いさを @isaomk2
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