第四章 ご乱心トリガー

 いよいよ時は天正10年。そう、1582年である。

 因みにこの年号、『いちごぱんつの本能寺』と覚えると絶対に忘れないので、どうか心に留め置いて欲しい。

 閑話休題。

 この年の春、皐月の頃。織田信長は長年の盟友にして愛人の徳川家康を安土城に招いた。

 表向きは『長年織田家を支えてくれた彼に、感謝の意を伝える為』というものであったのだが……


「十兵衛。そなたを見込んで話がある」

 此度の饗応役を命じられた十兵衛は、その宴の直前信長にこう囁かれた。

「家康の膳に一服盛るのじゃ」

「な!? なんと申されますか!」

 さしもの十兵衛も、信長のこの言葉には耳を疑った。

「家康に、毒を盛れと言っておる」

 信長は大事なことなので二回言った。

「されど大殿。織田と徳川は長年に渡り強固なる同盟を築き上げ、また家康様は大殿の……」

「それよ。竹千代も、昔は可愛かったが今では只の狸親父じゃ。故に、もう何度も手を切ろうとしたものの、あ奴は戦と同様しつこく食い下がりおる。この間なぞ『わしと別れとう無くば、嫁と息子を斬れ』と無理難題を吹っかけた所、本当に斬りおった。わしはもう、あ奴の相手なぞしとう無い」


 ……何という事であろうか。

 織田信長。長年連れ添った愛人の徳川家康すらも、その相手が億劫となったら亡き者にしようと言うのだ。いかに相手がメンヘラだとて、到底許される話では無い。まさに第六天魔王、悪鬼羅刹の所業である。

「し、しかし……いくら大殿のご命と言えど、その様な事、それがしには……」

 さすがに十兵衛、これには首を縦に振れない。いくら信長の命令と言えども、できるものとできないものがある。徳川家は長年織田を支えてくれた盟友の中の盟友であるし、彼からすれば家康も割と好みの範疇である。

「十兵衛……よもや、このわしの言う事が聞けぬとは言うまいのう」

 信長はかつて小牧山の時と同じ様に、鼻が当たる程の距離まで詰めて十兵衛を睨む。

「…………そ、それがしは」

 言い淀む彼に、信長はかつての時の様に唇を舐めるような事はせず。

「首尾良くやるのじゃぞ」

 言い捨てて、その場を去った。


 ――い、一体どうすれば良いのだ。


 思案に暮れる十兵衛。

 これが、以前の彼なら心苦しく思いつつも、信長の命令に応じて膳に毒を盛ったであろう。しかし、今の彼は違う。もはや、ただ漫然と信長の命令を聞くだけの従順な家来では無かった。それは織田家ナンバー2という矜持であり、また最近特に酷くなってきた信長の無茶振りに対する反発心でもあり、またあるいは……

 ともかく、熱が出る程熟慮した結果、彼は主君の命に背いたのだった。


 ★


 で、饗応の宴が始った。

 家康はメンヘラよろしく信長にべったりである。

 信長は、流石にそれを態度に出さなかったものの、家康の相手に辟易しているのが何となく見て取れた。

 時折り、信長は十兵衛の方をチラッ、チラッと見つつ、


『おい、まだか』

『早ようせい』

『一体どうなっておるのだ』


 と目で訴えている。

 十兵衛はそれを強い心で耐え続け、どんどん険しくなっていく信長の視線を凌ぎ続けた。

 しかし、いよいよ宴もたけなわとなった頃。

「十兵衛! これは一体どういう事じゃ!」

 遂に気付いた信長が、怒髪天を衝く勢いで手にした杯を彼に投げつけた。

 突然の乱心に、場が一気に静まり返る。

 もちろん、家臣一同もそして家康も、信長が癇癪持ちである事は良ぉく知っている。皆はさり気なく場所を開け、部屋の隅に寄った。

 そして出来上がった広間に、平伏する十兵衛と怒り心頭の信長。あっという間にプロレスのリングみたいな絵面となっているではないか。

「わしの言う事が聞けぬと申すか! このキンカ頭が!」

「何卒! どうぞ、何卒!」

「ならぬわ!」

 土下座する十兵衛を信長は蹴り転がすと、そのままマウントポジションを取って上から殴る殴る。

 とても大名が腹心に行う行為では無いが、しかしそれを咎める事のできる者など居ない。唯一できそうな十兵衛こそが、その標的になっているからだ。そして、周りの者達はどうして信長がここまで激怒しているのか、皆目見当も付かない。真実を知っているのは、殴る信長と殴られている十兵衛のふたりだけなのである。

「この痴れ者が! よくもこのわしをないがしろにしおったな!」

 怒り狂った信長は、更に十兵衛をフルボッコする。それは見ていた小姓達が思わず泣き出す程の、烈火の如き形相で。

「織田殿! 何があったかは知りませぬが、どうぞそのくらいにしておかれませ」

 ここに至り、さすがにこれ以上はマズいと感じた家康が止めに入った。

「ええい! 離せ――」

 思わず振り払い、突き飛ばしそうになったものの。

しかし信長、さすがに徳川の家来も多く参列しているこの場で、彼の面子を潰すのもよろしく無いと思い至る。この辺は流石に戦国の覇者、瞬時の計算が働いた。

 大きく息を吐いて自らを落ち着かせると、蹲る十兵衛に視線を落とし。


「もう良い。貴様はとっとと坂本に戻れ、痴れ者め」


 そう言い捨てて場を後にした。

 信長が去り、周囲がざわめき出す中。

 十兵衛は心身の痛みに耐えるが如く、ただ唇を噛み締め震えていた。


 ★


 家康饗応の場にて、明智十兵衛が大殿にフルボッコにされる。

 この噂は、瞬く間に織田家中に広まった。

 しかし、この件に関して十兵衛に同情的な意見はそう多く見られなかった。余所者でありながら異例の出世を果たし、しかも家中にて数多くの男をその毒牙に掛けている彼は特に、旧来の織田家臣団からは蛇蝎の如く嫌われているのだった。


 そんな十兵衛が、顔の腫れも引かぬまま坂本の居城に帰った暫く後。

水無月に入って早々の頃、安土より重大な知らせが入った。


「……すると、大殿自ら毛利攻めを行うと?」

「左様にござります。備中高松におられる羽柴殿より『毛利勢存外に手強く、かくなる上は大殿の御威光にお縋りするより他無し』とのご要請を受けました故、自ら陣頭にて指揮をお取りになられる次第」

 使者としてそう彼に伝えるは、誰あろう森蘭丸である。

 かつてあれ程可愛がって育てた美童は今や立派な若侍として、堂々たる立ち振る舞いをしている。そして彼の瞳に、もはや十兵衛は映っていなかった。そう、彼はもう信長だけの男なのである。

「……ふむん。いかにも筑前殿らしいお考えじゃ」

 蘭丸の態度に寂寥の念を覚えつつ、十兵衛は小さく鼻を鳴らした。

 実を言えばこの時、筑前守こと羽柴秀吉は毛利にさほど手を焼いていた訳では無かった。

 しかし抜け目の無い彼は、自分が目立ちすぎている事を自覚しているが故に、あえて信長に助勢を頼んでいるのである。要は『自分じゃあちょっと手に追えないんで、先輩お願いしますよぉ』と上司に媚を売る部下ムーブメントである事を、彼は見抜いていた。

「大殿の御出陣、承知仕った。して、大殿はそれがしに何と?」

「明智殿におかれましては、『先陣を務めるべし』とのお達しにございます」

「左様であるか。承った。先陣を任されるは武人の誉れ。大殿にはその旨、お伝え願いたい」

「承知致しました。その様にお伝え致しまする」

 用事を済ませ、去ろうとする蘭丸に――


「待たれよ。京にて出立の軍勢を整える間、大殿はいずこにおられるか」

 彼の問いに、蘭丸は変わらぬ鈴の音の如き声で答えた。


「本能寺にござります」

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