5.夢幻
例えばレインコートで天使の像を解剖したとする。その場合、像の中からは玉手箱が見つかるんじゃないか? そして推論を重ねることになるが、そのコンパスからは雨の匂いがするはずだ。雨が止んだ。サイコロを振る時、ビル街をすれすれで抜けていく。これは左手への冒涜であると同時に、蛇が誠実なパレードであったことを意味している。鼓動が説明しているものは草原の広さだ。もうかつての鳥は翼を失って虹になったけれど、今でも空は0と1の間を祈っている。燃え広がる波動の中に時限式の花束を見つける。求めた時、ねじは足元に転がった。それがトロフィーになる未来を知っていれば、落ち葉の中にあると分かっただろう。ブランコの形をした偶然は、ひっくり返すという行為そのものに疑問を持っている。以前ならば赤色に特別な行き先があったはずだ……坂道が車輪を目掛けて落雷したように。
「……久瀬。久瀬も忘れ物?」
そこに短冊が現われる。それは砂の城から這い出ながら俺の背中を引っ掻いた。
「ありがとう」
鶴崎さんは唐突にそう言った。
「……あっ」
そこで俺はようやく、正常な思考に戻ることができた。
太陽の位置を確認すると、さっきまで昼過ぎだったはずなのにもう夕暮れに差し掛かっていた。病院の入り口前のベンチで、数時間ほど正気を失っていたみたいだ。
……俺は今、本当に正気だろうか。目に映る景色を一つ一つ確かめていく。
上にある物は空、それから太陽と雲だ。目の前の建物は病院、病気や怪我を治す場所。そしてさっき俺にお礼を言った女の子はクラスメイトの鶴崎さん……いや待て、なんで鶴崎さんがお礼を言う? 鶴崎さんは伊坂さん達みたいに夢の中で覚醒していたわけじゃない。鶴崎さんから見た俺なんて、気持ち悪がりこそすれど、感謝する義理など露ほどもないはずだ
俺が訝し気に見つめるのと裏腹に、鶴崎さんは何故か得心の行ったような顔をしていた。
「久瀬だったんだ」
会話が通じることを祈って、鶴崎さんに尋ねてみる。
「なんで……『ありがとう』?」
「んー……最近なんか、行き場のない感謝の気持ちがずっとあって……知り合い全員に片っ端からありがとって言ってたんだよね。それで今、やっとしっくり来た。まぁ、久瀬からしてみれば意味分かんないだろうけど……だから、ありがとう」
もう一度、はっきりとした頭で鶴崎さんの感謝の言葉を聞く。その響きは、俺が今までいろんな人からもらった『ありがとう』を俺に思い出させた。
ひま姉から、鋳門さんから、和田村さんから、母さんから父さんから、小さい子を送り届けた迷子センターの人から財布を拾ってあげた知らない人から……御園から。
悪寒はまだ消えない。依然、夢の狂気は俺の頭の端から全てを飲み込もうとしている。けど、今思い出した記憶がそれを必死に抑え込んでくれていて、目の前の景色を確かめるよりもずっと強く、俺の意識を覚醒させた。
立ち上がろうとする。ただそれだけで、俺の体は容易くベンチから立ち上がった。
「ありがとう……鶴崎さん。ありがとうって言ってくれて、ありがとう」
「……どういたしまして?」
・・・・・・
和田村さんの家の寝室の扉を開く。鋳門さんはそこで、深夜と同じ様に寝込んでいた。
「鋳門さん」
「……久瀬か」
頭痛で薄っすらと顔をしかめていた鋳門さんは、俺を一瞥して更に表情を曇らせた。
「お前が見つけたという混ざり切った夢は……どうなった」
「……終わったよ。俺が片方、終わらせた」
「そうか……報告、ありがとう。お前にはまた、辛い役目を押し付けてしまったな……私が、不甲斐ないばかりに」
鋳門さんは悔しそうに目を伏せて、自分の手のひらを見つめていた。
「いや、それはいいんだ。辛かったけど……ちゃんとありがとうって言われたし」
許さない。とも言われたけど。
「もう一つ、鋳門さんに言わなきゃいけないことがあるんだ」
「何?」
「実は……」
そして御園から聞いた全てを鋳門さんに話そうとした。元凶はあいつだったと、あなたの記憶を奪ったのは御園だと。
けど、寸前で思いとどまった。
「どうした、何か言いたいことがあるんじゃないのか」
鋳門さんがベッドの上で訝し気にこちらを見つめる。
このまま包み隠さずに全てを話したら、鋳門さんはもう一度御園を止めようとするだろう。けど鋳門さんはただでさえ俺や御園より夢の中での動きが悪い上に、今はエネルギーを消耗している。きっと返り討ちに遭い、今度こそ全てを忘れることになる。
俺は決意した。鋳門さんと御園は会わせない、というかどんな因縁があろうと譲らない。
御園と決着をつけるのは、俺だ。
そして鋳門さんには全てを話さない代わりに、一部だけを話すことにした。
「……あの、鋳門さんてさぁ。天涯孤独だって言ってたけど、家族のこと調べなかったの? 職業とか」
「ん……そうだな。父は消防士をやっていたそうだ。私が二十歳の年に殉職したと聞いている」
「じゃあ鋳門さんの人助けの使命は、お父さんから受け継いだものなのかもな」
嘘をつくことにならないように気を使いながら、鋳門さんの使命は父親から受け継いだものだと伝える。鋳門さんが本当の意味でそれを思い出すことはないんだとしても、どうしても伝えてあげたかった。
けど、鋳門さんの反応は良くなかった。
「いや、それはないだろうな」
「え……どうして」
「私が記憶をほとんど失っていながら、潜夢者としての知識だけ覚えていたのは、おそらく私自身による取捨選択だろう。お前の言う通り、私が父に憧れていたのだとしても……私は父を捨て、自身のアイデンティティを取った。きっと、記憶を失う前からそういう空虚な人間だったんだ」
鋳門さんはそう言って、寂しげな横顔を見せた。
「……違う! ……多分!」
御園が語った鋳門さんは、あくまで御園から見た鋳門さんだけだ。鋳門さんがその時何を想い、どうして人助けの使命を優先して自分に残したのか……もう誰にも分からない。
「分からない、けど……一番強くお父さんのこと覚えておくために、使命を残したのかもしれないじゃん! ……俺はそう信じる。鋳門さんは自分の中のお父さんを守ったって、信じる」
「…………そうか…………」
鋳門さんは俺の言葉を聞くと、遠い目でぼうっと俺を見つめた。
「お前がそう言うなら、そうなのかもしれないな」
そして噛み締めるように、小さな声で俺の言葉を繰り返した。俺はその小さな声に全身全霊で頷いた。
「うん、きっとそう……っていうか、絶対そう」
それを受けて鋳門さんは、何かに気付いて呟いた。
「なるほどな」
「……なるほどな、って?」
一瞬隠し事がバレたかとも思ったが、どうやら違った。
「やはり、お前の方が若いからなんだろうな」
「……何が?」
「お前の能力の高さの話だ。私が潜夢者として目覚めたきっかけが父の死なんだとしたら、それは二十歳の時だったことになる」
「そんで俺は……九年前」
自分の潜夢者として始まりを思い返す。何故、どうして潜夢者になったかは忘れてしまったけど、なんとなく九年前だったことは覚えている。
「小学一年生の頃からと言っていたな。私よりもずっと若い頃に目覚めていた……それがお前の能力の高さの理由だろう」
俺がそんなに早くから潜夢者として目覚めた理由……思い出せないけど、多分ひま姉への想いが関わっているんだろう。
俺は今までの夢の中の出来事を思い出した。さっき御園にやられずに済んだのも、伊坂さんを助けることができたのも、鶴崎さんや鋳門さんを助けることができたのも、ひま姉の恋心を守ることができたのも。
もしかすると、全部ひま姉のおかげだったのかもしれない。
・・・・・・
公園に設置された自動販売機にお金を入れて、そのままじっと見ていた。数分後、五時を過ぎたあたりでひま姉がやってきたので、ミルクティーと缶コーヒーを買ってひま姉に差し出す。
「どっち飲む?」
「……ありがとう。ミルクティー貰おうかな」
コーヒー苦くて飲めないから、とひま姉は小さな声で付け足して、俺からミルクティーを受け取った。
「ごめん、急に呼び出して」
「いいよ、用事も別になかったし」
「でも……二人きりで会って、松沢先輩に何か言われたりしない?」
「大丈夫だよ、松沢君は二人が納得するまで一緒に居た方がいい、って言ってくれたから」
「……そっか」
結構、
そういう所だったのかなぁ、なんて他人事のような考えが頭によぎる。実際、他人事のようにしか感じられないのだが。
じっとひま姉を見つめる。俺の視線を受けてひま姉はたじろいだ。
「……えっと、どうかした……?」
「いや、結局思い出せなかったなって」
目の前の女性にただならぬ情愛を注いでいた自分は、今もまだ他人だ。正しい別れを迎えることはできなかった。
「何、結局って……?」
「なんていうか、お別れ……かも」
今日の夜、今度こそ俺を都合のいい友達に操作するために、御園は俺のもとに来るだろう。そこで決着をつける。あいつのしてきたこと、あいつとの友情に。
ただその決着がどんなものになるのか、俺にはまだ分からない。
あいつとの喧嘩で、俺はまた夢の中に入り、記憶を少なからず消費することになるだろう。
今の俺を現実に繋ぎとめているものは、か細い。ただでさえいつ正気を失ったっておかしくないのに、全てが終わった後もまだそれが残っているとは考えづらい。
「こんな風にまともに話せるのは、これが最後かもしれない」
俺がそう言うと、ひま姉は神妙に目を伏せて、呟いた。
「それってやっぱり……もう私のことは、思い出したくないってこと?」
「それは違う」
その言葉は、ずっと前から用意されていたかにように胸の奥からするりと口に出た。
「ひま姉を好きだったことを忘れて……辛かったことはあっても、良かったことなんて一つもなかった。今だって、今すぐ全部思い出せたらって思ってるよ」
けど結局、それは叶わなかった。どれだけ願おうと、完全に忘れ去ったことを思い出すことなんてできなかった。
俺はいたたまれなくなって、その場から去ろうとした。
「待って」
ひま姉が俺の背中を短く呼び止める。振り向くと、ひま姉の目はさっきまでとは打って変わって決心に満ちていた。
「本当は知ってるんだ……かな君が、その、私を好きっていうの、思い出す方法」
俺に一歩近づいて、ひま姉が言葉を続ける。
「でもさ……迷ってたんだ。本当に思い出させていいのかなって。私は、松沢君が好きだから。思い出させたってかな君には応えられないから、忘れちゃったのなら、そのままの方がいいんじゃないかなって。けどそれって、辛いの全部かな君に押し付けてるだけで……すごく卑怯な考え方だった」
二人でじっと見つめ合う。思えば、ひま姉への恋心を失ってから、初めてこんなに長く目が合った気がする。
「松沢君がさ、こう言ってたんだ。『想いを失うことは……想いが叶わないことより、辛い』って。だから今度こそ、私も持つよ」
ひま姉が、俺と手のひらをぎゅっと繋いだ。
すると、どくんと心臓が動き出した。
ただ、手を繋いだだけだ。ただそれだけのはずなのに、どうしてか胸から際限なく暖かい気持ちが溢れてくる。普通に喋ろうとしても、声が、震える。
「これ、は……?」
「かな君が、初めて熱を出した時のやつ」
「熱……?」
「忘れたの? かな君が覚えててくれたから、私も思い出せたんだよ?」
あれはかな君がまだ七才だった頃――。
ひま姉はまるで子供におとぎ話を聞かせるみたいに、俺にその時のことを話した。
語られる情景が脳裏に浮かんでは、様々な感情と一緒に心の大きな穴に収まっていく。俺はそれを覚えるのではなく、確かに思い出していた。
きっと、それは以前と完全に同じ形をしていたわけではないと思う。けれど、欠けた部分はひま姉の声の、微妙な揺れが補ってくれた。
「――それで安心したかな君は、いっぱい泣いたの」
ひま姉が語りおえると、それは俺の心の中に全て収まって、大きな穴を一つの隙も無く埋め尽くしていた。
「……今みたいにね」
涙が溢れて止まらなかった。
視界はどんどん滲むのに、さっきよりずっとはっきりと世界が見える。輪郭のぼやけた光が、無数の太陽のように瞳へ飛び込んでくる。
こんな綺麗な所に居たのか、俺は。
夢の中なんかじゃない、俺が今立ってる場所こそが現実だ。俺はここでずっと生きてきたんだ、生きていくんだ。そんな当たり前のことを、俺はようやく思い出した。
「ありがとう……」
また、ひま姉に救われた。いや、ひま姉だけじゃない。きっと俺のことを覚えていてくれた全ての人間に俺は救われたんだ。俺が俺であり続ける方法、それは、俺が全てを覚えていることだけじゃなかった。
俺が忘れていても、誰かが覚えていてくれたら、それで。
「ひま姉、全部思い出したよ……けど、もう少しだけ、貸して」
繋いだ手のひらを、ぎゅっと握り返した。
・・・・・・
「……調子はどうだい、久瀬」
深夜、白い空間に
「見ての通りだよ」
その場に居直り、手を広げてみせる。
「まだ正気みたいだね」
「ああ、思い出したからな。ひま姉を好きだったこと」
「……! そうか、思い出したか……ならば、今は僕の理想が理解できるはずだ。愛を思い出した今なら……」
「思い出したからこそ、俺はお前を認めない」
言葉の途中で口を返し、期待に満ちた御園の眼差しを突っぱねる。
御園は一瞬だけ微笑んだまま硬直したあと、目を伏せて静かに落胆する。そして、やはりか、と呟いた。
「最愛の人と同じになる……ただこれだけの幸福が、どうして理解できない。不安定だと思わないか? 自分以外にアイデンティティを委ねるなんて」
「俺が俺でいられたのは、ひま姉がひま姉でいてくれたからだ……それにお前は、お前の兄と同じになったわけじゃない、死人に縋りついてるだけだ。お前は何ひとつ満たされてなんかない」
「……もういい」
「だから、友達を作った」
「黙れ」
御園が顔を上げてそう言うと、足元を中心に極彩色の水たまりが広がり始める。俺は同じように自分の夢を再展開した。互いの足元から波のように広がる極彩色が、互いの中間点で交わる。
俺と御園の夢が、繋がった。
そして一瞬で混ざり切った。
「はぁっ!」
「……っ」
夢の中で目を開けた瞬間、目の前で御園が剣を振るう。俺は咄嗟に夢の混ざり具合を調節し、互いの夢の中心、自分と相手の位置を離すことでその剣を避けた。
ぐいんと互いの距離が開いた状態で、開けた場所に着地する。
このつぎはぎの夢が、俺と御園の決着の場所になる。
「……初めてだろうに、随分操作が上手だね」
「年季が違うんだよ。ひま姉のおかげでな」
「ふふ……夢をデートスポットくらいにしか思っていなかった君に、僕が劣るものか。最も夢に向き合ってきたのは、僕だ!」
御園が手から黒い光の線を放った。その光はおそらく御園がイメージできる限界まで極まった速度で、避けようがないから手で防いだ。手の甲がドーム状に抉れる。
「黒い海の応用か……」
「久瀬、今ので分かっただろう。僕らが今からするのは消しゴム同士を擦り合わせて消耗させるような、不毛な行為だ……もう一度言うけれど、僕が消したいのは君の先入観だけだ。今すぐに降参してくれないか。思い出したばかりの恋心を、もう一度失いたくはないだろう」
「うるせえ」
俺は再生させた手のひらを構えて、御園と同じ黒い光を放った。それは御園の右眼を中心に命中し、御園の顔の半分が消し飛んだ。
「言ったよな。お前を認めないって」
御園が顔を再生させる。その表情は切なげにも微笑んでいた。
「……残念だよ」
そう呟いた御園の体から、無数の黒い光が放たれる。俺はその全てを無防備に受けきり、命中したそばから体を再生させることで体を保ち続けた。
絶え間なく黒い光を放ちながら、御園が口を開く。
「反撃しないで大丈夫かい?」
「今からする」
御園の背後に意識を集中して、大きな手のひらを具現化させる。その手のひらを広げ、御園を丸ごと掴みこもうとする。
「……あの時の手か!」
すぐさま振り返りって飛び退き、御園は手のひらを真っ二つに切った。
飛び退いた先に、また同じ手のひらを具現化させる。切り抜ければまたその先に、それも切り抜ければまたその先へ、無限に手のひらを具現化させ続ける。
「……っ」
そして隙をついて、
しかし合わせた手のひらの中に御園は居なかった。第六感で気配を辿ると、御園は上空に居た。
見上げると翼を生やした御園が、俺に向かって手のひらを突き付けている。
次の瞬間、俺の右肩から先が消し飛んだ。黒い光を受けた時と同じ感覚だ。目で追えない程に速度を増したのか……いや、発射前段階のものを遠隔で具現化し炸裂させたのだろう。どちらにせよ問題はない。
俺はすぐさま消し飛んだ部位の輪郭を左手で象るように撫で、完全に再生させた。
もう一度御園の方へ目を向けると、ただその場に滞空しているだけだった。
「どうした、撃ってこいよ。それとももうガス欠か?」
「……何故だ」
御園のその声は、いつもと同じように淡々としていながら、どこか動揺に震えていた。
「君の体は以前、あの手のひらを一つ具現化させただけで限界に達していたはずだ……何故、手のひらを複数具現化させた上で、僕の攻撃に耐えることができる?」
「……簡単だよ。現実で、ひま姉と手を繋いでるだけだ」
手のひらに感覚を集中させると、現実での暖かさが分かる。じんわりと、俺に勇気と優しさを与えてくれる。
「ひま姉への気持ちを、思い出し続けてるんだ」
「……馬鹿な、それじゃあ」
「ああ、無限だよ」
小手調べは済んだ。俺は御園の頭上に拳を具現化させ、そいつを思いっ切り振り下ろした。
「がっ……!?」
鈍い音と共に、御園が地上に墜落する。その落下地点に二つ目の拳を合わせる。御園の体は強い衝撃でその場に転げ、一筋のヒビが入った。
「……くっ!」
御園がヒビを庇いながら体勢を直し、もう一度黒い光を嵐のように俺へ放つ。俺は三つ目の拳でそれを真っ向からかき消して、そのまま御園の体を殴り抜いた。
「勝てるわけないだろ……二対一なんだから」
「……っ、まだだ! 君にできたなら、僕にだって、僕達にだってできるはずだ!」
御園が手を振り回し、夢のあちこちを漂っている輝く白い煙へ手を当てる。だがいつまで経っても、体のヒビは回復しない。
「どうして……!」
「それがお前の兄なんかじゃないって……本当はお前が一番分かってるはずだ。その夢の欠片は、もう何も生み出さない。お前がいくら兄を覚えていても、死人はお前を思い出さない」
「……黙れぇっ!」
御園が吼え、剣だけ持って俺に向かってくる。俺はその体を、具現化させた手のひらで掴みこんだ。
手のひらの中の御園が、小さく呻き声を上げる。
「なんで……なんで、そんな偽物に頼ったんだ。ただ覚えているだけで、忘れないでいるだけで……どうしてそれだけでいいって、思えなかったんだ……!」
「君には分からないさ……正しい別れなど、目指す事すらできなかった者の気持ちなんて!」
虚ろな目が、俺を捉える。俺はその虚無に、ずっとこいつに感じていたシンパシー、その根源を見た。
こいつは、俺だ。ひま姉を、もっとずっと酷い奪われた方をした俺なんだ。
「……そうかもな」
俺は、具現化した手のひらを強く握りしめた。
「がっ、ああ、あぁ……!」
御園の体が、より強くヒビ割れていく音がする。そして手のひらを開くと、御園はその場に倒れた。体はヒビが全身に至り、形を保てる限界まで消耗している。これでもう抵抗することはないだろう。
すぐそばまで近寄り、倒れた御園を見下ろす。
「……僕を、殺すのか」
空を見上げる御園の顔には、いつも通りに微笑みが浮かんでいて、どこか晴れやかですらあった。
「いいさ……覚悟はしていたんだ。あの時、剣を投げた、ずっと前から」
そして視線を動かし、もう一度俺を見た。
「きっと立場さえ違えば、僕だって同じようにしただろう」
それを最後にすっきりと腕を広げて、目を閉じた。
お前も、俺に押し付けるのか。
「いや……悪いが俺はお前を殺したりなんかしない。もう一度チャンスをやるよ」
御園へ手のひらを向ける。
「お前の体から、兄に関する記憶を全て消す。もう一度、やり直すんだ」
「な……っ」
俺の言葉を聞いて、御園は夢から離脱しようとする。俺は鎖を具現化して、御園を俺の夢に縛り上げた。
「逃がさない」
御園がその場でのたうち回る。だが何かを具現化して抵抗することもできなければ、俺の鎖によって自壊することもできない。
「ぐっ、やめろっ……どうして、そんなことぉ……っ!」
次に、炎をイメージして具現化する。第六感を備え、特定の記憶だけより分けて燃やす都合のいい炎。それを御園にかけた。
御園の叫び声が、夢の中に響く。
「あああ、ああっ! 僕は……君が! 君が可哀想だったから! あれだけ彼女を想っていたのに、それが叶わないのが可哀想で! だから向日葵先輩達の夢を繋げて、試して! 君が本物だと証明してあげようとしたのに! 全部、全部君のためだったのに! どうして……!」
君のため。
俺はその言葉が、真実であってくれとも嘘であってくれとも願えなかった。
「……俺もだよ。俺もお前のために、こうするんだ」
御園の体が燃えてなくなっていくのに合わせて、御園の夢も白い煙になって消えていく。俺の夢で残りも押しつぶしてしまうことがないように、夢の混ざり具合を調節しながらそれを眺める。
体の大部分を失っていく御園は、茫然自失になりながらしきりに、兄さん、と呟いていた。
俺と同じで、兄の記憶が御園の夢の大部分を占めていた。残った御園の体は、あらゆる部分が大きく欠けている。出会って一年も経っていない俺のことなど、一緒に忘れてしまったかもしれない。
それでも、俺は炎をゆるめなかった。
御園の夢に残った兄の夢の残煙も、御園を焼く炎に集まってくる。最後の一筋が、挨拶するように俺の周りをひらひらと舞った。そしてそのまま炎へ流れ、跡形もなく消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます