4.混濁
初めて死に触れた時の話をしよう。
それは七歳の頃、両親を事故で亡くした時だった。
葬式ではすごく泣いた。今思い出しても、人生で一番泣いた日はあの日だ。
こんなに早くに両親を失って可哀想に。と、周りの大人は言っていた。もちろんそれも涙の理由の一つではあったけれど……もう一つ、同じくらいの理由があった。
それが、初めて死に触れたことだ。
両親以外の知ってる人も、知らない人も、もちろん自分もいつかは死ぬのだという事実をあまりにもはっきりと理解してしまった。ずっとぼんやりとしていた世界の輪郭が、急に明確になっていくのが怖くて、七歳の自分はそれを受け止めきれなかった。
今でこそ冷静に振り返り、こうして言語化することだってできるけど、あの頃は何も言えずにただただ泣きじゃくることしかできなかった。
そんな自分ですら把握していなかった涙の理由を、真に分かってくれたのは……寄り添ってくれたのは兄だけだった。
「有一、怖いんだね。母さんと父さんが居なくなったことが……僕らもいつか、あの棺に入ることが」
けれど大丈夫。
両親の遺体に話しかける大人達を見て、兄はそう言った。
「人は、死んで終わりじゃないんだ。誰かがその人を思い出すたびに、生き返るんだよ。有一の中にも、母さんと父さんが居るんだ」
その力強い声に、涙が引っ込んでいくのを感じた。
「お兄ちゃんは……お兄ちゃんは、僕が死んでも、僕のことを覚えていてくれる?」
「……もちろん。僕の中にも、有一が居るよ」
兄が、手を握ってくれた。
その時、涙は消えて笑顔だけが残った。
自分の世界の中心には、兄が居るんだと悟った。
~~~~~~
七年後——俺が十四歳、兄さんが社会人になったのを機に、叔父の家を離れて元の家での二人暮らしが始まった。
「……あれ? 起きてる」
「ああ……有一、おはよう」
明朝、起きてすぐに兄さんの部屋に入ると、ベッドからむくりと上半身を起こした兄さんが俺を見ていた。まだまだ寝起きでぼけっとしているものの、間違いなく目覚めている。
「いつもは俺が起こすまで寝てるのに」
「んん……まぁ、もう社会人だしね。僕もそろそろしっかりしないと」
兄さんは背を伸ばしながら、ベッドから立ち上がろうとして……途中で止まり、俺のことをじっと見つめた。
そして変なことを口走った。
「有一……今日、僕の夢に出たかい?」
急にそんなことを聞かれて、数瞬考え込んだけど、よく考えても問いかけの意味が分からなかった。
「……いや、兄さんの夢までは知らないよ」
「だよねぇ」
そう言って兄さんもベッドから降りて、俺達は朝の支度を始めた。
「早起きのせいで寝ぼけてるんじゃないの?」
「いや、本当になんでだろうね……なんとなくそう思ったんだよ」
寝間着から着替えながら、兄さんがぼやく。
「でも確かに、兄さんと夢でも会えたら嬉しいかも」
「毎日顔を合わせてるじゃないか……でもまぁ、そうだね。僕も会えたら嬉しい」
兄さんがにこりと笑う。この笑顔を夢の中でも見れるなら、他のどんな夢よりもいいだろう。
そんなこんなで朝食も済ませ、家を出る時間になった。
「それじゃあ、僕もう出るから。戸締りよろしくね」
鞄を持って席を立つ兄さんと一緒に、俺も立ち上がる。
「俺も一緒に出るよ」
「……学校にはまだ早いんじゃない?」
「俺も一緒じゃダメなの?」
「ダメじゃないけど……」
困ったように笑う兄さんと一緒に、二人で家の扉を開く。
「一緒に登校するような友達ができたら、その子を優先するんだよ」
「話の合う人、学校に居ないからなぁ」
なんの自慢にもならないけれど、物心付いてから今まで、友達だと呼べそうな人物は一人も居ない。昼休みは毎日一人でお弁当を食べている。
「……僕は兄として心配だよ。僕が居なくなっでも、有一は一人で暮らしていけるかい?」
兄さんが俺の顔を覗き込んだ。
「……俺が居ないと起きれない人に言われてもなぁ」
「だから今日は一人で起きたじゃないか」
朝の日差しの中、そんなことを話しながら歩いた。
~~~~~~
「ただいまー」
夕方六時頃、家の扉を開くと同時に声をかけても、家の中からの返事はなかった。兄さんが大学生だった頃は大抵家に居て返事をしてくれたので、薄暗い、無言の玄関はどうもしっくり来ない。
「兄さんが居なくなったら……か」
リビングに鞄を置きながら、今朝に話したことを思い出す。
七年前に得た悟り。それは今でも俺の中に根強くある。兄さんは俺の世界の中心を譲らないまま、七年間そこに居続けたのだ。
例えば鳥は、翼を失った時にどうするだろう。例えば虹は、雨が降らなくなったらどうするだろう。俺にとって兄さんが居ない世界を想像するとはそういうことだ。
どうして俺がそんな世界の歩き方を知っているだろう。
俺はそこで思考を打ち切った。慣れないことを考えたからか、ほんのり頭痛がする。
そんな頭痛に押されるように、眠気もやってくる。俺は兄さんが帰ってくるまで少し眠ることにした。
起きると、時計は夜の八時を指していた。
八時ならもう兄さんも帰ってきているだろうと思い、リビングに降りる……けど、リビングに電気はついて居らず、兄が帰って来た形跡もなかった。
真っ暗なリビングを見て、脳裏に二つの記憶が駆け巡る。一つは今朝の兄さんが居なくなったらという話、二つは事故に遭った両親の棺。
まさかという思いで携帯に手を伸ばすと、同時に兄の携帯から通話がかかってきた。
「もしもし! ……兄さん?」
『……有一かい? ごめんね、帰りの電車で盛大に寝過ごしてしまって……今から帰るけど、遅くなるから晩御飯は適当に食べておいてくれないか』
兄さんの声を聞き、全身全霊の溜め息が出る。まったく人騒がせな……いや今回は俺が勝手に過剰に心配しただけか。
ともかく、生きていてくれてよかった。
「いや、兄さんが帰ってくるまで待つよ」
『そうかい? 悪いね……早起きしたせいかな、どうにも睡魔に勝てなくて』
そこで、気付いた。
「……兄さんが電車で眠り始めたのって、何時?」
『乗ってすぐだったから……六時くらいかな。二時間も寝過ごしたわけだ……我ながら呆れるね。すぐ帰るよ』
そう言って兄さんとの通話が終わる。
俺は今日の朝、起きた時のことを思い出していた。
兄さんは、俺が起こすより早く、俺と同じ時間に起きていた。そして夕方の同じ六時にまた眠り、ついさっき同じ時間に起きた。
睡眠時間が兄さんとリンクしている。
ただの偶然かも知れない。というかまともな頭をしていれば、十中八九、まず間違いなくただの偶然と考えるべきだろう。
じゃあ……兄さんの『今日、僕の夢に出たか』という言葉も偶然だろうか?
――そんな疑いを持っていたからか、あるいは才能があったのか。その日の夜、すぐに夢の中で目覚めた。
居る。
俺は夢の中で兄さんの気配を確かに感じ取り、ようやく今朝の問いかけの意味を理解した。
知っている建物や場所がつぎはぎになっている空間の中、目の前に居るわけではないが、その向こうにしっかりと兄さんの気配を感じる。
人の気配を感じ取る……『第六感』とでも呼ぶべき感覚は人生で初めての感覚だったけれど、十四年も一緒にあったそれを間違えるはずがない。今感じてる気配が間違いなく兄さんのものであるという確信があった。
その確信を事実に変えるため、兄さんのもとへ行こうとつぎはぎの大地を蹴る。
けど、走れども走れども感じている気配との距離が縮まない。その内になんとなくこの世界のルールを理解する。
おそらく、これは俺と兄さんの夢が繋がった状態で、夢の主は自分の夢の中心から動けないのだ。動けないというよりは、地球儀のようにどこに立ってもそこが中心になってしまうと表現した方が正しいか。
とにかくこのままだと折角同じ夢を見ているのに兄さんに会えない。どうすればいいだろう。夢の中心に居ながら、夢の中心から離れるには。
俺は手のひらを顔に被せ、夢の中で目を閉じた。そして目の前にイメージする。
……こうか?
次に目を開くと、そこには手のひらで目隠しをしている自分の姿があった。やはり、夢の中はイメージ次第でなんでもできるみたいだ。分身でも、なんでも。
そのまま俺は本体をそこに置き去りにして、分身で兄さんの所へ走った。
今度こそ動いた分だけ気配に近づく。互いの夢が混ざり合った境界も踏み越えて、兄さんの夢の中へ入る。兄さんの気配に包まれながら、最も気配が濃い場所へと更に駆け抜ける。
そしてやはり中心に、兄の姿があった。
「……有一」
「兄さん……!」
夢の中で兄と出会ったその時、とてつもない感動に体が打ち震えた。自分を構成する全てが歓喜に叫び、全身全霊で余すことなく祝福を挙げる。
だってそうだろう。こんな経験ができる愛し合う二人など、この世にどれだけ居る?
眠りと夢。それは実に人生の三分の一を占める、絶対的な孤独な時間であり、他者との断絶。人によってその時間の大小はあれど、誰も眠っている間に他者と繋がることはできない。
だが、俺は、俺達は! その眠りすら踏み越えて今、繋がることができた。
「夢の中でも、会えた……!」
震える体をどうにか動かして、兄さんのもとへ歩み寄る。
「ふふっ、なんだか大袈裟なリアクションだね」
「大袈裟なんかじゃない……これで、死ぬまでずっと一緒だよ」
感じる。二人の一部が融けて、混ざり合って、一つになりつつあるのを。
「きっとこれは、神様からの贈り物なんだ」
愛し合う俺達への、祝福。
――今でも、この寵愛は祝福だったと信じている。
たとえ、呪いと呼ぶ者が居たとしても。
~~~~~~
「有一、病院へ行こう」
カーテンの隙間から強い日差しが差し込む真昼、兄さんは
「……なんで?」
「なんでって……分かるだろう。この頭痛、尋常じゃない……!」
痛みに顔を歪めて、兄さんは頭を抱えた。荒い息を吐いてそのまま喋り続ける。
「数日休めば治るだろうと……そう判断した僕が馬鹿だった。叔父さんには悪いけど、今から病院まで送ってもらおう」
兄さんが震える手を携帯へ伸ばす。俺はその手を優しく取り押さえた。
「……有一……?」
焦点の定まらない目が、俺を見る。
「兄さんも分かってるだろ……? この痛みは病院に行っても治らない」
「だからって、このまま何もしなければ、二人で……」
兄さんが言い淀んだ言葉を、代わりに口にする。
「ああ、俺達はこのまま死ぬんだよ」
兄さんの荒い息遣いが、ドラムロールのように俺の言葉を囃し立てる。
「そしてそれと引き換えに、混ざりきって一つになるんだ」
「有一、お前……」
俺を見る目に、戸惑いの色が混ざる……けど、兄さんはすぐに俺を受け入れてくれるという確信があった。
だって俺の考えは最早、半分兄さんのものだから。
「そうだね、有一。僕達は……一つになる」
険しさが取り除かれた顔で、兄さんは笑った。
その後すぐに俺達は眠って、夢の中で再会した。
既に互いの夢の中心は、分身を介さずとも触れ合える位置まで近付いており、繋いだ手は放すことができなかった。もうすぐ完全に一つになるという証拠だ。
「覚えているかな」
兄さんが、おもむろに口を開いた。
「母さんと父さんが死んだ時、僕が有一に言ったこと」
「もちろん。兄さんの言葉は、あの日からずっと、この世界を照らしてる」
夢の世界を見回す。脈絡のないつぎはぎだらけの空間を、俺は愛していた。きっとこれは俺と兄さんの記憶の集合体で、そのどれもが兄さんの言葉の光を浴びているからだ。
「……そうか、安心した」
兄さんが、水面のように揺れる夢の空を見上げた。
「さっき、毒を飲んだ」
毒。その言葉がなんの暗喩なのか考える内、兄さんの手のひらから悲壮な決意が俺の体に流れ込んで来る。
そして今の言葉がそのままの意味であることを理解した。
「あと数分で、現実の僕は死ぬ」
「兄さん! なんで……そんな……」
「僕もこの世界に入り浸ることで、少し法則を理解してきた……これは、僕が死ねば終わるんだろう?」
兄さんの言葉と同時に、夢の世界が強く揺れ出した。そしてあちこちに散らばった兄さんの夢が、白く輝く煙になって消えていく。兄さんはその光景を、据わった目で見ていた。
世界から兄さんの夢が消える度、頭痛が消えて俺の頭はクリアになっていく。しかしどれだけ明朗になっても頭はうまく働かず、目の前の現実を受け入れられないでいた。
「どうして……? 一つになるって言ったのに……!」
「……ごめんね」
「約束が違う! 俺だけ生きてたって、意味なんかないのに!」
繋ぐ手のひらに力が入る。しかしそれとは裏腹に、兄さんはするりと解いて、手を放す。
さっきまで放せなかった手のひらが、いとも容易く放せてしまった。それは終わりの近さを物語っていた。
兄さんがそのまま中心から、俺から離れてどこかへ歩いていく。ここは既に兄さんにとって中心でもなんでもないんだ。俺だけが中心に縛り付けられたまま、兄さんを追いかけられない。
「兄さん!」
最期に、兄さんが一度だけ振り返った。
「本当にごめんね、有一……けど、嘘じゃない。一つになるって言ったことは、噓じゃないんだ」
ひび割れた体で、俺の名前を呼ぶ。
「有一……お前の中で、僕は生き続ける」
「……っ兄さん!」
兄さんは今度こそ二度と振り返らず、夢の端へ歩いていく。ひび割れた体からは辺りと同じ輝く煙が漏れ出して、一歩進むたびにぱらぱらと破片を溢していた。
「……! ……!」
崩れ去っていく兄さんの姿を見て、どんな言葉をかけたか、自分でも分からない。
けどただ一つ、強く強く念じた想い……それだけは覚えている。
逃がさない。
そう念じた時、夢の世界が粘土のように折り畳まれた。
夢に残った兄さんの残骸、立ち昇る煙、その全てを封じ込めるように。
それでも煙は隙間からどこかへ消えようとするから、もう一度薄く伸ばして折り畳む。何度も何度も何度も、煙がどこにも行けなくなるまでねじって丸めてを繰り返す。
そうしてこねくり回し続けた完成品は、俺の形をしていた。
「……!?」
俺の夢の世界は圧縮されて、俺自身になった。そしてその俺自身は、現実でも夢でもない……無限に続く白い空間に居た。
「どこだ、ここ……」
頭痛が軽く残っている頭を無理矢理動かして辺りを見回す。それでも偏在している、絵具を混ぜ合わせたような水たまりが目に付くばかりで、そこに兄さんの姿はなかった。
兄さん……兄さんはどこに行ったんだ?
気配を探知する第六感を最大限まで使い、兄さんを探す。そしてその気配の行方は、自分の体の中にあった。
「……ああ……!」
心臓に手を当てる。
「これだけしか、残らなかったのか……!」
兄さんは、死んだ。
俺だけ生きてたって、意味なんかない……その思いに変化はない。それでも兄さんが、死んででも俺に生きろと言うなら。
俺が生きることが、兄さんをこの世に残す唯一の手段なら。
「さようなら、兄さん……」
この夢の欠片を背負い、生きていく。
~~~~~~
その日から俺は眠らなくなった。
もちろん夜が来ればベッドに入って瞼を閉じるのだが、その先でも俺の意識は連続して白い空間に居る。そして朝が来るまでたっぷりもの思いにふける。
脳を休ませなくても大丈夫なのかとも思ったが、軽く残った頭痛以外、不調はない。おそらく脳はちゃんと休んでいて、夢の中で考えたり動いたりするのは別の器官を用いているのだろう。
その器官が具体的に何なのかは分からないが、あえて呼ぶなら『魂』か。
とにかく俺は、毎晩白い空間でじっとしていた。
無数にある変な色の水たまりが一体何なのか、気になりもしたが、突っつくのも怖いのではたから眺めているだけだった。
そんな日々を繰り返している内に、とある二つの水たまりに変化が生じた。
以前の晩より、二つの距離が近付いていたのだ。
最初は見間違いかとも思ったが、数日かけて観察する内に確信を得た。そして二つの夢は近付き続け、最後には液体磁石のように互いに吸い付き合い、一つの水たまりになった。
その様子を見て、直感する。この水たまりは他の誰かの夢に繋がっていて、今まさに、あの日と同じことが起こったのだ。
「俺と兄さんの時と、同じか……!」
一つになった水たまりに駆け寄り、縁に手をかけてみる。少し力を込めれば、容易く水たまりの形を変えることができた。けど、二つに裂くことはできなかった。
「くそ……!」
このままじゃ、この夢の主は……。
居ても立っても居られずに、何ができるわけでもないのに俺はその水たまりに飛び込んだ。
夢の中に潜り、大地に着地する。直感の通り、そこは異なる二つの気配が混ざり合った夢の中だった。
覚えのある光景だ。俺と兄さんの夢が繋がったことが分かったあの日とまったく同じで、二つの夢が混ざり合った地点があり、それを境界にそれぞれの混ざりきっていない夢が存在していた。
間違いない、あと数日でこの夢の主の片方、あるいは両方が死ぬ。
ならばせめて、生き残った方が俺と同じ罪悪感を抱かなくていいように。
俺が選んでやる。
そう思って剣を作ろうとした時、背後にしゅたりと、誰かが舞い降りる音がした。振り返るとそこには長髪の男が居た。
夢の住人かとも思ったが、その男の気配は混ざり合った二つの夢、そのどちらとも異なっている。
男も同じ異常を俺に感じたのか、鷹のような目つきで俺を見つめていた。
「お前も、外から潜ってきたのか」
鋳門と名乗るその男は、名前の次に父親への憧れを語った。
「消防士だった父は私の憧れだった……しかし二十歳の頃にその父が殉職し、私は天涯孤独になった。そしてその日の夜、私は他者の夢へ干渉する能力に目覚めた。それから『夢が繋がる』という現象の存在を知り……父の意志を継ぐように、夢が繋がってしまった人達の救助を続けている」
「救助って……」
「ああ、私の使命だ」
そう言いきる顔は誇らしげで、悲壮さなど欠片もなかった。
「まぁ、結果的に助けることになるんだとしても……殺すんだよな? どっちか……」
「それは……混ざりきってしまった時だけだ」
鋳門さんが辺りを見回して確認する。
「混ざりきっていない箇所が少しでもあるなら、そこだけを切り取ることで両者とも救うことができる……まだこの夢は繋がったばかりだろう、問題無く切り取れるはずだ」
「……は?」
その言葉は、俺にとって信じがたいものだった。
「嘘だ」
もし、今鋳門さんが言ったことが事実なら。
「噓じゃなきゃあ……二人とも生き残る方法があったのなら……兄さんはどうして死んだんだ!」
「……お前、まさか」
鋳門さんがはっとした顔で俺を見る。
「俺が、死ぬまで一緒なんて言ったから……?」
一筋の涙が頬をつたった。
俺が、初めて兄さんと夢の中で会った時、馬鹿みたいに喜んでなんかいないで、すぐにでも切り離そうと思えていたら、兄さんは死ななかった。
きっと今でも俺の隣で笑っていた。
「……お前は何も悪くない。責めるなら私を責めろ、お前達を救えなかったのは、私だ」
「そんな屁理屈……信じられるか……!」
俺だ、俺が兄さんを殺したんだ。俺が兄さんの命を望んだから、兄さんは死んだ。俺が兄さんの人生を奪ったんだ。
心臓が身体の外に出ようと暴れる。それを必死に抑え込むように、その場にうずくまった。
そんな俺を見下ろして、鋳門さんが口を開く。
「……もう、この夢の中から出ろ。そうした方がいい」
「いや……」
うずくまったまま、鋳門さんの目を見つめる。
「……俺も、その切り取りってやつ、手伝うよ……俺みたいな思いをするのは、俺だけでいい」
それが、心臓を鎮める方法だと思った。
それから半年ほど、鋳門さんと二人で繋がった夢を切り取り続けた。
「能力の名前とかないの?」
夢の中で、鋳門さんと話す。
「名前?」
「夢に潜れる能力の名前。ないとこれについて話す時不便でしょ」
「……そうだな。今までは夢に潜れる人間など私以外に居なかったから問題なかったが……お前も居るとなれば、何か名前が要るか」
鋳門さんは上空の水面を眺めて数秒悩んだ後、こう言った。
「『潜夢者』……というのはどうだ」
「まんまだ」
「よし、これからは他人の夢へ潜れる者を潜夢者と呼ぼう」
安直なネーミングセンスを大真面目な顔で披露されたから、俺は少し笑ってしまった。
そんな日々の終わりは、一つのため息からだった。
「……今回は私が一人でやる」
繋がった夢の中、ため息をついた俺に鋳門さんはそう言った。
「疲れてるだろう」
「いや、俺もやるよ。鋳門さんだけに無理させられないし」
「無理させられないのはこっちだ。作業量は同じだけ分担していたつもりだったが……その様子を見る限り、お前が多めにこなしていてくれたみたいだな」
「あ、いや、今のため息は、いつもの頭痛で、つい……」
そう話している間にも、ずきんと頭の端が痛む。
「だから、それがお前が消耗してる証だろう」
「違うんだよ、この頭痛は兄さんが死んでから、ずっとだから」
「……何?」
「もうこんなの慣れっこなんだ。大丈夫だよ」
俺がそう言っても鋳門さんは不安げな顔をやめない。どころか、何か考え続けてより顔をしかめていく。
そうやって思案する内、鋳門さんは重々しく口を開いた。
「欠片か」
「え?」
「御園、お前は兄の夢の欠片を……その体内に取り込んだと言っていたな」
心臓を指差される。
「その欠片、切り取るべきなんじゃないのか」
「……は?」
俺は反射的に、心臓を手のひらで隠した。
「潜夢者の体は、自身の夢を圧縮して出来ている……そして自身の夢の中に他者の夢が混ざっている状態がいかに悪影響を及ぼすか、お前も知っているだろう。お前の頭痛の原因はその欠片だ。欠片の主が死んでいるため、今以上に悪化することはないだろうが……その欠片は、今のお前にとって害でしかない」
「なんだよ……なんでそんなこと、言うんだよ……」
鋳門さんが俺を見て、顔に手を当て声色を変える。
「……すまない、不躾な言い方だったな。お前にとって、その夢の欠片は兄の形見だものな……とはいえ、それを持ち続けることでお前が苦しむなど、お前の兄だって望んではいないだろう」
「あんたが……兄さんのこと、勝手に決めるな」
穏やかであろうと努める鋳門さんと違って、俺の声はいつの間にかドス黒くなっていった。
「あまり形見にこだわり過ぎない方がいい。夢の欠片でなくとも、お前には兄との思い出があるだろう」
「俺の記憶の中にしか居ない、偽物だ」
「……もう本物の兄など居ない。それを受け入れることが、死を悼むということだ」
「居る! 欠片になって俺の体の中に居るのが、本物の兄さんだ!」
「お前に、痛みしかもたらさなくてもか」
「その痛みで兄さんを忘れずに居られるなら……本望だ」
俺は踵を返し、切り取り線を引くべき境界へ歩き出した。
「頭痛がしてようと、今まで通りやってみせるよ。それで鋳門さんも文句ないだろ」
「御園! 私は……」
「……鋳門さんは、自分のせいじゃないからそんなこと言えるんだよ」
背を向けたまま、最後の黒い声を出す。
「二度も兄さんを殺すなんて、俺にはできない」
~~~~~~
「ふっ……ふっ……」
苛立ちをぶつけるように、混ざった所と混ざっていない所の境界に浅い切り傷をつける。
鋳門さんは、純粋に俺を心配してくれていたんだろう。鋳門さんに悪気があったわけじゃない。鋳門さんは何も悪くない。悪いのは全部俺だ。兄さんを死なせた、俺が悪い。
こればっかりは、話したってどうにもならないだろう。過去から勇気と使命だけを与えられている人間には分からない。過去を十字架のように背負っている人間の気持ちなんて。
「くそっ……」
もう何度目か分からない、大地を切りつける音が耳を刺す。
大地を切って、切り取り線を引いて、見ず知らずの人間を救ったところで、気が晴れるのは一瞬だけだ。すぐに『どうして同じことをあの時できなかったのか』という後悔が俺を苛む。まやかしの一瞬も、回数を重ねるごとにどんどん短くなっていく。
もう俺には、兄さんを覚えていることしかできない。
そう思いながら切り取り線を引いた瞬間、体の肩から胸がひび割れた。
「あ……」
そのひびから兄さんの夢が煙になって、逃げだすように噴き出し始める。
「あああっ!」
それ以上漏れ出さないように、少しでも多く残るようにひびを手のひらで庇う。
その時、俺は初めて兄さんの夢に触れた。
「うぐ……っ!?」
漏れ出た煙が手のひらを撫でた瞬間、兄さんの記憶が頭に流れ込んで来た。兄さんが見たもの、兄さんがしたこと、兄さんが感じたこと……偽物の兄さんじゃない、ありのままの、本物の兄さんがそこに居た。
大量の情報が叩き込まれて頭痛が悪化する。それでも俺はひびを押さえることをやめなかった。体内で煙が動く度に、煙が手のひらを撫でる度に頭痛は酷くなっていく。まるで、夢が繋がっていたあの日々のように。
激しい頭痛によって、魂の回路が作り変えられていく。強い痛みを伴ったそれは、何故かとても心地が良かった。
何より、兄さんと再会できて、俺はとても嬉しかった。
そして理解する。
「ああ、そうか……」
自分自身を抱きしめたまま、空を仰ぐ。
「俺は、間違っていた……」
兄さんは死んでなんか居なかった。今でも俺の中に居る……いや、死ぬまで一緒になったのだ。
そしてひびが全て塞がった時、俺達の体はもう一度完成した。
腕を広げて、その完成を宣言する。
「『僕』は正しかった……!」
◇◇◇◇◇◇
御園と言い合いになった後、私は御園を追いかけなかった。なるべく早く切り取りを行わなければいけないというのもあるし、お互い一人になって冷静になる時間が必要だと思ったのだ。
だが、ゆっくりと境界の周りを移動していた御園の気配が、急に片方の夢の主へ向かい始めた。
何かあったのか……嫌な予感がして、私も同じ夢の主のもとへ急いで向かうと、そこでは御園が夢の主へと剣を構えていた。
「何をしている、御園……!」
「……鋳門さん」
御園がこちらに振り向いて、穏やかな微笑みを浮かべる。その表情に私はかつてない異様さを感じ取った。
「鋳門さんも……僕に正しいことと間違ったことを言っていたね」
いつもとはかけ離れた喋り方のまま、御園が言葉を続ける。
「兄さんが死んだこと……お前が気に病む事はないって言ってくれたね。確かにその通りだった。だって僕は、こうして生きていたんだから」
御園が手のひらを動かして自分自身を指した。主語と述語がまるで噛み合っていない……まるで夢の住人になったかのような、支離滅裂な物言いだ。
否、御園にとってはこれが真実なのだろう。
「けど、繋がった夢切り取るっていうのは……救いじゃない。むしろ神様の贈り物を取り上げるような酷い行いだった」
御園が剣を構え直す。
「本当は……こうするべきだったんだっ!」
私は咄嗟に御園と夢の主の間に入り、主を庇った。
だがその瞬間、御園は全くの逆方向に、剣をとてつもない力で投げていた。
剣はその場から弾丸のように飛び去って行く。風を切る音が、かまいたちのように私達の耳へ響いた。
御園は……どこに剣を投げた? こちらの夢の主……こちらの夢の中心とは逆に位置する場所、そこに居る人間は。
「……命中」
御園がそう呟いた瞬間、夢の世界を強い揺れが襲い、向こうの夢が煙になって消滅しはじめた。
向こうの夢の主が、死んだのだ。
「……御園! お前、今自分が何をしたのか分かっているのか……!? 人を一人、殺したんだぞ!」
「だから、死なないんだよ。僕の中で兄さんが生きているように、あの夢は、その人の中で生き続ける」
庇っていた夢の主が私を押しのけて、消えていく向こうの夢を見た。
「ああ……! ああ! あああっ!」
夢の主が手を伸ばす。すると私達が乗っている大地を中心に、こちらの夢が波打ち始める。そして向こうの消えゆく夢をかき集めるようにざざざと動いた。
「そうだ、それでいい……逃がすな」
「うわああああっ!」
御園の不敵な笑みを裏に、夢の主が泣き叫びながら夢を操る。何度も、立ち昇る煙を包み、握りしめ、抑え込もうと、何度も何度も夢をうねらせる。
それでも煙はするすると立ち消えて、どこでもない場所へ還っていく。
そしていつしか揺れは止み、向こうの夢は一片も残らず消えて、こちらの夢だけが残った。
「あ……ああ……」
夢の主が、膝を打って崩れ落ちる。
隣で御園は目を見開いて辺りを見回していた。
「夢が、圧縮されない……?」
私は、剣を構えて御園へ突き付けた。
「御園……お前がどういうつもりだったのか、大方予想はつく。だがそれは欺瞞だ。お前がやったことは、この通り悲しみしか生まなかった! お前は、間違ってる……!」
「……こいつの愛が偽物だっただけだろう。自分を作り変えれるほど愛がないからこうなるんだ」
心臓に手を当てて、御園が私を睨む。
「僕が間違ってる……? 違う、兄さんと僕の夢を切り取らなかったのは、正しかった。僕は絶対に正しい。僕こそが、この世の愛し合う全ての二人の到達点だ」
御園は剣を作り直してこう言い放った。
「僕の使命の邪魔をするなら……あなたも、消えろ」
剣が振るわれもせず、ただ鈍く光る。気付くと私を中心に円形の切り取り線が引かれていた。
私がその場から飛び退くよりも早く、大地が丸く切り取られる。それはどどうと滝つぼのような音と飛沫を見せたあと、大きな穴になった。底にのぞける黒い海が、餌を待ち望むように激しく波打っている。
「くっ……」
足場を失った私の体は吸い込まれるようにその穴に落ちていく。このまま落ちるわけにはいかない、と持っていた剣を穴の壁に突き立てようとした瞬間、御園の指から放たれた黒い光の線が剣を打ち砕いた。
「うっ……おおおっ!」
落下しながら、穴から這い出るために何本ものロープを作り出し、穴の縁へ伸ばす。しかしその全てが無数の黒い光で打ち抜かれ、一本も残らない。
最後に翼を作り出しても、羽ばたきよりも素早い黒い光を避けられずに、私の体ごと穴だらけになる。
私の体は一度も止まれず、落下速度は加速するばかりだった。
「勝てるわけないだろう……二対一なんだから」
穴の縁からのぞく冷徹な目が、落ちていく私の体を射抜く。
私の作る物は全て、あの黒い光を耐えない。あの光にはそれなりのエネルギーが込められているはず……だというのに、御園が光を放つのにためらいは見られない。あるいは記憶を消費することすらあいつの望み通りなのかもしれない。自分を薄めて、より兄に近付こうとしているのだ。
黒い海の引力が身体にまとわりつき、体に深いひびが入る。こうなれば最早、全てのエネルギーをかけても御園の全てには敵わないだろう。
勝てない。
そう悟り、私は砕けた剣を再生させた。使う記憶を丁寧に選んで。
刃に、込めた思い出が映る。そこに父の姿は居ない……けれどこれがきっと、本当の意味で父を忘れないことだと、私は信じる。
ぼろぼろになった翼が黒い海につく寸前、私は空に剣を投げた。
~~~~~~
ぼちゃん、と重たい何かが水面に沈んでいく音が聞こえる。その次に穴から聞こえた音は、風を切る音だった。
さっき僕が投げたように……もしくはそれ以上のスピードで、鋳門さんの剣が飛んでくる。最期の足掻き、というわけだ。
僕はその場で直立不動で居た。それでも剣は僕の横を掠めて、遥か彼方へ飛んでいく。
「どこを狙ってるんだか……」
見当違いの所へ飛んでいった剣の行方を目で追う。剣は放物線を描くことなく、直線の軌道のまま空を突き抜けていった。
「……まさか」
急いで剣の後を追い、夢を離脱して白い空間に飛び出る。だがそこには既に剣の気配はなかった。自然消滅するには早すぎる……あれは鋳門さんの分離体だったのだろう。
「味な真似を……!」
とはいえ、あのサイズの剣では重要な記憶などほとんど残せていないだろう。僕の予想が正しければ、最早鋳門さんは潜夢者ですらなくなっているはずだ。
……いいだろう。全てを忘れて平穏に生きるだけなら、わざわざ探し出してとどめをさす必要もない。
もう何本目か分からないけれど、僕はもう一度剣を作った。
そして適当な二つの水たまりを選び、それを繋ぐ溝を彫った。すると二つの水たまりは溝を流れるように吸い付き合い、混ざった。
「僕は……正しいことをする。僕の正しさを証明する」
それから毎日、手当たり次第に夢を繋いだ。大半の夢は無理矢理繋いでも自然に二つに戻っていくし、ごくたまに分かれずに深く繋がっても、僕と同じ状態に到達した二人は一人も居なかった。
それでも毎日、僕は剣を振るい続けた。
~~~~~~
高校の入学式、同じ新入生全員で体育館に集まり校長先生のありがたい話を聞いている最中、僕は頭痛に襲われていた。
「ぅ……」
隣の生徒にも聞こえないぐらいのうめき声が出た。
兄さんと一緒になった日からずっとあった頭痛は、毎日他人の夢を繋ぐ度により酷くなっていった。
だが、まだまだ生活に支障は出ない程度だ。それに痛みにも波があって、放っておけばすぐ比較的に楽になる。
そう思ってただ耐え忍んでいると、隣の男子生徒が勢いよく手を挙げて声を出した。
「こいつ体調悪そうなんで、保健室まで連れて行きます」
そう宣言し、僕の体に手を回した。抵抗する気も起きなかったので、されるがままにおぶられる。
そして大勢の新入生を視線を二身に集めながら体育館を後にすることになった。
抵抗する気力はなかったが、こんな風に悪目立ちするのも本意ではなかったので、僕は男子に感謝ではなくちょっとした悪態を吐いた。
「……別に、僕はあのままでも平気だったよ」
「そう? でもまぁ折角だし、おぶられてけよ」
背中越しに聞く男子生徒の口振りは、なんだか他人事の様だった。僕を案じているのは確かだろうが、それはそれとして別の意図を感じる。
「君は、なんでこんなことを?」
「困ってる人を助けるのは当たり前じゃん。あとはまぁ……ひま姉なら、こうするだろうなって思ってさ」
それが、久瀬叶人との出会いだった。
~~~~~~
「ひま姉がいっちばんかわいい」
「多分俺ってひま姉を幸せにするために生まれてきたんだよな」
「ひま姉味の歯磨き粉があればシャンプーもそれでやるわ」
「ひま姉はダ・ヴィンチを肖像権の侵害で訴えれると思う」
「ショートケーキってひま姉みたいだよな、甘くてかわいいもん」
「ひま姉は一、ひま姉は全」
「ひま姉が出した二酸化炭素で光合成してる植物が羨ましい」
「一夫多妻制の国に住みたい。右の三つ編みと左の三つ編みで六股かけても許されるから」
「ひま姉が涙の時には僕はポプラの枝になる」
「多分今でも頼めば一緒にお風呂入ってくれるけど流石にそれはどうかって思ってんだよね」
僕はいつの間にか、壁打ちの壁にされていた。
久瀬は僕と顔を合わせる度にひま姉への想いを吐露し、勝手に浸りだす。僕が強く拒絶しないものだから、それが僕らお決まりのコミュニケーションになっていた。
彼の話はいつも一方的で、妄執深く、重いものだったけれど、僕はそれを、一度も無視したりけなしたりしなかった。どころか、時々会話すら交わしていた。本当に奇妙なことだけれど、僕は彼の話を聞くのが好きだったのだ。
思えば、僕は大切な人への想いを言葉にして確かめることなど、しなくなった。当然だ、僕は兄さんと一緒になり、兄さん自身になったのだから。
彼の真っ直ぐな愛の言葉は、兄さんと一緒になる前の自分と重なる所があって……まるで彼が、僕の代わりに以前の自分を思い出してくれているような気がした。
ついでに、そうして彼と話す度に、頭痛は少しずつ和らいでいった。
知り合ってそれなりに時が経ったある日、彼はこう言った。
「昼ご飯ばっかりはひま姉と別々なんだよな」
「行きと帰りが一緒で、昼食まで一緒だと疲れるだろうしね」
「俺はそれでもまったく疲れないけど」
強くそう言いきったあと、それで……と久瀬は続けた。
「いっつもありがとな」
「……何がだい?」
「いやほら、俺との会話に付き合ってくれてさ」
会話……と言えるほどの双方向性があった時の方が珍しかったけれど、あえて口には出さずにおいた。
「まぁ、君の話は興味深いよ」
「え、恋敵?」
「だったら君とは仲良くしないかな」
「だよな、よかった」
久瀬はぎらついた目を戻して、ほっと息をついた。
「俺さ、小学生の頃も中学生の頃も友達居なくってさ……こんなに話が合う奴と喋るの、お前が初めてなんだよな。だから、その……」
少し照れくさそうにはにかんで、久瀬はこう言った。
「これからも、一緒に昼ご飯食おうな」
その言葉を聞いた時、足にぐるりと鎖をつけられたような気分になった。
元々、今までに昼食を断ったことなどなかったけれど、こうも宣言されてはもしも断りたい時には心苦しいだろう。それはそこそこに煩わしいことで、そこそこに嬉しいことだった。
「こちらこそ……ありがとう」
何か、僕も彼に返したい。
僕は久瀬と向日葵先輩の夢を繋いであげることに決めた。
彼を、僕と同じステージに導く。
~~~~~~
その日の夜、僕は白い空間で久瀬叶人の気配を探った。けれど、彼の夢はどこにもなかった。まだ就寝しておらず、この白い空間に夢が現れていないようだ。
僕は彼が寝るまでの間、先に向日葵先輩の夢へ潜ることにした。向日葵先輩とは久瀬が一緒に居る所を見ていただけだったが、なんとか気配を追い、夢を探し出すことができた。
先輩の夢に入り、話しかけてくる樹木やシートベルトを無視して先輩自身に会いに行く。先輩の気配もきちんと覚えて、スムーズに久瀬の夢と繋げるためだ。
先輩は、メリーゴーランドが厨房を貫いているファミレスに居た。
さて先輩の気配を覚えようと第六感を研ぎ澄ますと、夢の上空に異物が現われるのを察知した。
その異物は僕が降り立った場所と同じ場所に降り立ち、僕と同じ道を歩いてこのファミレスへやってくる。
そしてその異物の気配は、久瀬叶人とまったく同じだった。
「ひま姉、来たよ」
「あ、かな君こんばんは」
僕は瞬時に幼女へと姿を変え、夢の住人のフリをした。久瀬は、僕の擬態に気付かないまま、ファミレスの構造を見回してこう言った。
「また変な夢見てるなぁ」
そして僕は確信した。彼は……久瀬叶人は、僕と同じ潜夢者だ。これが、彼の言っていた勝ちフラグ。
体に暖かい感動が広がる。ああ、僕らは、同じだったのか。
ずっと彼に感じていたシンパシー、その根源を僕は見た。
そんな充足感に浸るのも束の間、新たな問題が浮上する。潜夢者と他者の夢を繋げることはできるのか?
いや、繋げること自体は可能だろう。対象の潜夢者が夢を再展開すれば、今までと同様の方法で他者との夢を繋げられるはずだ。ただしその場合は彼自身の意思が必要であり、僕が一方的にことを進めることはできない。
つまり、真の問題とは、彼が僕の理想を理解できるかどうか、だ。
理解……してくれるだろうか。そんな淡い期待を抱きつつも、頭でそれを冷静に否定する。いくら彼と僕の根が似通っていても、僕だって自身の手のひらで確かめるまでは兄さんとの同化を死と捉えていた。すぐに理解してもらうのは厳しいだろう。
彼を真理に至らせるには、時間と経験が必要だ。
どうすれば彼にそんな経験を与えられるか……ここから先は慎重に考えなければならない。失敗すれば永遠に彼を失うことになるかもしれない。
そんな風に考えている間、久瀬と先輩の会話はあらぬ方向に及んでいた。
「恋人ができたの。同じクラスの、松沢君」
その言葉は僕に強い衝撃を見舞った。
久瀬の狂おしいまでの真摯な愛。先輩はそれを笑って受け入れていたはずだ……あえて言葉にする機会がなかっただけで、二人は両想いなのだと、僕も確信していた。
久瀬はあんなに先輩を愛しているのに、その想いは叶わないのか……そう考えると、まるで自分のことのように悲しくなった。
そして当の本人は僕以上の強いショックを受けて、数秒放心した後、この夢から離脱していった。
「……かな君、飛んでっちゃった」
先輩は呆けた顔でそれを見送った。僕も一緒に見送ったあと、擬態を解いて先輩に詰め寄った。
「……君は、確か御園君」
「向日葵先輩、あなたは本当に……久瀬叶人を何とも思っていないんですか?」
「え~? それ色んな人に言われるけど、私とかな君はそんなんじゃないよぉ。幼稚園の頃から知り合ってるような人、そんな目で見れないよ」
「……嘘だ」
僕は先輩の言葉をどうしても否定したかった。松沢とやらへ向けている想いは一過性のもので、いずれ久瀬を最も好きになると、自分を作り変えるほどの愛が……久瀬叶人の愛が、成就しないはずがないと。
そして僕は松沢の気配を覚えるために、踵を返して松沢への想いがある場所を探した。
全てを解決する方法に気付いた。先輩と松沢の愛が偽物であることを証明し、久瀬が先輩の夢を取り込む状況を作るには。
先輩と松沢の夢を繋げればいいんだ。
・・・・・・
「……それで? その後は?」
病院の前、俺は御園の夢へ潜った……いや、引きずり込まれた。
そこで御園は今までの全てを語り出した。その話の中で、御園は何度も夢を動かして当時の記憶を俺にそのまま見せた。俺はそうして、その全てが真実だと信じざるを得なかった。
そして御園の語りがついに、ひま姉の話に繋がる……というところで、御園は語るのをぱたりとやめてしまった。
「その後は、どうなるんだよ」
「……ここから先は、君も分かるだろう。僕の知らない所で生き残っていた鋳門さんが君と先に接触し、僕は接触の機会を失い、目論見は一度失敗に終わった……けど、鶴崎さん達の夢と伊坂さん達の夢を経て、今度こそ成功した。君は夢の繋がり、同化の果てにある理想を垣間見たはずだ」
「……その後だよっ!」
閉じた夢の中に、声が響く。声を荒げた俺を見ても、御園は白けた顔で俺を見つめるだけだった。
「それで終わりなわけないだろっ、なんか、お前を洗脳して、影から操ってた黒幕とかがいるんじゃないのかよ! そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ、お前が自分の意志で、何人も殺したみたいじゃん……!」
伊坂さんや、俺が知らない間に夢が繋がり、死んでいった人々。それらが全部、御園のせいなわけがない。俺の友人が自分のエゴでそんなことするわけがない。
そんな俺の祈りのような叫びを、御園が肯定することはなかった。
「殺した……というのは解釈の相違だね。僕はただ二人の愛を試しただけさ。それに耐えられなかった者の末路など、知ったことか……黒幕なんていないよ。僕がしてきたことは全て、僕の意志だ」
「……そんな……」
俺が打ちのめされている間に、御園はゆっくりと剣を作り出しながら、俺に尋ねた。
「一応聞くけれど、向日葵先輩の夢と繋がる気になったかい?」
「……あるわけ、ないだろ!」
次の瞬間、御園が持つ剣が鈍く光り、俺の腕を切り落とした。
「なっ……!」
俺が落とされた方の腕を掴み、断面を修復しようとしている内に二太刀、三太刀が飛んでくる。
「夢を繋げて『同じ』になれば、恋心だってすぐに取り戻せるだろうに……やっぱり、まだ早かったみたいだね……伊坂さん達だけじゃ足りなかったか」
御園がぶつぶつと呟きながら俺の体をバラバラに刻もうと剣を振るう。しかしそのどれもが急所を外した斬撃だったため、俺はなんとか瞬時に回復を続けることで体の形を保つことができていた。
「やめろ御園! 俺は……」
「……大丈夫だよ。別に鋳門さんのように君を殺すつもりはないんだ……ただ、もう一度チャンスをくれないか」
剣を振るいながら、御園は言葉を続ける。
「君の記憶から、今日話したことを、全て消す。またやり直させてくれ。次は、もっとうまくやるから」
「うっ……おおおっ!」
神経を集中させて、夢から目覚め離脱しようとする。すると体が上空の水面に向かって浮かび上がった。けれど水面に体が触れる寸前に気付く。
御園の夢の空は、鎖で覆われていた。
「ぐっ……」
浮上は鎖に阻まれそこで止まり、体はそのまま落下し始めた。地上の御園から声が聞こえる。
「無駄だよ……僕の夢は、きつく閉じてある。何も逃がさないようにね」
上空で落ちながら御園の夢を見渡すと、そこかしこにある輝く煙が目に付いた。それは伊坂さん達の夢の中で見た、夢が消えていく時に出る煙に似ていた……けど、伊坂さん達のそれとは様子が違った。立ち消えて行くだけのはずの煙が、どこにも消えず、夢の中を滞留しているのだ。
御園の夢から、目覚めることはできない。
「だったら……お前が起きろ」
俺は現実の俺に意識を集中させ始めた。現実の俺が夢の中の俺を操縦しているのなら、その逆だって可能なはずだ。
次の瞬間、俺は病院の前に居た。視界には振り抜かれた俺自身の拳と、口の端に血を滲ませてよろめく御園が居た。
「痛みで、強制的に僕を覚醒させたか……随分、能力を使うのが上手いじゃないか」
御園は痛みに顔を歪ませながらも、血を零しながらぎらついた笑顔を作った。
「それで、どうする? 僕が許せないというなら……このまま僕を殴り殺すか?」
両手を広げて御園が俺を煽る。
俺は御園を、どうするべきなんだ? 拳には嫌な感覚がへばりついている。他人へ振るう拳は、重い。
それでも、こいつは何人も人を殺した。許されないことをした。そしてそれを裁けるのは、俺しかいない。
「俺は……」
「まぁ、なんにせよ不可能だろうけどね」
御園がそう言うと、ぞわり、と強い悪寒が俺の体を走った。虫の知らせや悪い予感とは別種の異変。体が気怠く、重くなっていく。
「お前……俺に何をした?」
「僕は何もしていない、君が僕を拒絶したんだ……君が言ったんだよ。現実と強い繋がりを持たない人間が、他人の夢に入るとどうなるか」
次に、思考が暴走した。
いつか夢の住人と会話した時のような、支離滅裂とした思考が頭の中に広がり、際限なく加速していく。自分のまともな部分がどんどん消えていく感覚がする。いずれこの思考が正常でないことすら把握できなくなるだろう。
最早目の前が夢の中じゃなく、現実であることにすら違和感を覚えるようになった。お前はこの世界の住人ではないと、目の前の景色が俺の全身に宣告する。
「やはり、もう君にとって僕は、友達ではなくなってしまったんだね……」
据わった瞳が、俺を射抜く。
「それでも僕は、君を友達だと思っているよ」
御園は目を伏せて、踵を返した。それを追いかけようとしても、脳が出す命令は足に辿り着く前に狂気で塗りつぶされて消えていく。
わずかに残る理性で、その場から去って行く人間の名前を叫んだ。
「御園……っ、御園ぉ!」
「夜、君が完全に夢の住人になる頃……今度こそ今日の記憶を消しに行くよ。そこでもう一度、友達になろう」
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