第20話『一難去らずにまた一難さらにもう一難』

山道を下る途中で東の空が紫がかってきた。依然として視界は狭く大脇の懐中電灯だけが足元を照らす。


「なあ、少し休憩しようぜ」


小屋を見つけたセイラが提案した。


「またかよ。もうこれで3回目だぞ、若い癖に我慢できないのか」

「アタシは一睡もしてないんだ。お前こそもう50過ぎだろ、働きすぎは体に毒だぞ」

「まだ52だ。ほんの数年前までは48時間連続勤務なんてこともあった、誰かさんのせいでな」


大脇がセイラの顔をチラ見した。


「だからこそだよ。長年アタシが酷使させちまったお前の体を今日くらいは労わってやろうってんだ。なにも自分のためだけに休みを申し出てるんじゃねぇ」

「ふん、どうだかな。いいか、これが最後だぞ」


――うまく話に乗ってくれたな。適当に時間を潰して明るくなるのを待てば逃げ道を確保しやすくなるはずだ。


大脇が折れて話がセイラの思惑に傾き始めたそのとき、セイラは小屋へ向かう足を止めた。


「おいどうした、休むのは小屋に入ってからにしろ」

「しっ、静かに」

「なんだ、また叫び声でも聞こえたか」


セイラは声を出さないようにしながら首を横に振った。

そのまま耳を澄ませると、カサカサと草をかき分ける音が聞こえた。音がしたのは小屋の右隣の草むらからだった。


セイラの緊張感を読み取った大脇が草むらのほうをそうっと振り返り、音がした方に懐中電灯を向けた。草むらの中で小さな二点が光って見えた。それは紛れもなく獣の目だった。


「プギィーッ!」


光を向けられて驚いた獣が鳴き声をあげた。その特徴的な鳴き声、照らされた鼻の形状。ミカン農家の天敵をセイラが見間違えるはずがなかった。それはまさしくイノシシだった。


――そういえば倉庫に向かう途中、何度も捕獲用の檻を見つけた。檻があるってことは、そりゃあイノシシがいるってことだよな。


「なんだ、ただのイノシシか。脅かしやがって」


大脇は落ち着いて腰のホルスターから拳銃を取り出しイノシシに銃口を向けた。


「待て大脇、撃つな!」

「安心しろ、ちょっと驚かせて追い払うだけだ」


イノシシを害獣として駆除する時に猟銃を使うほか、農家がエアガンで追い払うこともある。イノシシは臆病ゆえ学習能力が高く、銃を持った人間を見ると近づいてこない。

それに加えて発砲音がすれば恐れて逃げ出すだろう。過去に猟銃講習会の開催を手伝った時に猟友会から聞いた情報を元に大脇はそう考え、拳銃の引き金をゆっくり引いた。


パンッ――


拳銃の乾いた音が響いた。しかしどうしたことか、イノシシは逃げ出すどころか大脇に向かって一直線に突進してきた。


「な、なにっ!」


大脇の考えが甘かった。そもそも暗いうえにイノシシは視力が良くないから拳銃は見えていない。見えないものを恐れるはずがなかった。

そしてもう一つ誤算があった。それに先に気付いたのはセイラだった。


「何やってんだ馬鹿野郎!腹の傷が見えなかったのか!」


イノシシの左の脇腹に肉をえぐられたような深い傷があった。猟銃によるものだろう。もしかしたら、先日若い漁師が仕留めそこなって襲われたっていう事故のイノシシかもしれない。


「手負いのイノシシは危険だ。大きな音を出せば逆に興奮させてしまい何をするか予想がつけられない。そのくらい分かるだろ」

「それをもっと早く教えてくれ」

「てめぇがさっさと撃っちまうから言いそびれたんだろうが」

「今は争ってる場合じゃねぇ。とにかく逃げるぞ」


――争ってる場合じゃないって、お前が原因を作ったんじゃないか。


「逃げるったってどこへだよ」

「あそこだ」


大脇は今来た方角にある大きな木を指差した。


「あれに登ってやり過ごす」

「木に登るだって?やっとアタシの手錠を外してくれる気になったか」

「ふん、貴様はその格好でも木くらい登れるだろ」


そう言いながら大脇はするすると木に登ってしまった。


「ふざけんじゃねぇ、民間人を置いて一人逃亡とはそれでも警察か!」

「なんだ、登れないのか。そいつは都合がいい。貴様が怪我を負えば警察署に連れて行くのが楽になるからな」

「どこまでも救いようのない根性しやがって!覚えてろよ!」


イノシシは狙いをセイラに変えた。


「どうしてもってんなら、鍵くれてやってもいいぞ」


イノシシがセイラの3メートル手前に迫ったところで今更大脇は手錠の鍵を見せつけた。


「遅ぇんだよ!」


セイラは持ち前の反射神経ですんでの所でイノシシの突進を交わした。


「なんだよ、まだ全然元気そうじゃねぇか。その分だと休憩したいってのは嘘だったみてぇだな」


木の上で高みの見物を決め込んだ大脇が余裕そうにセイラを物色した。


「そのぶんだと鍵は必要なさそうだな」

「いや、くれるってんならありがたく頂戴するぜ」


セイラは大脇が登った木に体当たりした。


「おっと」


木が揺れて大脇は慌てて幹に強くしがみつき、落下するのを防いだ。


「危ねぇことしよって。だがこの通り、鍵はちゃんと手元にある」

「調子に乗ってられるのも今のうちだぞ」


セイラが再び木を揺らそうとしたその時、イノシシがUターンしてきてまたセイラ目掛けて突進してきた。


「あっぶね!」


何とかかわせたが、気付くのがあとほんの少し遅ければぶつかっていたかもしれない。全速力でぶつかってしまえばバイクに轢かれたのと同じくらいの衝撃で、セイラといえど軽い怪我では済まないだろう。


――イノシシが邪魔で木が揺らせない。ひとまずヤツをやり過ごしてから続きをやるか。視界が悪いから遠くへ逃げるのは危険だ。かといって木に登ることもできない。近くでイノシシを凌げそうな場所といえば他には小屋くらいだ。よし、あそこへ向かおう。


セイラはイノシシの動向に注意しつつ小屋に速足で向かった。

手錠をはめられたままの手でドアの取っ手を探った。引き戸だということは分かったが、建て付けが悪く中々開いてくれない。


「くそっ、早く開いてくれ!」


後ろ手にドアを揺らすたびにギイギイときしむ音がした。イノシシは扉の音に反応し向かってきた。


――仕方ない、いっそ扉をぶち壊すか。また大脇に余罪増やされるだろうが、四の五の言ってられない。


セイラは扉の正面に向き直り、体当たりした。アルミ製の扉は小屋の奥に吹っ飛び、小屋の中にあった机にぶつかりガシャンと派手な音を立てた。

小屋には入れた。しかし扉が無いせいでイノシシからセイラまで伸びる一直線上に進路を阻む物は依然として何もない。扉を壊した意味はまるで無いように思えた。


――くそっ、何か手は無いのか…。落ち着け。小屋の中に役に立つものがあるかもしれない。


セイラは今自分が入って来たばかりの小屋の入り口の横に二つのスイッチを見つけた。どちらかが小屋の灯りを付けるスイッチだと思い、両方のスイッチを押した。

蛍光灯は古いせいか何回か点滅してからついた。もう一つは換気扇のスイッチだったようだ。部屋の中にあったのは机、椅子、電気ストーブ、軍手、やかん、コップ等々。セイラの目線があるものを捉えた。


――あれを使えばイノシシを追い払えるかもな。


小屋の壁には刺又さすまたが立て掛けられていた。不審者を取り押さえるために使われるものとして有名だが、害獣対策でも用いられることがある。

セイラは腕を脚の下をくぐらせ体の前に持って行き、刺又を手に取ろうとした。まさにその時、イノシシが小屋の中に入って来た。


「フガッ、フガッ」


イノシシは鼻息を荒くさせている。腹の傷が痛むのだろう。そのお陰で全速力で走れず、セイラに時間の余裕ができた。だが刺又を手に取ることは許されなかった。

小屋には明かりが点いているのでイノシシは刺又を目視し、それが自分にとって危険なものであることを瞬時に察した。セイラに刺又を取らせないよう刺又の前で陣取った。


「畜生の分際でこのアタシの邪魔するたあいい度胸だな」

「プギュィィーッ!」

「その度胸に免じて今日のところは許してやる。だからとっとと失せな」

「プギャーッ!!」


イノシシに言葉が通じるわけが無いが、煽りを感じ取ったのかさっきまでよりさらに強い怒りを面に出した。


――さて、どうしたもんか。他に武器になりそうなものは無い。小物をぶつけても壊されるだけでヤツにはダメージは与えられないだろう。日が明けるまで時間稼ぎするのも難しそうだ。何か手は無いか。


セイラはイノシシへの警戒を怠らないまま部屋を見渡し、柱に備え付けられた非常用の懐中電灯を見つけた。


――あれだ。懐中電灯が自由に使えれば大脇に頼らなくても自力で山を下りられる。手錠の鍵は諦めて家に帰ってから工具を使って無理矢理開けることにしよう。


脱出までの筋道を思い立ったセイラはすぐさま行動に移った。

まずは軍手を二枚はめつつコップなどの小物をイノシシの前の床に転がした。イノシシは小物の臭いをかぎ様子をうかがっている。

その隙に柱まで忍び足で近づき懐中電灯を手に取った。確認するとちゃんと明かりが点いた。

後は悟られないように出入口まで向かうだけだ。窓はあるが人間が通れるような大きさではない。牽制のために小物を投げながら何とか出入口までたどり着き、ついに外に足を踏み出した。


――よし。これで後は逃げるだけだ。


「プギャー!」


逃げようとするセイラに気付きイノシシが向かってきた。


「悪いがここで一時休戦だ。もうお前とは会いたくないが、もしうちの畑に現れてみろ、その日の我が家の献立に肉料理が増えることになるぜ」


そう言い残しセイラは懐中電灯を頼りに山道を天狗や山伏のようにもの凄いスピードで駆け下りていった。あまりの速さに手負いのイノシシは追い付けず、走るのを諦めた。




登りと別の道を通ったせいで時間がかかり、麓に着いた頃には東の空がオレンジ色に変わっていた。

違う場所に出たのでもちろんレオナのバイクは停まってなかったが、その代わりにパトカーと普通の乗用車が一台ずつ停まっていた。パトカーは大脇の乗って来たやつだろう。


――ここから家までは遠いし、あの乗用車に乗っけてくんないかなぁ。なんて、そんな都合よく話がまとまる訳無ぇよな。


仕方なく歩いて帰宅しようとしたその時、乗用車の運転席から男が降りてきてセイラに話しかけた。


「やあお姉さん、今から帰り?この時間寒いでしょ、良かったら送ってあげようか」


セイラは内心驚いた。男の誘いが本当なら申し分ない。しかしからかわれているのだと思い相手にしなかった。


「おーい、聞いてる?もしかして寝たまま歩いてたりする?」

「聞いてるよ。女を騙そうって嘘臭い男の声が聞こえてるさ」

「酷いなぁ。俺はお姉さんが心配で声掛けたんだよ。俺が嘘吐きの顔に見える?」

「見えるね」

「見えるって、さっきから一度もこっちを見てないじゃないか。見もしないで決めつけるのは頂けないね」

「うっさいな、見りゃいいんだろ!」


セイラは嫌々男の顔を見た。一瞬顔を見てすぐ前を向いて無視を決め込もう。そう思っていた。

だが男の顔を見た途端、セイラは背筋が凍る思いをした。その顔に見覚えがあった。レディース時代、大脇と同じくらい、あるいはそれ以上にしのぎを削った警察の人間がいた。そいつが今、目の前にいた。


「お…大鷲崎おおわしざき!」

「やあ、やっと気づいてくれたね。久しぶり。元気してた?」


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鉄拳のセイラと半グレの魔法少女 ~元最強レディース総長はフリルスカートの夢を見る~ アカイロモドキ @akairo_modoki

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