29.「孫子」第十一章・九地編/5

 ただ、「外国の趨勢」や「進軍先の地形の把握」「その土地に通じた案内人の確保」は、兵士の質とは別に重要です。なぜならそれをおろそかにした者が天下の支配者になったためしがないからです。


 支配者になろうとするのなら、兵士の質とこれら三つの「情報」には常に気を配るべきです。

 さすれば、大軍相手でも自由に分裂させて各個撃破できますし、そうして敗走した軍ばかりになれば大国といえども安寧ではいられません。

 敵国が安寧ではなくなり、自国が連戦連勝と勢いがつけば、今まで様子見や敵国にいやいやついていた国々とも連携が取れるようになり、相対的に相手の国力はみるみるうちに減衰します。

 それが進めば、こちらがあえて何をしなくても各国は自分たちに協力を申し出るようになりますし、脅しすかしなどの方法を採らなくても、敵国征伐の連合軍の筆頭に立つことが可能になるでしょう。

 そうなれば、どんな城もどんな国も思いのままに落とすことが可能です。


 ここまでした上で、より勇敢に戦ったり、有利な土地を奪ったりした者には通常の報償とは別に特別なボーナスを与えるようにし、禁則を侵した者にはより厳しい罰を課していく。そうすることで、軍はよりコントロールしやすくなって、もはや何万何十万と集まれども一人を相手にしているようなもの、将軍の責務も個人を相手にするような楽なものになっていくでしょう。


 軍を扱うためには、余計なことは言わないのが大切です。

 一度指示を与えたら、そこに何が待っていて何を得るために戦う――みたいな説明は不要です。そうした情報はかえって戦いの時にノイズとなって、兵士の「ただ戦えば、武器を振るえば、敵兵を屠れば良い」みたいな目標にひびが入ります。

 仮に何か言うとしても、兵士が思わず戦いたくなるような大きな目標や立派な大義名分だけ与えておいて、それにともなうデメリットは隠しておきましょう。その辺りの差配はまた別の人間の役割です。

 とにかく死地に抛げ入れ、目の前の敵を斃すことに專心させる。

 戦わなくては生き残れない状況に陥らせる。

 それらができてこそ、初めて戦争の勝敗をコントロールできると言っても過言ではありません。


◇◇◇


 戦争を行う上で大切なのは、敵の情勢を把握して、うまくそれに付け入ることです。

 その上で決死の状況を「作り出し」、味方が逃げぬうちに敵国深くへ鋭く切り込んで、相手の将軍を斃して軍を破る。

 戦争巧者のやり方を突き詰めれば、そういうことです。


 敵国と戦いになれば国境は封鎖され、往来は閉ざされ、使節のやり取りもなくなります。いわゆる戦争状態への突入ですが、だからといってただちに「戦闘」が行われるわけではありません。

 何度も言うように、本来戦争とは、相手が戦わずして屈服するのが一番です。武器を突きつけ合わせるのは、次善の策でしかありません。

 ですから、まずは君主や文官や外交官らと膝をつき合わせて、敵国の気持ちを萎えさせる方策を練ることに專心すべきでしょう。


 その上で戦闘した方が良く、また相手に隙が見えてきた――となれば、ただちに軍を編成し(もしくはあらかじめ練兵しておいて)、進軍して相手の弱点をひたすらに攻める。

 地形と軍形と士気に気を配りながら、こちらが何を言わなくても阿吽の呼吸で動いて、最終的に勝利してしまう。「何も言わないのに勝利する」というのは、このように状況に応じて準備に準備を重ね、戦場においては指示のみ徹底し、兵士には「ただ前の敵を屠れば良い」とのみ述べてそうせざるを得ない状況に陥らせることを言うのです。

 こうすることで、最初は静かに、いざという時には「脱兎の如く」俊敏に動くことが可能になります(※脱兎の如くの語源)。

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