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そのまま立ち去ればよかったのだが、俺はトニーの事が何となく気になり、その人影の後を追った。
トニーを連れた人影は平屋の古い民家に入った。周囲を探索してみると、その民家の小窓の一つが僅かに開いていることに気付いた。いざとなればここから入ればいい。だが俺は念のために敷地を囲む塀の上で中の様子を窺う事にした。
しばらくするとトニーの叫び声が聞こえてきた。
それは、「くそうっ! やめろババア! ぬるま湯を俺に掛けるんじゃねえ!」だとか、「柔らかいタオルで俺を優しく包み込むな!」であったりとか、「適温のミルクを出されても俺は絶対に飲まねえぞ!」ということや、「覚えていろよ、ババア! 俺のダチにはブルーノがいるんだからな!」こんなことが、俺の猫耳にまで届いていた。
またしばらくすると、民家からさっきの人影が出て来た。すこし大きめのカバンを手にしているのでそのまま外出するのだろう。
俺はその隙に目星をつけていた小窓から民家へ忍び込んだ。忍び込んだ部屋には上手い具合にトニーがいた。トニーは不貞腐れた顔をしてミルクを舐めている。
「よう、トニー」
「ブ、ブルーノ! どうしてここに!?」
トニーは目を真ん丸にしていた。ただ、ばつが悪かったのか俺からかすぐに視線を逸らす。
「あ、いや、その、もしかして、さっきの聞こえてた?」
「なんのことだ?」
「あー、別に。聞こえて無かったんならいいよ……」
俺もそこを追求するほど悪いネコじゃない。ただあの人間とトニーの関係性は確認しておきたかった。
「ところでさっきの人間って、お前んところの?」
「うん、そうだよ。俺の『飼い主さま』だよ」
「そうか、そういえばさっきは聞きそびれたが、何だって野良のお前が家ネコになったんだ? それにこの四丁目も随分と変わったじゃないか」
俺がここまで他のネコに興味を抱くのは珍しい。負けネコになって心境がちょっと変わったからなのかもしれない。
「そうか、アンタが知るわけないよな。そうだな、確かあれはアンタが四丁目から出て行ってすぐのことだったよ、保健所の連中がこの町に押し寄せたんだ」
そこから後は大体の想像がつく。保健所の連中は俺たち野良を取り押さえて、後は(ネコだが)ブタ箱に押し込んだのだ。それでこの四丁目からは綺麗さっぱりと野良がいなくなった。
「……そうか、だが、お前が家ネコになったのは何故だ?」
「まあ、それは簡単なことさ」
トニーにしては苦々しい思い出だったのだろう。毛玉でも吐き出すような顔をして話を続けた。
「俺は保健所の連中に追われてこのババアの家に逃げ込んだのさ、この時ばかりは俺がチビであるのを幸いに思ったよ。ババアは俺を子ネコと勘違いしたのか、俺を匿ってくれたんだ。それでそのままここで世話になってる」
「そうか、それは良い人間に拾われたな」
「どうかな? 今となってはよく分からない。これでこの町の野良は俺だけが残されたんだ。あ、いや、アンタを含めて二匹だな」
そしてトニーは身体の水気を取る様に身震いした。それで先ほどよりは少しはましな顔に戻った。
「もう俺の話は止そう。アンタの話も聞きたいな。アンタの武勇伝は風の噂で聞いているんだよ! 五丁目の連中を締めた話は痛快だったな! あいつらいつも俺らにちょっかい出してたからさ!」
「それはもう終わった事だ。特に話す事はない」
「そ、そう? 残念だな。でも、俺は話したんだから、少しくらいはアンタの話しをしてくれても……」
トニーは俺の身体をまじまじと眺めた。ただある位置に視線が移ると遠慮がちにこう言った。
「……そ、その尻尾だけどさ」
「ああ、これか? ちょっとな」
「噂は聞いている。マーティン、だろう?」
”ボスネコ” マーティン・キャット。そいつの名前を聞いた時、俺の無くなったはずの尻尾が疼いた。
「そうか、猫耳がはやいな」
「これも風の噂だけど、マーティンの野郎はまだアンタを狙っているらしい。しばらくはこの町にいたほうがいいよ」
「ああ、そうだな。そのつもりだよ」
俺の今の言葉は本心からだった。俺はこの町にいるつもりだ。というよりも、ここで俺は俺を終わらせるつもりだった。
俺は野良の本能に従って、この町でひっそりと一匹で死のうと考えていた。
「……ブルーノ」
「なんだ?」
「でも、やり返すんだろう?」
俺はトニーの言葉にすぐに返事ができなかった。
「マーティンの野郎をぶちのめすんだろう?」
俺はトニーの顔を見ることが出来なかった。
「……ああ、いずれな」
だからせめてその場しのぎの嘘で自分を誤魔化すことにした。
「そ、そうか! よし、それなら俺にも協力させてくれないか!」
「お前が?」
「そうだよ、俺が、だよ! 俺だって昔は野良だったんだ。それに今は家ネコ界隈じゃそれなりに名は通っているんだぞ! 俺が一声かければ、十匹、いや二十匹は猫の手も借りられるぜ!」
「だが、全員家ネコだろう?」
「そ、そうだけど……」
少しトニーにも悪い気がしたが、これが正しい判断のはずだ。家ネコに関わると人間が出しゃばってくるので後々が面倒だ。だから俺はトニーに尻尾を向けた。
「じゃあな、トニー」
「え? ちょっと待ってくれ、せっかく会ったばかりなのに!」
「俺なんかに関わっているとダニが移るぞ。お前んところの人間に迷惑がかかるだろう?」
「そんなの気にしないさ、あんな変態ババアなんかよりアンタの方がずうっと大切だよ!」
「だが、カタギに迷惑かけるわけにはいかない」
「……カタギって、ブルーノ、そんな寂しいこと言わないでくれ」
「悪いな。だがもう無理なんだよ。さよならだ、まめ太」
俺は出口の小窓に目を向けた。何かぶつぶつ言うトニーを無視して跳躍しようと身体を屈めるのだが、俺の意志より先に身体が勝手に宙を舞った。
──まあ、なんでネコちゃんがこんなところに? もしかしてあなた、まめちゃんのお友達ね! あら可愛そうに、怪我をしているじゃないの!!
それは俺の猫背がピーン!と伸びた初めての瞬間だった。
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