猫を被って生きる

そのいち

 俺は負けネコだ。


 縄張り争いに敗れ全てを失った俺は、生まれ故郷である四丁目へと逃げ延びた。意識してにここに向かったつもりはなかった。ただ肉球が勝手に向かった先が四丁目だっただけだ。


 そてにしても、しばらく見ない間に四丁目も随分と変わっていた。


 かつての四丁目は、縄張りを示す強烈な糞尿の臭いが立ち込め、尻尾が千切れて傷だらけのオスたちは悪態を吐き、マタタビ狂いは涎を垂らして路上で転げまわり、色が混じったいびつな毛並みの子ネコどもはゴミ山を飛び跳ねていた。


 だが、その面影はもうここにはない。

 いや、そもそもネコがほとんど見当たらない。


 唯一見かけたは毛並みの整った家ネコくらいなもんだ。去勢されて闘争心をなくした家ネコどもは何をするわけでもなく無意味に日向で寝転がっている。


 この町にかつての面影を残すのは、今は俺の一匹くらいだろう。


「なあ、アンタ」


 耳障りな猫なで声が俺の猫耳に入った。


「もしかして、”噛み付き” ブルーノじゃないか?」


 このネコは俺の名前を知っていた。一瞬、追っ手かと疑ったが、なんてことはない。明らかにそこらにいる毛並みの整った家ネコだった。それならわざわざ相手にする必要はないだろう。


「なあ、無視は止してくれよ、”噛み付き” ブルーノ」


 家ネコっていうのは変わった連中だ。去勢されたらオスに興味が沸くのか? この家ネコはメスネコのように俺の後をついてくる。


「なあ、ブルーノ! 待ってくれよ、ブルーノ・キャット!」


 騒々しいヤツだ。それに俺が何で無視をしているのか分からないほどに間抜けなヤツでもある。


 ただ、俺も落ちぶれたもんだ。少し前の俺ならば、こんなにも馴れ馴れしく話しかけて来るネコなんて一匹もいなかった。しかもこんなチビの家ネコなんかにだ。


 ただこれが負けネコなんだと、改めて実感した。


 とはいえ、俺にも一応の野良としての矜持が猫の額ほどは残っていたらしい。ここまで嘗められるのは猫ヒゲに障った。


「おい、チビすけ」

「へへ、やっぱりそうだ、本物の”噛み付き” ブルーノだ」

「知ってるか?」

「え、なにが?」

「俺が ”噛み付き”って呼ばれている理由だよ」


 家ネコはきょとんと首を傾げた。どうやら家ネコっていうのは喧嘩の作法を知らないらしい。それが俺としてはちょっとしたカルチャーショックだった。


 だが、それならそれで俺はいつもの手順を一つ飛ばすだけだ。

 俺は間抜けの首元にすかさず噛み付いた。


「ギニャーッ!」


 通常ならば野良ネコの喧嘩は威嚇から始まる。野良ネコっていうのはむやみに手傷を負うのを恐れて、たいていの場合その威嚇で勝負を決めようとするのだ。だが俺の場合はその威嚇すらすっとばしてすぐさま相手の喉元に喰らいつく。後は牙を突き立てればおしまいだ。要は殺るならさっさと殺っちまえばいいってだけのこと、それで俺は喧嘩で負けた事は無かった。


 つまり今回の場合もこれで喧嘩はおしまいのつもりだった。


「や、やめろよ、ブルーノ! 俺だよ、トニーだよ!!」

「はあ?」


 この家ネコは妙なことを言いだした。それは俺がよく猫耳にする命乞いとは少し違った。


「ほ、ほら、ガキのころ生ごみを漁ったのを覚えてないか!? マグロの切り身を見つけて一緒に喜んだろう? あの時に一緒にいたトニーだよう!」

「……トニー? あのチビの?」

「そ、そうだよ、チビのトニーさ! 今も変わらずチビのまんまだろう?」


 トニーのことは覚えている。俺がガキのころに俺の尻尾を追っかけるトニーってチビの野良ネコがいた。


 だが、自分をトニーと言い張るこいつは家ネコだ。俺が知っているトニーはこんなに小奇麗な家ネコなんかじゃない。


「いや、だが、お前がトニーって……」

「確かに見てのとおり今の俺は野良じゃない。それにトニーじゃなくて『まめ太』って呼ばれてる……。だけど俺はトニーだよ! 見た目や名前は変わっても俺はチビな野良ネコのトニーだよ!」


 俺は懸命に捲し立てる家ネコから突き立てた牙を離してやった。

 それはこいつをトニーだと認めることにしたからだ。


 まあ正直なところ、こいつの情けなさに俺が根負けしただけだった。


「すまなかったな、トニー。いや、まめ太か……」

「いてて、へへ、大丈夫だよ。これでも俺は元野良ネコさ、頑丈なんだよ」


 そう言う割には引き攣った顔で身体を捩らせいた。

 猫我慢しているのだろう。


「それにしてもアンタに『まめ太』って呼ばれるのはむず痒いな。昔みたいにトニーって呼んでくれないか?」

「ああ、分かったよ、トニー」


 俺もこいつを「まめ太」と呼ぶのはむず痒い。俺の知っているトニーはいつも泥だらけで毛の色が何色かも分からない小汚いヤツだった。だからこいつをトニーと認めた以上、今更「まめ太」なんてお上品な名前で呼ぶのも俺には難しかった。


 とはいえ、今のトニーの変貌っぷりには驚いたのも事実だ。


「……それにしてもお前、ずいぶんと変わっちまったな」

「へへ、まあね、色々とあってさ。でもアンタはちっとも変わらなくて俺はなんだか嬉しいよ」


 そう言ってトニーは照れ臭そうに笑っていた。

 それに俺は居心地の悪さを覚えた。


「そうそう、ほら、いつだったか、前にもアンタが──んニャ!?」


 と、話しも終わらないうちにトニーの毛が逆立つ。


「どうした?」

「え、ええっと、ごめんブルーノ、出会ったばかりで悪いけど、話しはまた後でしよう!」


 騒々しいヤツなのは昔とちっとも変わらないようだ。トニーは尻尾を巻いてその場から立ち去ろうとした。


 ただ、俺としてはこれでトニーとは二度と会うつもりはない。最後にガキの頃の連れに出会えただけで負けネコの俺には充分だ。


「ああっ、ごめん! やっぱり助けて、ブルーノ!」


 その叫びと同時にトニーの身体が宙に浮かんだ。一瞬、何が起こったか分からなかった。ただ冷静になって見てみれば、巨大な人影がトニーの身体を摘まみあげていたことに気付いた。



──まあ、まめちゃん、またお家から抜け出したのね。まったくもう、悪い子なんだから!



 まめ太はそのまま大人しく連れていかれた。


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