11.音の無い森

 翌日、僕は朝食をゆっくりと食べてから機体に乗り込んだ。操作方法は知っていた。誰もが皆、そういう性質を持ってそこに“いた”。僕だって例外じゃない。

 僕は空を見上げる。今日も真っ青な空と厚ぼったい雲の真ん中に小さな穴が開いている。薄く引き伸ばされたかのように、青色はその濃度を変えている。エンジンの振動と轟音が凄まじく、全身がびりびりと震えるのが分かった。車輪のロックを外し、エンジンを完全に解放する。ゆっくりとしたスタートから徐々に加速していき、景色が把握し切れなくなっていくのを目にする。スピードに全身を押さえつけられる感覚に震えながら、タイミングに合わせて右下のレバーをぐっと引っ張り上げる。機体の上体が僅かにあがる。地から離れ、空へと飛んでいく。

 地面に、小さな銀色が見えた。小さな花の蕾があった場所だ。僕はそこに美奈のラジカセを置いていた。

 もうこの世界には他に何もない。僕が飛び立ったらあの基地でさえ飲み込まれてしまうかもしれない。世界は完全に閉ざされてしまうかもしれない。それでも僕はそのラジカセを花のあった場所に寄り添うようにして置いた。

 この世界に新しく花が咲くなんてことはありえない。もしかしたら見間違いかもしれない。けれどもしそれが本当だったなら、やがてそれは成長し、立派な花びらを広げることだろう。長い年月を経て、彩り豊かな草花へと変化するかもしれない。もっと長い時間が過ぎれば、森にだってなるかもしれない。だったらそんな静けさに満ちた森の中で、何かの拍子でラジカセが起動して、彼女の歌が響けばいい。

 僕はレバーをもっと引っ張り上げる。さらに機体は上昇し、空の穴を目指す。光が迫る。眩しく、白い光。青色が周りに広がっており、遠い国の出来事のように感じる。絵の中の風景のように、その風景に吸い込まれるように、僕は空へと昇っていく。

 ……ねえ、私達どうして選ばれなかったの?

 美奈の言葉が響く。僕はもう一度聞き返す。


「選ばれていれば幸せになれたの?」


 僕達はこの一年間、甘い生活に溺れていた。彼女と暮らし続け、彼女を抱き、彼女の歌を聴き、共に散歩をした。けれど彼女はいつもの疑問を口にし、その質問を僕がはぐらかし続け、やがて会話を失った。彼女は尖った目でよく僕を見つめ、悲しみの色を目に宿した。

『わかってるくせに、どうして?』

 彼女が最後に口にした言葉。今も頭に残っている。

 そして昨日、彼女は久し振りに僕と話し、死んだ。自殺だ。こんな世界で、そんな死に方でいなくなってしまうなんて、それもまたひどい終わり方だ。

 僕は空の穴へと入ろうとする。光があまりにも眩しく、目を開けていられない。瞼を閉じると涙が零れ出す。どうしてかはわからない。けれど言葉がせっつくように溢れ出す。

 ……ごめん、美奈。


「ごめん……」


 彼女とよく近くの公園へ行った。神谷との一件の後、僕達は明らかに熱を失っていた。僕は別れようと言った。彼女は首を横に振った。どうして、と僕が呟くと、彼女は両手で顔を覆い、泣きだした。

 僕は、どんな人も僕なんかと一緒にいるべきじゃないと思っていた。今も。それに彼女が苦しんでいるのなら、楽にしてあげるべきだとも思っていた。それが、僕に出来る唯一の事だと、信じていた。そんな僕の服を引っ張って、彼女は呟いた。


 ……嘘つき。


 エンジン音で現実に帰る。ああ、そうだ。僕はいつだって嘘つきだ。

 機体の先が空の穴の中に入っていく。青い空の向こうにもうひとつの、もっと青い空がある。誰もが目指した、遠い空。未だ見たことの無い青さのような、そんな気がする。

 ――不意に、動きが止まった。

 エンジン音が徐々に失われていき、僕は一瞬の間、空中に留まっていた。空の穴に僅かに到達しながら、ゆっくりと墜ちようとしていた。


「いいのか? 僕を切り捨てて」


 僕は空の穴に向かって語りかける。


「僕だって、誰かに愛されるのに?」


 ゆっくりと落下が始まり、そこから異常なまでの加速が入る。重力に引っ張られる全てに全身を潰されそうになり、呼吸が苦しくなる。空が遠ざかり、光も遠くなり、僕は目を瞑る。何もかもが壊れていってしまう気がする。その奥で、どう足掻いても壊れないものがあのテープに吹き込まれていた曲を子守唄にして眠っている気がする。

 この気持ちの名前、何だっただろう。まるで最近見なくなった夢の中に色々なものごと置いてきてしまったかのように、ずっと思い出せないでいる……。


 目を開くと、僕が落ちゆく先に青々と茂った音の無い森が見えた――気がした。

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音の無い森 夕目 紅(ゆうめ こう) @YuumeKou

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