第23話 水原

「何でもないです」

 直人は目の前に現れた水原を見上げた。


 避けていたわけではないが、二人きりになるのはあの時以来だった。直人は少し緊張している自分に気付いた。誰か来い。誰か。二人きりは、なんだか困る。

「笑ってなかったか?」

 直人の戸惑いを知ってか知らずか、水原が訊く。

「え?…笑ってた?」

 直人は訊き返した。

 そうだったっけ。

 数秒前の自分が思い出せない。

 緊張し過ぎだぞ、と直人は自分に言い聞かせ、小さく深呼吸をした。

 これ以上距離を詰められたらどうしよう。あの時みたいに妙な空気になるのは嫌だ。誰も入ってこなかったらどうなってしまうのか。

 数秒間で直人はありとあらゆる可能性を考えた。とにかく相手は強すぎる。体格も立場も直人よりはるかに上なのだ。

 しかし水原は、一定以上直人に近付いて来ることもせず、いつもの会長席に腰を下ろした。

 間にデスクを挟んだことで、直人はなんとなく安心した。


「まだ、出してないんだって?」

 水原が言った。

 立候補届のことだ。

「…はい」

 直人は俯いた。水原がため息をつく。

「まあ、出さなくても、良い」

 そう言いながらデスクの引き出しを開けて、ノートパソコンを取り出した。

「俺ももうすぐ引退だから、引き継ぎ書を作ってるんだ」

 選挙期間が終われば、今の生徒会メンバーは解散になる。

「そういうのは書記がやってるんじゃ」

 直人がそう言うと水原は『会長でしか分からないこととか会長の立場で理解していることもあるから』と言って微笑んだ。

「立候補してる坂本、真面目な奴みたいだな。地味だが敵も居ない、職員室の評判も良い。成績も。部活動の成果も出ているし、何より剣道をやっている同世代の間では他県まで名が通っているらしい」

 パソコンから目を離すでもなく、そんなことを言う。直人が生徒会長に立候補しない場合を想定し始めているのだ。

「まあ、生徒会には良い人材かもな」

 急に、直人の胸がギュッと掴まれたように痛んだ。

 なんだろう。この気持ちは。

 水原に見捨てられたような気がして辛いのか。それとも、あの日のことを無視されているようで嫌なのか。

 直人は想定していなかった自分の心の反応に驚いた。

 なんだろう。

 何が不満なんだ。

 何がこの違和感を生み出しているんだ。


 水原をじっと見た。

 2つ年上の、近所の遊び仲間。中学、高校では少し煙たい部分もあった。学内で立場をうまく使われているなと思うこともあったから。



 あの日、直人の両手を握りしめて自由を奪った。これまでに感じたことのない意図を感じた。

 正直怖かった。

 暴れて、恐らく直人の頭の硬いところが彼の顔を殴打した。

「うっ」

 水原が小さくうめいて直人の手を離す。

 そこへ中島が入ってきた。



 あの日のことは消えてしまって、何も無かった世界にいるような気がする。

 あれは何だったのか。

 あれから会わなかったから、直人は訊くこともしなかった。でもこうして2人きりになると、やっぱり知りたい。でも、無かったみたいな態度を取られてしまうと、何も言えない。

 やはりこの胸の痛みは、あの日のことを無かったことにされてしまっている違和感だろうか。


 水原さんは。


 …たけくんは。


 ノートパソコンに向かう水原の様子を、直人はしばらくの間伺っていたが、水原は直人さえ存在しないかのように作業を続けている。

 直人は考えた。

 確認するべきか。

 いや、やっぱり怖い。

 怖い。

 聞くのが怖い。

 半端な気持ちで確認して、同じような状況になったら逃げられない。


「僕、邪魔ですね」

 一旦間を取りたい。直人は立ち上がった。

「いや、そこに居てくれ」

 水原は顔も上げずにそう言った。

「……」

 立ち上がったまま、直人は水原を見下ろした。変わらない水原の様子。ずっと前からこんな感じだった。

 でも何かが、もう違う気がした。

 黙って窓際に置いた自分の鞄を取りに行く。時間潰しに読もうとペーパーバックを取り出す。

「そういえば」

 水原が急に顔を上げた。

「今日は窓際に居ないんだな」

 直人も顔を上げた。

「…はい」

「もう窓の外の観察は終わりか」

 窓の外の観察…。水原がそう呼ぶもの。

「…はい」

 直人は頷いた。そうだ。観察はもう終わりだ。もう終わりにしなければならないのだ。

「生徒会から抜けるんだったら、ここからの眺めもあと少しだぞ。見ておけよ」

「いえ」

 直人は首を横に振った。


 もう、いいんです。


「充分見ましたから」

「そうか」

 水原は、それ以上追求してくる様子も無かった。

「水原さんは」

 逆に直人から質問した。

「ん?」

「水原さんは、生徒会を引退したらどうするんですか?」

 それは、今本当に訊きたいことでは無かった。

「予備校通いが始まるかな。お前は?」

「生徒会を辞めるとしたら帰宅部」

「大丈夫か。暇になるんじゃないか」

 水原が揶揄うような表情を見せる。今まで通りの会話。他愛の無い。

「なんとかなると思います。することは沢山ある。一人で居るのは慣れているし」

「そうか」

 

 それぞれ、パソコンと読書に戻った。しかし直人は読みかけの本の内容がうまく頭に入らない。


 水原さんは。

 この前のあれは、どういう。


 訊きたい。


 いや、訊きたくない。


 直人の心が焦れる。

 水原をチラッと見る。

 水原もこちらを見ていた。

「水原さん」

「この前は、ごめん」

 直人の呼びかけに被せるように、水原が謝ってきた。


 え?

 この前は…?


 この前って、あの日のことですか。


 問いかけようとした時、生徒会室のドアがノックされた。


「失礼します」

 その声に、直人はギョッとして振り向いた。

 このところよく聞く声だった。

「2年の坂本です」


 扉が開いた。

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どうしてそう思ったのかな 石井 至 @rk5

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