第22話 変化
直人はいつも通り窓際に陣取って、通りを見下ろしていた。坂本が部室へ向かっていき、しばらくして道着に着替えた姿で現れた。
黒い制服姿より、この紺色の道着がよく似合っている。不思議と「着こなせている」感じがする。身につけている年月の差だろうか。ああいった稽古着にそんな差があると思ったことが無かったが、ここから坂本を見下ろすようになってから感じるようになった。
ふと坂本が立ち止まった。そして、本当に突然空を見上げた。
目が合った。
まさか、彼がこちらを見上げるとは。
直人は固まってしまった。
何故か坂本も固まった。
綺麗な顔だった。
好きな顔。
え?
どうしよう。
向こうもこちらの視線に気付いた。これは想定外だった。どうリアクションを返していいか咄嗟には分からなかった。見ていたことを、気付かれた。直人の心の中に『まずい』という気持ちが広がった。リアクションが思い付かず視線を外すことができない。
人って、目が合った時どうやって視線を外すんだったっけ。今まで誰かと目が合った時。どうしてた?自分はどうしてた?ええっと、これが例えばクラスメイトだったらどうする?どうする?どうする?ああ。
そうか。会釈をするとか、そうすればいいのか。ちょっと頭を下げてから、『では』とばかりにその場を離れればいいのか。
それでいいのかな。それで正解?いや、正解でなくてもいい。何か動かなければ。
数秒して直人がそう思って行動に移そうとした時だった。坂本に人が近づいて、肩を組んだ。
剣道部の副部長だった。
「……」
直人はそっと窓から離れた。数秒前に思いついた『会釈をする』こともせず、ただそっと離れた。
副部長にも気付かれただろうか。おそらく気付かれたのではないか。彼はこちらを見上げなかった。普通だったら友だちが見上げている方向に何があるのか一緒に見上げるだろう。それをしなかったということは、彼は坂本に近づく前、直人が彼の存在に気付くより前に状況を把握していたのだ。状況を把握して、敢えてこちらを見上げずに坂本に近付いて肩を組んだのだ。
バレた…?
自分の想いが、バレてしまったのではないだろうか。
いや、見下ろしているのを一度見られただけで、そんなこと分かるわけがない。
しかし、自分がどんな視線を坂本に送っているか自分で客観的に見ようとしたことがない。もしかしたら馬鹿みたいに分かりやすい、惚れた者の視線を送っているのかも知れない。
でも、いや、大丈夫。とりあえず落ち着こう。
普段座ることのない、窓から離れた場所の席に座って深呼吸をした。
もう、あの場所から坂本を見ることはできない。
大好きな場所を奪われたような息苦しさがあった。しかし奪われたと言っても原因は間違いなく自分にあった。
油断した。これまで半年間、彼がこちらを見上げることなど無かった。
無かったのに。
自分たちが話すことも、関わることも無かった。ただ遠くから見つめていただけだった。その見た目が直人の心を本当に和ませたり励ましたり嬉しく思わせたりした。
ああ、そうか。
変わろうとしているんだ。何かが。
中島のせいで坂本との関係が変わろうとしている…だけでなく、自分を取り巻く状況が、急激に変わろうとしている。
そうだ。中島のせいにしているだけだったら進歩しないだろう。ああいったファクターはファクターに過ぎないのだから。
高校生になっても、生活や空気感は中学生の時と何も変わっていない気がしていた。通う場所は変わっても、自分たちは何も変わっていない。続きの生活。
クラスメイトとの絶妙な距離感やクラス内での立ち位置は、中学生の時以上にふわふわと重い所属感が無くなっていた。高校では担任の役割も薄くなって率いるものもなく、自分にとって居心地が良かった。
生徒会も、想像以上に生徒に任せられて拘束感も無かった。
自分の側が大人に近付くと、自由が得られるのだと直人は思っていた。
違うな。
それだけじゃない。
学校や担任のような大人たちが示していた価値観に合わせて素直に前だけを見ていた自分たちはもう居なくなって、それぞれが自分の考え方を持ってそれぞれの方向に向かっていくんだ。
自分は、自分で思っているより子どもだった。
自由には責任が伴う。言葉では分かっていたが、体感としては得られていなかった。
だから、圧に屈さず部活に属さない自分は、他の生徒よりも自発的で自立していると思っていた。
大人が用意した常識を知っている自分を大人だと思い込んでいた。
男性である自分は、女性を好きになるものだと思っていた。
水原は近所の『お兄ちゃん』で、自分にはそこそこ無茶も言うけれど、無条件に自分を守る存在だと思い込んでいた。
自分は、芯が通っていて、理不尽にも立ち向かえるし、嫌なことは嫌だと言えると思っていた。
全部、ただの思い込みだ。
いや…。
ああ、そうか。
変わろうとしているのは『何か』ではない。
自分か。
自分が変わっていくから、何もかもに変化が生じているように感じるのか。思い込みが思い込みだと気付いたから。
…当たり前だと思っていたことが、そうじゃないと知ったから。
馬鹿みたいだ。大人ぶって。何にも分かっていないのに何でも分かっていると思って。自分のやっていることと言ったら好きな人をコソコソ覗き見して、ちょっと見つかっただけで落ち込んで、正直バレたんじゃないかと焦って。常識があちこち引っくり返って、息苦しくて。
「ははは」
一人の生徒会室で、直人は自分を嗤った。
その時、生徒会室の扉が開いた。
「どうした?」
水原が入ってきた。
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