幼馴染み
sin30°
幼馴染み
「あー、今日で高二も終わりかぁ」
帰り道の途中、公園のベンチに腰掛けた華がしみじみと呟く。冷たい北風が吹きつけ、華はマフラーを顔に押し付けた。風に流された長い黒髪が首筋に触れて変にくすぐったい。
暦の上では春ですねぇ、なんて朝のニュースのお天気キャスターが言っていたが、何を言ってんだ、と蹴りを食らわせたくなるほどに空気は冷たい。そもそもこの現代に暦の上では、なんて時代遅れなことを言う必要があるだろうか。なんの気休めにもならないし、そろそろ暖かくなるかな、と変な期待をさせる分タチが悪いといえる。
「お前それ言うの今日何回目だよ」
肉まんの紙をはがしながらそう返すと、華は信じられないものを見るようなまなざしで俺を睨んだ。
「いやいや、高二だよ? 私の青春の大きな一ページ、高二が終わったんだよ? 来年はもう受験生だし、最後に青春を満喫できる時間が終わったんだよ? これぐらい言わせてよぉ」
熱のこもった口調で演説を始めた華。俺は途中から肉まんをかじり始めていた。
「その青春の大きな一ページの終わりが、幼馴染みと二人きりのさっむい公園でいいのかよ……」
呆れた表情を作ってため息交じりで言うと、
「いや、当然不本意だけどね? というか、むしろこの私の高二の最後に立ち会えることを光栄に思うべきだね、南健太くん」
最後はなぜか偉そうに胸を反らせて、勝ち誇った表情でビシッと俺を指さした華。俺は肉まんを半分ほどまで食べ進めていた。
はいはい、と俺が受け流すと、華はむぅとむくれて渋々ベンチに座り、コンビニの袋からピザまんを取り出した。
取り出したピザまんを両手で持ち、顔の前に持ってきた華はついさっきまでの渋面から一転、満面の笑みに変わっていた。――単純なヤツ。
あーん、と大きな口でピザまんにかぶりついた華は、口をもぐもぐさせながら口を開く。
「もゃふにもっふぃはおうあおお、ほはひひっほに……」
「口に物入れたまま喋るなよ、行儀の悪い……。それに何言ってるか全然分からん。飲み込んでからにしてくれ」
んぐんぐと必死に口の中のものを飲み込んだ華は、落ち着かないまま再び口を開いた。
「逆にそっちはどうなのよ、他に一緒に過ごす女の子とかいないわけ?」
首から上だけを俺の方に向けて、ぶっきらぼうに聞いてくる華。指先はピザまんの紙をピラピラといじっている。
「いや別に……。いないからこうして光栄にも華さんと一緒にいさせていただいてるんですよ。つかそもそもお前が誘ってきたんじゃねぇか」
俺がそう言うと、華はふふんと鼻で笑ってからまたピザまんにかぶりついた。心なしかさっきよりも嬉しそうににんまりとしている気がする。俺に女友達がいないのがそんなに嬉しいのかこの野郎。
「そうかいそうかい、じゃあ私がかわいそうな健太くんに構ってあげましょうねぇ」
そう言って俺の頭をよしよしと撫でようとする華。俺がひょいとかわすとむっとした顔をして、撫でようとした手でぺしっと頭をはたかれた。
夕方の公園は何人かの小さい子どもが遊具で遊んでいるくらいで、他に人は見当たらない。しかも遊具はベンチからそれなりに距離があるので、時折奇声が聞こえるほかは静かなものだ。
「ねえ」
正面を向いたままで華が声をかけてきた。さっきまでのおどけた口調とは打って変わって真剣な重みを感じた。
誘ってきた用事はこれか、と身構えると、華は思ってもみない一言を発した。
「私さ、田辺に告られた」
「は?」
心臓が飛び跳ねた。全身の脈が速くなり、呼吸が浅くなる。まさにパニックだ。
背後から頭を殴られるような、あまりに予想外の角度からの一言に、すぐには言葉の意味を理解できない。手に持っていたラスト一口の肉まんを落としかけて、慌ててしっかりとつかみなおす。
頭の中は混乱の二文字。何か言葉を返そうとするが、まるで思考と話がまとまらない。完全に脳の機能が停止している。
「いやぁ、なんかあいつ、中学のころから私のこと好きだったみたいでさ。高二も終わっちゃうし、もうチャンスがないかもと思って、今日言ってきたらしい」
どこか他人事にも聞こえる華の説明も、BGMのようになんとなく頭の中を流れるだけだ。
「健太?」
俺があまりに上の空だったのか、華は俺の顔を心配そうにのぞき込んでくる。
「もしかして、私が告白されたのがそんなにショックだった?」
心配そうだった顔がグラデーションのごとくいたずらっ子がするような笑顔に変わっていく。ニヒヒと笑うこの笑顔で、昔からこいつは俺をおもちゃにしてきたのだ。
「別にそんなんじゃねぇよ、調子乗んな」
ラスト一口の肉まんを口に放り込んでおでこにデコピンを食らわせてやると、華はおでこを手で押さえながら顔を引っ込めた。
しかし、だ。動揺していないと言ったら嘘になる。
もちろん、顔が良くて人懐っこく、明るい性格の華が男子から人気があるのは知っていた。何人かの男から告白されたという噂も何回か耳にしたことがある。
けれど、噂で聞くのと本人から実際に聞くのは全く違う。そもそも、華がこんな話をするのは幼稚園からの付き合いで初めての事なのだ。動揺するなという方が難しい。
そして、俺が華と付き合いたいと思ったことがない、と言ったらこれも嘘になる。正直、こんなにかわいい女の子が幼馴染みにいて、意識しないなんて到底無理だろう。中学二、三年生ぐらいからなんとなく意識し始め、そこから特にその気持ちが盛り上がる訳でもなく、かといって冷めることもなく今に至る。
中学の終わりから高校に上がるくらいには何回か告白しようと思ったこともある。その度に俺は華と釣り合っているのか、俺なんかが告白していいのか、と二の足を踏んだ。
そして何より、この「幼馴染み」という関係を壊すのが怖かった。
そんな臆病な俺がこんなことを思っていいかは分からないが、華の報告を聞いたとき、何を考えるより先に「嫌だ」という言葉が浮かんだ。
嫌なのだ。何度も告白しようとして、勇気が出ずに結局できずじまいだった分際で、でも華が誰かほかの男のものになってしまうのがたまらなく嫌なのだ。
どうしてあの時告白しておかなかったんだ、とどうしようもない後悔すら湧き上がってくる。
どうして今の今まで、華をほかのやつにとられるなんてことを微塵も考えなかったんだ、と自分を責め立てる声が頭の中に響く。
今日この時まで明確には自覚していなかったが、俺は華のことが、好きなんだ。
とはいえ告白もできない臆病者が、勇気を出した田辺の邪魔などどうしてできるだろうか。俺はただ、舞台の観客のように指をくわえて見ていることしかできない。
俺はなんて馬鹿野郎なんだ、と深くため息をつくと、華はまたしてもニヒヒという意地の悪い笑顔を浮かべて、俺の想像を超える言葉を発した。
「まあ、付き合う気はないんだけどね」
「はぁ⁉」
もう頭が追い付かない。思考回路はショート寸前だ。
「いや、もう断ったし。なんか違うなーって思ってさ」
表情も変えずにさらっと、こともなげに話す華。
もう何が何だか分からない。心の奥の方で嬉しいという暖かい感情を感じるが、そのほかは大荒れも大荒れ。気象予報士も頭を抱えるレベルだ。
「なんか違うって……は?」
「いやそんな新種の動物を見るような目で私を見ないでよ。別に告白されたからと言って必ずしも付き合うわけでもないでしょうに」
「いやまあそうだけど……」
じゃあさっきまでの俺の長々しい思考は何だったんだ、と八つ当たりしたい気持ちに襲われた。と同時に、荒れ狂っていた感情の波が徐々におさまっていく。
「なんか、どうせ付き合うならもっと自分をよく知ってる人がいいかなって思ってさ」
言いながら食べ終わったピザまんの紙を丸めてレジ袋の中に戻す華。
「でも田辺も中学からの同級生だろ?」
田辺と俺と華は三人とも中一の時にクラスが同じで、それから三年間、そこそこ仲良くやっていた。高校も同じだった時はさすがに驚いたが、高校に入ってからも何度か遊びに行った記憶がある。
「いやぁ……。もうちょっと長く一緒にいる人がいいなぁ」
「いやいくら何でもそれは無茶だろ」
ようやく落ち着きを取り戻した俺がいたって冷静にツッコむと、華は眉間にしわを寄せて露骨に不満げな表情をした。その後すぐに「まあ仕方ないか」と小さく呟き、肩を落としてため息をついた。
「ほら、私って恋愛は石橋をたたいて渡る人じゃん?」
そう言って脳内で生み出したであろうエア石橋をたたく華。結構強く叩くな……。もうそれ石橋壊れてるだろ。
「いや知らんけど」
「知っとけ」
「理不尽だな」
吐き捨てるように言った華にツッコミを返すと、華は物憂げな表情で続けた。
「なんかこう、失敗したくないんだよね。私、まだ誰とも付き合ったことないからさ」
「え、付き合ったことなかったのか」
正直意外だった。さっきまであんなに取られたくないとかなんとか考えていたくせに、てっきり華は誰かと付き合ったことがあるもんだと思っていた。
「いやいや、健太が一番知ってるでしょ。私が誰かと付き合ってたら健太の家行ったり私の家に健太呼んだりしてないし」
「まあ一理あるな」
なんでそんなに偉そうなの……。とこめかみを押さえた華は、顔を上げて話を続ける。
「最初に付き合う人って大事じゃない? だから一番よく私を知ってる人がいいわけよ」
最後はなぜか俺の目をまっすぐに見て言い切った華。
「そんな熱弁しなくても伝わるから……」
俺がそう言うと華は、上目遣いで期待のこもった視線を向けてきた。
「まあ、そういうヤツが現れるといいな」
華はジェットコースター顔負けの落差で鬼のような表情を浮かべると、右足のかかとで俺の左足のつま先をげしげしと踏みつけ始めた。
「いてててて! なにすんだよ!」
とっさに左足を逃がして抗議の声を上げる俺に、華は怒りが収まらないというように口を開き、
「バカ」
と俺の顔にたたきつけるように言い放った。
言ったっきり華はプイとそっぽを向いてしまい、前かがみで膝に手を置き、子供たちが遊んでいる遊具の方を見始めてしまった。
いや、当然俺も今までのやり取りで何も思う所がなかったわけではない。そこまで俺は鈍感野郎ではない。むしろ敏感なまである。敏感すぎるがあまり、自分で無意識のうちにセーブする癖がついてしまったのだ。
これまで華と十何年過ごしてきて、あれ、華って俺の事……。と思ったことは何回もあった。それが中学に上がったころから増えたことも自覚している。
ただ、やっぱり怖いのだ。断られたらどうしよう、付き合ったとしてもうまくいかずにすぐに分かれたらどうしようという思いはどうしても湧いてきてしまう。
これぐらい恋愛においては普通の悩みだということも分かっている。ただ、数か月、数年ではない。華と出会ってからの十数年が俺の背中にずっしりとプレッシャーをかけている。十数年かけて築いた関係に押しつぶされ、身動きが取れないのだ。
自分で考えても情けないが、これが俺の気持ちだ。
だが、その結果今日のようなことが起きてしまった。今回は華が断ったが、第二、第三の田辺が出てこないとも限らない。いや間違いなく出てくるだろう。そもそも田辺が諦めたかどうかすら分からないのだ。
言うなら今日だぞ、という小さな声が俺の奥の方で生まれた。初めは小さく、虫の羽音程度の声だったが、徐々に頭の中をその声が埋めていく。
しかし、リスクを恐れる自分も間違いなく存在する。頭の半分を埋めた声もその自分をすぐには打ち壊せない。頭の中で両者がせめぎ合う。
その時、
「はぁ……」
遊具の方を見たまま、小さく華がため息をついた。わざとらしくない、本心が生んだため息。そのため息は、小さいながらも確かな存在感をもって俺の耳に届いた。
「なあ」
「……なに」
そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに応じる華。
「俺達、付き合うか」
口に出した瞬間、自分でも、もっとマシな文句があるだろと思った。だが、色々考えた挙句、口から出てきたのは告白としては赤点レベルのものだった。
だが、これが俺の精いっぱいだ。笑うなら笑ってくれ。
自分でもよく分からない開き直り方をして華の返答を待つ。
華は、まだピクリとも動かない。向こうを向いているせいで、表情も全く窺えない。今になって心の中にポツポツと後悔が生まれ始めた。
ほらやめとけって言っただろ、と脳内にこびりついた臆病な自分が言う。うるさい、と跳ね除けたかったが、今の俺にはそんな力は残っていなかった。
三十秒くらい経っただろうか。緊張からか時間感覚があいまいで、実際はもっと長かったかもしれないし、ほんの数秒だったかもしれない。華が正面を向いて、どっかりと背もたれに寄り掛かった。
華は背もたれに体重を預けると、大きく息を吸い、目をつぶって今日一番の大きさのため息をついた。
数秒してから、華は首だけをひねって視線を俺に向けた。
「……遅くない?」
そう言って、華はニヤリと笑った。いつものいたずらっ子のような笑みではなく、口の端だけを吊り上げる、まるで共犯関係にある味方に向けるような大人びた笑顔。
心は踊らなかった。頭と心を埋め尽くすのは安堵の感情ばかり。数秒してからようやく喜びが顔を覗かせた。
華は小さく息を吐いて、大きく伸びをしながらまた口を開く。
「私、中学生のころから待ってたんだけどなぁ」
と言って横目でチラリと俺を見る。
「ごめんて……」
力なく俺が返すと、華のギアが上がった。
「てかさ、さっきの告白何⁉ 危うく断りそうになったんだけど! なんであんなに偉そうな感じになっちゃったかなぁ」
そう言うと華は冷たい視線を向けてくる。
「あれが俺の中での全力だったんだよ――――あ、いや、ごめんなさい……」
言っている途中でじろりと睨まれ、とっさに謝る。
「まあ、言ってくれただけマシとするか」
やれやれと肩をすくめる華。その姿を見て俺も一つ物申したいことを思い出した。
「つか、お前こそちゃんと返事しろよ! 一瞬いいのかダメなのか分かんなかったぞ!」
俺がそう言うと、華は呆れたような、むしろ諦めたような表情に変わった。
「いやいや、それはそっちが悪いでしょ、じゃあ何ですか、いま改めて正式にあいさつしますか、じゃあそっちからどうぞ!」
そう言って華はずいと手を差し出してくる。有無を言わさぬ圧に負けた俺は、しぶしぶ口を開いた。
「……これから、改めてよろしくお願いします」
「アハハ、顔真っ赤! はい、こちらこそ!」
そう言ってにっこりと曇りのない笑顔を浮かべる華。
どうにも照れ臭くなって、顔をそむけた。顔を向けた先の夕日が何とも綺麗で、一瞬目を奪われる。
と、思い出したように華がまたしても衝撃の一言を放った。
「あ、そう言えば告られたっていうの、あれウソだから」
「はぁ⁉」
驚いて反射的に振り向くと、今まで何度も見た、そしてこれからも見るであろう、ニヒヒと笑う彼女の顔があった。
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