第19話 懊悩

 数日が経った。


 辰馬は塞いでいた。人間による魔族の、道具としての狩猟と凌辱。思い出すだけで吐き気がするし、頭の中で巨大な蠅が羽ばたくような強い耳鳴りに襲われる。食欲もなく、もとから細い身体が2、3キロほど痩せ、ほんわかしていた顔立ちにわずかな翳りと凄惨が落ちた。今の辰馬の方に魅力を感じる女性も多かろうが、少なくとも新羅邸の少女たちは普段通りのちょっとぼんやりだらけててなにかとばかたればかたれ言う威勢のいい辰馬が好きなのであって、今を許容し得ない。


「人間なんてものはこういうものよ。お父様もあなたも、人間との共存なんて幻想に惑わされているようだけれど。何処まで行ってもわたしたちは不倶戴天ふぐたいてん、決してわかり合うことなど出来ないわ」


 あのエステから立ち去る別れ際、クズノハが言い残した言葉は、辰馬の心を深く深く抉る。自分自身、幼少期からいろいろな偏見の目を向けられ、心ない言葉や虐めを受けてきただけに、そこのところの言葉を否定できない。人間が身勝手で度しがたいというのには、全面的に同意するほかなかった。


 自室の窓から外を見遣る。まだ夕方の、普段なら夕焼けが明るすぎるくらいの時間だが、今日は薄暗くしのつく初春の雨がしずしずと降り注ぎ、陰鬱な気分に拍車を掛ける。


「喉、渇いたな……」


 ここ数時間、堂々巡りの思考に振り回されて水の一滴も口にしていなかったことに、ようやく気づく。気づいてしまうとひどくカラカラな喉に、どうしようもなく水を欲する。台所に向かった。


 水道をひねって、直で水を飲む。あまりたくさん飲める気分ではなく、とりあえず喉をしめらす程度。そして蛇口を戻すと、はあぁ~……と盛大なため息が出た。


「また、たぁくんがよけーなこと考えてる」

「……あー、しず姉……」


 死んだ魚の目で、辰馬は横合いから現れた姉的存在にわずかな肯きを返す。なにか気の利いた言葉を口にする余裕もなく、名前を呼ぶだけですら億劫おっくう。今の辰馬は「人間の罪業を自分が背負って死ねばなんとかならんかな……」などとばかげたことを思ってしまっているので、いくら最愛の女性(の、一人。辰馬は博愛主義的と言えば聞こえのいい優柔不断なので、好意的女性の誰が一番か決められない)である雫お姉ちゃんが心配そうに顔をのぞき込んできてすら、ゾンビのような顔色を修正不能だった。実にとてつもない深刻さで、重症。


「あんなの、ハンターさんは普通にやってることだよ? みんな食べるために動物殺すんだし、たぁくんがそこまで気に病むことは……」

「食事のための狩りとは全然ちがうだろぉが!」


 怒声。本気の怒声。おそらく生まれてきてから16年……8月10日になれば17年だが……牢城雫相手に一度だって、発することのなかった憎悪すら含む怒りの発露。胆力ということに関しては人後に落ちない雫が、まさか辰馬に、という驚きと単純に恐怖心から、ビクリと小さな身体を竦ませる。


「あーいうのはいかん……絶対にやっちゃだめなことだろ。そもそもおれはモンスターだから殺してもいいとか、そーいう考え方自体大嫌いなんだよ、知ってるだろ? それがモンスターどころか魔族で……おれン中にも魔族の血が入ってるわけでさ……」

「は……はい……」


 あまりに真摯で痛切すぎる言葉に、思わず雫の言葉が「お姉ちゃん」のそれでなくなる。しかし同時に思う。今の辰馬は危うすぎ、絶対に支えが必要であると。それにはだいぶ元気なところを見せるようになったがやはり万事控えめな瑞穗や、とかく姫君の我が儘で相手を従わせようとするエーリカでは無理だろう。となれば自分しかない。


 言葉では虚しい。雫はいつものように、ひょいと手を伸ばすと辰馬の頭をかき抱いて、胸元に抱える。


「……やめろや、しず姉。気分じゃねーんだわ」

「いーから。余計なこと考えないで、おねーちゃんに任せなさい。なにもたぁくんが背負うことないんだからね? 人間の罪は自分の罪とか、そんなの思い上がりだよ?」

「わかってるけどさ……それでも考えるんだよ、おれは。そーいう性格だからどうしようもない」

「うん。たぁくん優しいからねー。うんうん、いーこいーこ……」

「だから、気分じゃねーって」

「いーから。なんならここでえっちしよっか?」

「……なに言ってんだよ、ばかたれ……」


 雫の言葉に、辰馬は少しだけ。ごくごく薄く笑った。まさか本当にここで致すつもりでもないだろうが、そう言われた辰馬は微かに救われた。静かに、雫の腕の中から離れる。


「ありゃ」

「あんがとさん、しず姉」


 そう言って、辰馬は台所を後にした。


・・

・・・


 それからしばらく。

 新羅辰馬は1級市街区の中でも破格の巨大さと荘厳を誇る、王城に真っ向から喧嘩を売るような豪奢な邸宅の前にいた。


 覇城家別宅。本家ともなると本当に巨大城塞らしい。この屋敷の規模がすでに、辰馬から見れば十分、城だが。


 呼び鈴を鳴らす。すぐさま応対に出たメイドさんがやたらお姉さんっぽいだったのはまず間違いなく、覇城瀬名はじょう・せなの趣味。話は早かった。メイドさんに先導され迷宮ばりの大宮殿を歩くことしばし、壮麗無比の大扉の前に通される。


「若当主さまとご客人は、こちらにおられます……それでは」


 ……うし。


「たのもー!」


 いつものかけ声で、ドアを開け放つ。

 そこには11歳の子供が纏うにはあまりに不釣り合いなコートとガウンをまとった覇城家当主、覇城瀬名と、そして客人にして蒼月館非常勤講師・クズノハ……人間としては葛葉保奈くずのは・やすなを名乗る……が、待っていたとばかりに辰馬を迎えた。


「ようやく、踏ん切りがついたかしら?」

「わざわざ愚民を守って傷つく道を選ぶなんて、馬鹿のすることですからね。それで……あなたも優れた人間なら、選民としての道を歩むべきです、ええ、歓迎しますよ」


 二人は口々に言って、悪堕ちの辰馬を歓待する。辰馬は赤い大きな瞳を昏く伏せ、しかしこう口にした。


「おれの姉貴……つーてもアンタじゃないほうだけど……がまぁ、あんまり頭のいいひとじゃないんだけどさ。けどまぁ、なんかな……賢いんだわ。物事の理非をわきまえてるっつーか、学のあるなしじゃないところで、賢い。その姉貴がまぁ、言うんだよ。自分は特別だとか、自分が責任とってどーこーするとか、そんなのは思い上がりだって」

「あのピンクさん……余計なことを……」

「怒んなよ、姉貴。おかげでおれは救われたんだからさ」

「怒るわよ! 確実にあなたを人間から離反させられると思ったのに、それを邪魔されたのだから!」


 金銀の瞳を妖しく光らせ、いっそ辰馬に「蠱惑」の力を掛けようとするクズノハ。辰馬も意思を込めてにらみ返し、真っ向で術をはじき返す。


「……以前より、力が……? この短期間で?」

「3日会わざれば刮目して見よ、とか言うらしいよ。ま、実際3日じゃどーにもならんが、数ヶ月あればな」

「なにやってる、クズノハ? 本気でやれよ!」


 苛立ったように、瀬名。瀬名は瀬名で、クズノハを通して魔王・新羅辰馬を支配するという無謀極まりない野望を植え付けられていたために、それができそうにないとなると途端に癇癪かんしゃくを爆発させる。知恵長けてまた武術の技にも優れるとして、しかし覇城瀬名はやはりまだ子供でしかない。


「と、ゆーわけであんたらの誘いには乗れんわ。悪いな、姉貴」

「ふむ……まあ、今回は仕方ないか。あの子らを皆殺しにしても、辰馬を翻意させるどころか怒らせるだけみたいだし……それに、今の辰馬相手だと勝てるかどうか、怪しいしね」

「あぁ、納得してもらえると助かる。そんじゃ……」

「待ちなさい、新羅辰馬!」


 呼び止める、瀬名。その声には怒り。その表情には、憎悪。


「なんで、あなたが全部手に入れるんですか! 絶望して、うちひしがれて、皆を裏切るべきでしょう! そうしてあなたは雫さんから見放されるべきなんだ! それが、くだらない甘ちゃんの理屈で……!」


 かつてクズノハも言ったのと同じような怒りを、瀬名は辰馬にぶつける。だが辰馬は最初から全てを持っていた訳ではなく、およそ人が想像もつかない努力の結果として仲間や環境を手に入れたのに過ぎない。それを罵るのはお門違いというものだった。


「その甘ちゃんの理屈をくれたのは、しず姉だけどな。お前の言葉はしず姉を馬鹿にすることになるぞ?」

「く……とにかく! これまで通りの安穏とした生活など、ボクが許さない! 覇城の全権力を持って新羅家に圧力を……!」


 そこまで言って、凍った手で喉元を締め上げられたように、瀬名は目を剥き口をばくばくとさせる。新羅辰馬の向けた眼光、炯たる赤瞳の光、ただそれだけに射すくめられて、命の危険に震え上がった。


「やれるもんならやってみろ、だ♪ ただし、ウチは全力で反抗させて貰うけどな」


この瞬間に、覇城瀬名は自らの敗北を悟る。財力や権力で叩こうとして、叩けない相手がいると言うことを思い知らされた。


「そんじゃ、けーるわ」

「ええ。まぁ、わたしはまだまだ、諦めないけどね」

「あいよ。おれはその都度断るだけだ。じゃーな」


 そうして、新羅辰馬は迷いの晴れた顔で、覇城邸を後にした。


・・

・・・


「たぁくんがいないんだよ~! もしかしてもしかして、クズノハさんのところに?」

「落ち着きましょう、牢城センセ。ちょっと散歩のだけかもですし」


 いなくなった辰馬に、狼狽うろたえに狼狽うろたえまくる雫。とりあえず寮から新羅邸に遊びに来た朝比奈大輔は、普段頼りがいのあるおねーちゃん先生の狼狽ろうばいぶりに、むしろ新鮮な驚きすら覚えた。


 なーにやってんだか新羅さんは……あの人に限って、人間を裏切るとかないとは思うけど……。


 辰馬に全幅の信頼を置く大輔としてはそこのところの心配は特にない。とにかく自分の女にいらん心配をさせている、という点で、辰馬への義憤が高まった。自分なら早雪を悲しませたりしない、と長尾早雪の顔を思い浮かべる彼女持ち、大輔である。


「見る目聞く耳で新羅の居場所を特定しました。覇城家別邸……。そしてそこにはあの魔皇女クズノハが同居中です」


 みのりが談話室に飛び込んできてそう叫び、そして脚をもつれさせ盛大にこける。神楽坂瑞穗と並ぶヒノミヤの二大運痴は、安定の運動神経を誇った。


「ややや、やっぱりいぃ! 今すぐたぁくんを取り戻しに行くよッ!」


 一人で飛び出しかねない雫を、身体能力で彼女に追従しうる唯一の女性、晦日美咲つごもり・みさきが腕をとっておさえる。


「はーなーせ、はなしてー!」

「少し、落ち着いてください、先生。今、あなたは我々のリーダーなのですから」

「そ、そか。そーだよね、それじゃあ、全軍突撃ー!」


 完全におかしくなっている雫。本当にこのまま覇城別邸に突撃をかけることになる? というまさにそのとき。


「ただいまー」


 新羅辰馬、帰還。傘を差さずに出かけていたらしく、小雨とはいえかなり濡れているが、なにより一番嬉しいことはつい先ほどまであった顔の翳りが綺麗さっぱりうせていること。嬉しくなった雫は思い切り辰馬に抱きつき、そして情熱のままに唇を重ねる。一瞬、目を白黒させた辰馬も、実に珍しいことながら衆目の前で雫の身体に手を回し、唇を重ね返したのだった。

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