70、『聖なる者』として認める

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「お父様、私、もう家に帰りたいわ」


ミュリエルは宮殿に来てから何度もオーウィンにそう言った。この生活にあっという間に飽きたのだ。

だが、オーウィンは頑なにここに留まりたがった。


「ダメだ」

「どうして?」

「ここにいるべきだからここにいるんだ」

「でも」

「うるさい!」


しかし、閉じ込められ、苛立ちが募っているミュリエルは怒鳴られたくらいでは引き下がらない。


「大きい声を出せばいいわけじゃないのよ! お父様!」

「親に向かってなんてことを言うんだ!」


ミュリエルはお腹の中に火山でも抱えているような怒りでいっぱいになるが、目の前のオーウィンは火山そのものといった様子で顔を真っ赤にしている。ミュリエルでは迫力負けだ。


「子供は大人しくしろ!」


だが、その理不尽さにはどうしても納得できない。迫力で負けるなら、ミュリエルにしか出せない武器——甲高い声で叫ぶ。


「そんなに怒鳴らなくても聞こえるわ! それにもう十分大人しくした!  もう嫌なの! うんざり! こんなところ! 帰りたい!」


耳をつんざくような声にオーウィンは顔をしかめた。


「うるさいのはお前だ! 黙ってここにいろ」

「だからどうしてよ?」

「いなければいけないからだ」

「私が『聖なる者』だから? でも石がないと何もできないじゃない! 意味ないわ!」


宮廷に留まって一日二日は、教会関係者がやたらちやほやしにきていたので、楽しかった。みんなミュリエルを可愛いとか賢いとかさすがとか褒めてくれたし、贈り物もたくさんくれた。だけど、石が手元にない上に、ミュリエルが国王陛下の病気も治せないと聞くと、長居は無用とばかりにみんな帰り出すのだ。


——なんか普通だな。


——もしかして、あちらが。


——石も、な。


——しっ、聞こえるぞ


司祭の使いたちが帰り際、そう話しているのをミュリエルは聞き逃さなかった。

もう嫌だ、とミュリエルは苛立ちでいっぱいになる。

ここにきてまだクリスティナと比べられる。それならいっそ家でマリーをいじめる方がいい。最近のマリーは言い返すようになってきて、ちょっと面白いと思っていたのだ。


「生意気な!」


怒鳴り合いに疲れたのか、公爵は怒って部屋を出て行った。きっとまた酒だ。

始めこそ続き部屋で過ごしていたミュリエルだったが、オーウィンが浴びるように飲むようになってから部屋を分けてもらった。

ずっと酔っ払っているオーウィンの姿はエヴァを思い出させて嫌だったのだ。


「……帰りたい」


ミュリエルはボソッと呟いた。部屋の隅で立っている侍女は聞こえているはずだが、何も言わない。

公爵邸も退屈だったが、自分の部屋は寛げた。宝物もたくさんあった。ブリギッタやサーシャの教えを書き留めたノートや、まだ読んでいないシェイマスの本。欲しいと言って譲り受けたクリスティナのリボンや栞。小さい頃エヴァが編んでくれた靴下。

マリーはちゃんとウタツグミの世話をしてくれているのかしら。持ってくればよかった。

ミュリエルはため息をついて、枕を投げる。

しかしそんな日々が突然、終わりを告げた。


ある日、陛下が、とか、侍女が、とかギャラハー伯爵夫人が、という声が聞こえたと思ったら、宮殿中をいろんな人がバタバタと動き回る気配がした。

何があったのだろう。

誰かミュリエルを呼びにきてくれないか。そう思っていたら——


「ミュリエル! 今すぐ家に戻るぞ! 荷物なんて後でいい! 急げ!」


オーウィンが、ミュリエルの部屋に入るなりそう叫んだ。


「お父様? どうしたの? 何でいきなり?」

「いいから! 時間がない」


オーウィンはミュリエルの手首を掴んで外に出ようとした。よく見れば乱れた髪も直していない。よほど慌てているのだ。ミュリエルは恐る恐る聞いた。


「家に戻るの?」

「ああ、公爵邸に戻る」


それならいいか、とミュリエルは不安な気持ちを押し隠して馬車に乗った。


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「ご無事で何よりです!」

「カール?!」


ペルラの修道院から宮廷に戻ろうとした私とイリルは、道中、知った顔に出会って驚いた。


「お迎えに来ました」


ブライアンが泣きそうになりながらそう言い、デニスたちも頷いた。


「本当にそれだけか?」


背中で私を庇いながら問うイリルに、ブライアンは答える。


「もちろんです。レイナン殿下からはお二人をお守りするように、とのお達しでした」

「そうか……」


後ろ姿だったけど、私にはイリルがほっとしたのがわかった。


「では、宮廷まで護衛をお願いできますか?」


私が言うと、みんな揃って頷いた。


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宮廷に到着したその日、私はまず陛下への謁見を願い出た。ルイザ様の計らいで、それはすぐに叶えられた。

意識を取り戻したばかりの陛下はまだ寝台に横になっている。私はイリルと共に傍に行き、王笏と守り石を掲げた。

陛下は守り石の変わりように驚いた声を出した。


「これが本来の色なのか」

「はい」


私が胸を張って答えた瞬間、石も王笏も一瞬だが光を放った。


「おお?!」


警備の者たちに緊張が走る。だが、イリルがそれを諌めた。


「大丈夫です、陛下、ご安心ください」


その後すぐ、ごくわずかだが黒い霧のようなものが陛下から出て行ったのが見えた。全員がそれを目で追う。黒い霧は空中に溶けるように消えた。

陛下が信じられないという顔で、ご自分の手を動かす。


「これは……どういうことだ。呼吸が楽になった。痺れが残っていた手も、この通り」

「もう大丈夫です、陛下、これでお元気になるでしょう」

「よかった……」


イリルの言葉に、傍にいらっしゃったルイザ様が声を詰まらせた。陛下が私に手をかざして告げる。


「クリスティナ・リアナック・オフラハーティを『聖なる者』として認める」

「謹んでお受けします」


私は淑女の礼をして、そう答えた。


その夜は、久しぶりにいつもの部屋で眠った。

疲れを取るためにゆっくりと休むように言われたのだ。フレイア様と話したかったが、また後日、とフレイア様の方から伝言が届いた。


宮廷に留まっている父とミュリエルは、このまま謹慎という扱いになるそうだ。『聖なる者』を騙った罪が問われるのだろう。


考えることはまだまだあるけれど、その夜はさすがに泥のように眠ってしまった。

そして翌朝。


「お父様とミュリエルが逃亡した?」


ルシーンに身支度を手伝ってもらっていた私は、そんな知らせを受け取った。

嫌な予感がした。

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