68、シーラは本当にしつこい

         ‡


黒い霧が消えてから、ドゥリスコル伯爵の勢いは弱まった。

はあはあ、と伯爵の呼吸の音が響く。イリルは伯爵の首元に剣を突きつけ、聞いた。


「本当に帝国からの貴族なのか?」


荒くしたまま、目だけイリルに向ける。イリルは再度問う。


「ドーンフォルトの者だろう」

「……」


伯爵はついに膝を付いた。ドゥリスコル伯爵から見ると、イリルの頭上の守り石が、太陽の光に溶けるように輝いている。眩しい、と伯爵は目を細める。 

「答えろ」


イリルは剣の切先で、伯爵の首に触れる。皮膚に金属が当たる感触がする。右腕は相変わらず出血がひどい。痛みを感じることはないが、この体が使えなくなると不自由だ。


「……帝国とかドーンフォルトとか、そんなものもは全部私のおもちゃだ」


伯爵はイリルの肩越しに、二頭の馬が繋がれているのを確認した。時間を稼ごう。


「私という存在に意味はない。意味を欲しがり、物語を仕立て上げるのはいつもお前たちだ」


伯爵は赤い瞳を細める。あと少し。


「お前たちが呼ぶから私が来る」


イリルの眉が上がる。


「お前たちが私を私だと認識するから、私はここにいる——だから諦めろっ!」


伯爵はバネのようにイリルに飛びかかった。だが。


ザクッ!


イリルの方が早かった。最小限の動きで、イリルは伯爵の胸に剣を突き刺した。

ごふ、と伯爵が血を吐く。


「……私が死ねば、お前も死ぬぞ?」


かすれる声で伯爵は呟く。イリルは微笑んだ。


「なら本望だ。お前、私を操ろうとしているだろう?」


伯爵が初めてイリルを感心した目で見た。


「気付いていたのか」

「クリスティナを追いかけなかったのがその証拠だ。自分では『聖なる者』を殺せない。だからこんな手の込んだことをしている」


そう、カハル王国の国王を殺すのは、彼にとってついでのようなものだった。『聖なる者』をこの世から無くすことが真の目的。そうすれば彼はやっと自由になれる。なのに、結局はいつも邪魔をされる。

顔も忘れたその女を思い出して、彼は呟く。


「シーラは本当にしつこいな……」


何度も、何度も、何度も、シーラは諦めず彼を封印しようとする。シーラだけが彼を諦めない。彼はイリルに言った。


「シーラは馬鹿だと思わないか?」


その目は、イリルを見ているようで見ていない。


「私を封じても、仕方がない。呼ぶ人間がいるから、私が生まれるのだ。だったら私ではなく」


恍惚の表情を浮かべて、彼は囁いた。唇の端から血を流れる。


「——人間の方を滅したらいいのに。何度言ってもそうじゃないと言っていた」

「当たり前だ」

「なぜ?」


イリルは答えない。守り石は輝きを増した。


「話はもういい。終わりだ、伯爵」


ぐぐぐ、とイリルは剣に最後の力を込めた。ブレスレットまで光る。


「ぐっ……」


どう見てもその体はもう生きていないのに、伯爵はまだ声を上げる。イリルは回転させながら剣を抜き、最後の一撃を振り下ろす。

伯爵の肩の肉が切り裂かれる。血飛沫が飛ぶ。そして——


「はーっはっはっ!」


伯爵が突然笑い声を上げる。

イリルがとっさに構えを直す。伯爵はイリルの背後に向かって叫んだ。


「今だ! 来い!」


ぶわっと音がして、木に繋いでいた二頭の馬から黒い霧が再び生まれた。


——これを待っていたのか? 


イリルは瞬時に守り石を見上げた。守り石はまだそこで輝いている。伯爵はイリルに言う。


「さあ、早く逃げろ? いくらお前でもあれにはもう勝てん。石の力にも限界がある」

「くっ」


馬は苦しそうに前足で宙を蹴っていたが、やがて力尽きて動かなくなった。

イリルは覚悟を決めた。

首を切り落とせば、おそらく復活はしないだろう。イリルは剣を振り上げ、同時に黒い霧はイリルを包もうとした——そのとき。


「イリル!」


ーー王笏を抱えたクリスティナが現れた。遠目でもはっきりとわかる輝き。


「嘘だろ? 早すぎる」


伯爵が驚いたように呟いた。


「シーラはあれを簡単には持ち出せないようにしていたはずだ」


その言葉は、息を切らせたクリスティナを誇らしげに微笑ませた。


「終わりよ」


伯爵は逃げようとしたがイリルがそれを許さなかった。


「待て」


伯爵が初めて弱気な声を出した。


「つまらないと思わないか? それだけの力がありなが……」


クリスティナは伯爵に突き刺すように、先端の石を当てた。


「……っ……」


声も出せずに伯爵ーー『魔』は自身が黒い霧となり、日の光の元に消えていった。

あまりの早さにクリスティナもイリルもすぐには警戒を解けなかった。


「本当に終わったの……?」


王笏を手にしたままクリスティナは呟いたが、イリルが血塗れなのに気付いて顔色を変えた。


「イリル、け、怪我は?」

「ああ、なんともない」

「本当に?」

「うん。全部、あいつの血だから……ありがとう」

「なにが?」

「戻ってきてくれて」

「そんなの当然じゃない!」

「結局は守ってもらった」

「違うわ、それは私よ。私がすることを手伝ってくれたーーねえ、本当に終わったのかしら」

「わからない。でも多分」


イリルはいつの間にか手にしていた守り石をクリスティナに返した。

守り石はもう、宙に浮くことも輝くこともなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る