66、もらったものが盾となり
素手で剣を受け止めた伯爵の右手からは、血が滴り落ちていた。もう少しで隻腕になりそうなほどの深い傷に見えるのに、ドゥリスコル伯爵は嬉しそうに笑う。伯爵は、黒い霧の動きを止めるように、一度頷いてから両手を広げた。
「私は左でも戦えますよ?」
痛みすら感じていないその様子に、イリルの表情が険しくなる。伯爵は左手に剣を持つ。
「試してみましょうか?」
その声に、私の中の伯爵への嫌悪感が急激に膨らんだ。
——気持ち悪い!
本能的なその感情に、私は思わず守り石を取り出した。握りしめて、ハッとする。
自分の中の衝動に気付いたのだ。
なぜそうするのかは、わからない。だけど確信がある。私は守り石と共に黒い霧に向かって走った。
「クリスティナ?!」
イリルの驚いた声がする。大丈夫。きっと大丈夫だから。
「ダメだ!」
イリルは叫ぶが私は聞かない。イリルが取り込まれるよりは、私が黒い霧に飛び込む方が勝算があるのだ。なぜなら、この強い嫌悪感。さっきから、伯爵を見るだけで沸き上がる強烈な嫌悪感。それが私を導くから。
絶対に滅しなければならない。そう思うと力が漲る。そのための行動が不思議とわかる。
黒い霧がまるで勝負を挑むように、塊になって私に襲いかかってきた。私は顔を上げ、守り石を目の高さに掲げた。
けれど、予想外にも、守り石は私の手から離れて、イリルに向かって飛んでいった。
「え?」
守り石はイリルの頭上で止まり、黒い煙のようなものを一気に噴き出した。ドゥリスコル伯爵が信じられないというように眉を上げた。黒いものを吐き出した守り石は濃い紫色になって、内側から発光し始める。
「すごい……」
——もしかして、あれが本来の色なの?
共鳴するように、イリルの左手首のブレスレットも光り始めた。その光に溶かされるように、黒い霧が、端からどんどん消滅していく。
「……生意気な」
ドゥリスコル伯爵が初めて苛立った声を出した。イリルが声を張る。
「ティナ! 今だ逃げろ!」
その言葉に頷き、今度こそ私は修道院に向かって走り出した。
背後から剣と剣が触れ合う金属音がする。でも、振り向かない。あれはイリルが私を守ろうとしてくれている音だ。
だから私も私がするべきことをする。今度は修道院だ。早く、早く、早く、修道院に。
途中何度か転びそうになりながら、私はペルラの修道院に向かった。
あと少し。大丈夫。思い出した。
‡
ドゥリスコル伯爵と戦いながら、イリルは以前リュドミーヤに言われたことを思い出していた。
クリスティナが「聖なる者」だと確信したとき、イリルは、私に彼女が守れるのかと聞いたのだ。リュドミーヤはこう答えた。
——その者からもらったものが盾となり、与えたいと思うものが剣になるでしょう。
あのときのイリルはそれを抽象的に解釈した。もらった愛情が盾となり、与えたい気持ちが剣になることか、と思ったのだ。リュドミーヤも否定しなかった。
だが、こういうことなのだ、と思う。
「……くそ!」
イリルが剣を突くたびに、ドゥリスコル伯爵に確実に打撃を与えた。対するドゥリスコル伯爵の攻撃はかわすことができる。
ブレスレットが盾となり、守り石が攻撃に力を貸してくれている。そんな気がするのだ。
守り石はイリルの頭上で、役目を果たすように光っている。
‡
ペルラの修道院にたどり着いた私は、入り口で座り込みながら懇願した。
「すみ……ません……すみま……せん……」
「あなたどうしたの?!」
「あの……お願い……があ……ます」
呼吸を整える間も惜しみ、私は迎えてくれた修道女に切れ切れに喋り続ける。修道女は私を抱き抱えるようにして言った。
「わかったから、先に落ち着いて。誰かお水持ってきて!」
ああ、この人、初めて会うけど覚えている。
「どうしたの? 誰?」
この人も。
よかった、きっと大丈夫だ。
私は初対面でありながら久しぶりの修道女たちに懇願する。
「王笏……を見せてください……」
修道女たちは顔を見合わせる。
無理もない。この修道院に保管されている、シーラ様の王笏は、その存在を公にしていない。なぜ知っているのかというところだろう。
でも私は「前回」それを見ている。そして思い出した。先端に使われている宝珠の深い紫色の美しさを。
さっきの守り石と同じ色だった。
——きっとそれが必要なのだ。
「魔」を倒すために。
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