65 、お前が『魔』か
振り返る前から誰かわかっていた。
黒い髪に赤い瞳。
イリルはさっと両手を広げ、私を背中で守るようにして言った。
「ドゥリスコル伯爵、どうしてここに?」
伯爵は、赤い目を細めながら馬から降りた。そして笑う。
「石を奪って逃走したあなたたちを追えとレイナン殿下が命令したので」
——レイナン様が?
まさか、と思った私よりも早く、イリルが口を開く。
「いい加減なことを言わないでください。レイナンは貴方にそんなことを頼まない」
「ほう? なぜ言い切れるのですか」
「宮廷にどれだけ人がいると思っているんですか? 仮にレイナンがそんな命令を下したとしても、頼む相手は貴方ではない。他の者を寄越す」
「つまり私は信用されていないと?」
「当たり前だ……というか、伯爵、私たちに追い付いたということは、馬を何頭も乗り潰したのですか?」
早く辿り着こうとするなら、そういうことになる。自分の休憩もわずかで、使い捨てのように馬を交換して。
でも、と私は思う。レイナン様が命令したのではないなら、伯爵はなぜそこまでするの?
カシャン。
イリルは腰にそっと手を当てた。伯爵は楽しそうに一歩踏み出す。イリルは重心を低くする。イリルの足手まといにならないよう、私も伯爵から視線を外さない。
伯爵は疲れ果てて足を折り曲げて座り込んだ自分の馬を見て言う。
「何頭も、ではありませんよ、これ一頭だけです」
「それは無理だろう。この距離で、この時間でここまで来るということは、途中で馬を交換しなくては保たない」
「でもそれは馬の疲れを考慮した話ですよね? 疲れても、ずーっと頑張ってもらえばいい」
「そんなこと不可能でしょう?」
「普通ならね」
そんな会話を交わしている間に、馬の様子が段々とおかしくなっていたことに私は気づいた。さっきまで大人しく座ったのに、呼吸が荒くなっていくのだ。イリルも不審に思ったようで、背中に漂う緊張感が増した。自分の頭を支える力も無くなったのか、馬は地面に顔を付け、ついに足全体を地面に投げ出してた。苦しそうに、胸を上下させてぐったりと横になる。
「何をしたの?」
私は思わず聞いた。伯爵は禍々しく笑った。
「あなたたちはすぐに気持ちとやらを考えるんでしたね。大丈夫、苦痛は感じてません。ただ、体が限界なだけで」
「何か術をかけたのか」
イリルが剣を、すっと抜いた。ゆっくりと構えながら、伯爵に聞く。
「お前が『魔』か?」
おや、と伯爵は両眉を上げた。嬉しそうに。
「ご存知でしたか——はっ!」
ブワッと音を立てて、馬から黒い何かが一斉に飛び立つ。虫でも土でもない。いわば黒い霧のようなものだ。
「イリル、気をつけて! あれに触れないようにして!」
私は本能的に叫んだ。あれはダメ! あれに触れると取り込まれる! 何故かわからないけどそう思ったのだ。
「わかった!」
理由も聞かずイリルは答える。私はどうにかしてあれを消さなくてはと焦る。
「小器用なことをしても無駄ですよ」
伯爵は右手を大きく上げ、そしてイリルに向かって振り下ろした。黒い霧はそれは合図だと言わんばかりに、イリルに向かって飛びかかった。
「やめてっ!」
私は悲鳴に似た叫び声を上げた。あれに触れると、イリルが取り込まれてしまう! それくらいなら私が代わりに——
「逃げて」
イリルは短く言った。踏み出そうとした私より速く、剣を構えて伯爵に向かう。霧も一斉にそこに向かう。イリルは軽快にジャンプして、伯爵の右腕に斬りつけた。
ざしっ。
嫌な音がした。ドゥリスコル伯爵は、涼しい顔をしながら、右手で剣を受け止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます