38、男爵令嬢と天才ピアニスト
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そして、演奏会当日。
「ほら、見て」
扇で口元を隠して、フレイア様が言った。
視線の先は、着飾ったご婦人たちだ。大勢集まってきたのが特別席から見える。
「開演にはまだ時間がありますのに」
私が言うと、真っ白な上着を品よく着こなしたレイナン殿下も笑う。
「この国で一番大きいグラトゥラチオーン・ホールも、彼には手狭だろうね」
「本当ね」
そう答えるフレイア様も、白を基調に刺繍を入れたドレスだった。
「そんなにすごい方なんですね」
対する私は薄い黄色のドレスだ。イリルから貰ったアメジストのアクセサリーが映えるから、とフレイア様が選んでくれた。
「興味ないのはクリスティナくらいよ。顔合わせはできなかったけど、肖像画は見たんでしょう?」
私は、整っているけれどどこか冷たい印象の肖像画を思い出して言う。
「顔と演奏は関係ないんじゃないですか?」
「厳しいわね」
フレイア様の言葉に、レイナン殿下も頷いた。
「演奏が終わってから、クリスティナがどんな感想を言うか楽しみだな。イリルに報告しなくては」
「まあ、イリル様に報告されて困ることなんて何もありません」
「どうかな」
からかわれているのがわかりながら、イリルの名前を出されるとついムキになってしまう。
お二人はそんな私を楽しそうに眺めた。
「私、何か不具合がないか、最後の点検をしてきますわ」
これ以上からかわれないように、私は会場の外に出ることにした。
「演奏が始まるまでに戻りますわ」
「大丈夫?」
フレイア様が心配そうに眉をひそめた。私は笑顔で頷いた。
「ルシーンと、カールも一緒ですから」
国王陛下からどういう話があったのかはわからないが、父は謹慎を言い渡され当分は屋敷から出れない。
とりあえずの処分なのでこれからどうなるかはまだわからない、と心配するイリルは、宮廷騎士のカールを新たに私の護衛にした。
ゴツい体で髭の濃いカールはとても無口で、必要なこと以外は喋らない。だが、不思議と威圧感はなかった。
「ルシーン、カール、外を少し見回りたいの」
声をかけると二人ともすぐに付いてきてくれた。私の隣をルシーンが、少し後ろをカールが歩く。
「外のどこを見回るのですか?」
ルシーンの質問に、そうね、と答えた。
「入り口の人の流れを見ておきたいわ」
グラトゥラチオーン・ホールは宮廷のすぐ近くに建てられているが、敷地内ではない。
今回のように人気のある演奏会は初めてなので、導線がうまくいったか少し気になった。
外に出て、顔馴染みの騎士たちと挨拶を交わす。
「ご苦労様。問題ないかしら?」
騎士は頷いた。
「特には。ああ、主役のローレンツ様がまだいらっしゃらないようです。時間には余裕がありますが」
「グロウリー伯爵のところに滞在しているはずよね?」
「そう聞いております」
だったら、伯爵がきっちりと送り届けてくれるだろう。私は騎士たちをねぎらってから、また歩き出した。
「宮廷の会場を使えばこんな苦労はしなかったのにね」
ついついルシーンにそう言うと、ルシーンは不思議そうに答えた。
「肝心のピアニスト様がこの規模のホールでないと、とおっしゃったんでしょう?」
「そうらしいわ。広さもあるけど、ご指定のピアノがここじゃなきゃ運び入れられなかったらしいの」
そのピアノは、フレイア様のご実家の伝手で持ち込むことができた。
「おかげで演奏会は成功しそうだからいいけれど」
慈善事業の名目なので、成功してもフレイア様に利益が入ってくることはない。だが、フレイア様の孤児の保護政策の後押しにはなる。
「それにしても人気ね」
私とルシーンは少し立ち止まって、馬車が次から次へと到着するのを眺めた。
「確かまだ二十歳くらいの方でしたよね。こんなに人を集められるなんてすごいです」
私は頷く。
「十歳そこそこで数々の演奏会を開催して、十二歳で社交界デビューし、そこから各国で活躍している天才ですもの」
ルシーンは少し笑った。
「それにしてはクリスティナ様はあまり興味なさそうですね?」
私は何も言わず目だけで微笑んだ。
その通りだったからだ。
演奏の腕はともかく、「前回」の記憶によると、ローレンツはその外見と才能で、あちこちの貴族令嬢やご夫人と醜聞を巻き散らかした。彼の人気はこれからさらに熱狂的に高まるのだ。わざわざそれに巻き込まれることはない。
——特に、私は関係者なのだから。一線を引いて冷静に対応しなきゃ。
どちらにせよ、今日が終わればもう関係はない。
あとは本人が到着して演奏すればいいだけだ。
「門の内側を一周してから、フレイア様のところに戻りましょう」
ルシーンとカールにそう言うと、二人とも頷いた。
ホールの周囲は、簡単な遊歩道になっている。
まだ日は沈んでいないので、私はのんびりと植物を楽しみながら歩いた。
「クリスティナ様」
しかしホールの真裏で、ルシーンがはっとしたように立ち止まった。カールがすっと私たちの前に出る。誰かいるのだ。
木の影になっていたが、男性が庭石の上に座っていた。
身なりは上等だが、髪はぼさぼさで、どこかぼんやりと背中を丸めていた。
——あら、もう一人?
よく見れば男性に対峙するように、若い女性が立っていた。
貴族らしきその女性は腰に手をあて、怒ったように言っていた。
「ローレンツ! いつまでわがまま言うの! 早く着替えなさい」
弱々しい声が返る。
「あんな豪華なところ落ち着かないんだ。今夜、君のところに泊めてくれるというならすぐにでも準備するよ、グレーテ」
「何回同じこと言わせるの? たかが男爵家にあなたを泊める余裕はないわ」
——ローレンツ?
私はルシーンと顔を見合わせた。
ルシーンも驚いたように頷いている。
通り過ぎようかと思ったけれど、そうもいかないようだった。
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