36、優美な歌
三日目は、雨だった。
「この時期に降るなんて珍しいわね」
窓を開けると、糸のように細い雨がどこまでも落ちていくのが見えた。
「空も明るくなってきていますし、もうすぐ止むでしょう」
朝食の用意をしながらルシーンが答えた。
昨日から朝食も夕食も部屋で取るようにしていたのだ。手間はかけさせてしまうが、どうしても父と同じ空間にいる気になれなかった。
「どうぞ、クリスティナ様」
「ありがとう」
少量の果物とスープにパン。そんなに量は必要ないので、すぐに食べ終わる。
「本当なら今日は帰る日だったのよね」
「そうですね」
「外出も手紙も禁止して、それで私を縛っているつもりかしら」
食後のお茶を飲みながら呟くと、ルシーンが困ったように頷いた。
「旦那様にとって、クリスティナ様はいつまでも小さいお嬢様のままなのかもしれませんね」
「都合のいいようにしか見ないものね」
私からの手紙を待っているはずのイリルの顔が浮かんだ。
カップを置いて、私はゆっくり立ち上がる。
「仕方ないから、今日も本を読みましょう」
私の言葉にルシーンは丁寧に頭を下げる。
「かしこまりました」
部屋の隅にはいつでも出ていけるように、最低限の荷物がまとめてある。
ルシーンの言う通り、雨は午後には止んだ。
けれど私が外に出れることはなく、四日目も五日目も、同じように過ごした。
‡
来るはずの手紙が来ないことで、イリル・ダーマット・カスラーンが公爵家を訪問したのは六日目だった。
「申し訳ありません、殿下。せっかく来ていただいたのに、クリスティナは伏せっておりまして」
丁寧にオーウィンが答える。宮廷とは違い、私的な場所で会うオーウィンは退廃的な魅力を相手に与えた。突然訪れたせいで整えきれていない前髪のせいだろうか。
——はっきり言って不快だな。
イリルは眉を寄せて質問した。
「伏せっている? どういうことですか? オフラハーティ公爵」
「ですから、クリスティナは病気なのです」
「病気? 先週まではとても元気そうでしたが」
オーウィンは悲しげな表情を作って言った。
「病気とはそういうものでしょう。突然、前触れなくかかるのです。王太子妃殿下にも、しばらく宮廷に戻れないとお知らせしようと思っています」
出されたお茶にも手をつけず、イリルは考え込む表情をした。
オーウィンはさらに言葉を足す。
「ご心配ありがとうございます……何、すぐに治るでしょう。念のためしばらくこちらで静養させようと思っているだけで」
「宮廷から医者を寄越そう」
きっぱりと言ったイリルに対し、オーウィンは歯切れ悪く答えた。
「いえ、その、殿下、それには及びません」
「なぜだ?」
「公爵家にも代々仕える医者がおりますので、それで事足りております。その、娘も慣れた医者の方がいいでしょうし」
「しかし」
納得しきれない様子のイリルに、オーウィンは力を込めて言う。
「お心だけで十分です」
イリルは諦めたように言った。
「それでは少しでいい。クリスティナの顔を見れないだろうか?」
「娘のことをそんなに思ってくださって……ありがとうございます」
オーウィンは感動した素振りで言った。
「しかし、殿下。乙女心というものをわかってやってください。病み疲れているところを見せたくないものです。これはクリスティナからの要望でして」
「……そうか」
イリルはすっかり冷めたお茶の表面を見つめた。天井の、公爵家自慢の豪華なシャンデリアがそこに映っている。歴史のある家なのだ。知っている。
イリルはため息をついた。
「すぐ治るとは、どれくらいだろうか」
「それは……クリスティナの気持ち次第ですね」
「気持ち?」
イリルの眉が片方だけ上がった。オーウィンは少し早口に答えた。
「いえ、気力次第の間違いです。気力さえ出れば、昔のクリスティナに戻るでしょう」
オーウィンは何を想像したのか、そこで満足そうに笑った。
「安心してください殿下。すぐに以前のように素直で、可愛らしい、自慢の娘をお目にかけます」
「わかった」
これ以上話をする気分になれなかった。父親とは言え、オーウィンの口からクリスティナを語られることに嫌気が差した。
「ところで公爵」
話題を変える。
「クリスティナは元々、妹君のお見舞いで戻ったと聞いている。そちらとの関連はあるのだろうか?」
「あ、いや、それとは全く違う病気だと医者は申しております。おかげさまでミュリエルはもう快癒するでしょう」
「それは不幸中の幸いだった。見舞いの品があるのだが、いいかな?」
「ミュリエルにですか? それはもちろん!」
イリルは、従者として付いてきたブライアンに目で合図した。ブライアンは馬車から布をかけた荷物を、二つ運んできた。
「これは」
さっと、布を落とすと、籠に入ったウタツグミが現れた。
二つの籠に、二羽のウタツグミ。
「二つとも、ミュリエルにですか?」
「こうして仲間同士で飼うと、お互い競い合って特にいい声で鳴くと聞いて持ってきたのだが、せっかくだからクリスティナと妹君、一羽ずつ渡してもらえないだろうか」
オーウィンに断る理由はなかった。
「ありがとうございます。どんな優美な歌を囀ずってくれるのでしょう。娘たちも喜びます」
「公爵」
「はい?」
「政略結婚とはいえ、私はクリスティナのことをとても大事に思っている。そのことは忘れないでもらいたい」
「ええもちろん……親としてこんなにありがたいことはありません」
オーウィンはニヤリと笑った。
とても下卑た笑いだった。
結局その日はクリスティナに会えることはなかった。
イリルは帰り際、何かを確かめるように、クリスティナの部屋の辺りを見つめていた。
オーウィンはそんなイリルを眺めて満足した。
イリルがクリスティナへの気持ちを募らせれば募らせるほど、クリスティナはオーウィンの言うことを聞かなければならない。
イリルに会いたければ、大人しく言うことを聞けと恫喝できるからだ。
そう思ったのだ。
——もちろん、そんなことはイリルにとって折り込み済みの計画だった。
‡
「イリル!」
「クリスティナ!」
渡されたウタツグミは、歌なんか歌わなかった。
それはただの合図だった。
あれを離すと、仕込まれていた独特の鳴き声をあげて、イリルに私の準備が整ったことを知らせてくれるのだ。
「まさかウタツグミを持ってきてくれるなんて思わなかったわ!」
「一番いい声だったんだ」
一週間離れているだけだったのに、もっと長い時間会えなかった気がした。
「よかった、無事に会えて」
「イリルのおかげよ……本当にありがとう」
私はイリルに抱き付いた。
イリルもそんな私を受け止め、抱きしめ返してくれた。
はしたないけど、どうでもいい。
ルシーンとブライアンも気まずそうに見逃してくれている。
だけど、そんなにのんびりしている時間はない。
「急ごう、馬車を用意している」
「荷物はこちらですね」
「ありがとう、ブライアン」
公爵家から少し離れた森の中を、馬車は滑らかに出発する。
私たちはようやく一息つけた。
「まさか公爵家とここがつながっているとはね」
「知っている人は少ないと思うわ」
イリルの呟きに私は笑う。「前回」ミュリエルから教えられた『秘密の通路』の出口がここだった。
通路が今回も使えることは事前に何回も確かめてあった。
それでもイリルがいなければ、もっと困難な脱出だっただろう。
感謝の眼差しで見つめると、イリルは呟いた。
「普通に戻って来れたらそれが一番よかったんだろうけど」
私は小さく首を振った。
「『普通』を求めちゃ駄目だってわかったから、これでいいのよ」
イリルは黙って私を見つめ返した。
私はふと、屋敷に残されたもう一羽のウタツグミのことを思った。
ミュリエルはあのウタツグミをどうするのだろう。
あのまま屋敷で飼い続けるのだろうか。
だけど、すぐに気持ちを切り替えた。
それはミュリエルが決めることなのだ。
「義姉上も心配していたよ」
「演奏会に間に合ってよかったわ」
馬車はすぐに景色を変えて行った。
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