33、半歩後ろに下がった
‡
結局、ミュリエルとゆっくり話をする前に、父と二人で食事をする羽目になった。
「うん、今日のメインはいい出来だ」
肉料理と赤ワインで楽しむ父の向かいで私は、無言でナイフとフォークを動かしていた。
ミュリエルは、部屋でひとり、病人食だそうだが、正直羨ましかった。
——味の薄いポリッジでも、その方が食べた気になるんじゃないかしら。
「ミュリエルはまだ病気なんだよ、クリスティナ。無理をさせてはいけないね」
突然、そんなことを言い出す父と一緒に食べるより。
「病気には見えませんが」
反論すると、父は不機嫌そうに眉を上げた。
気にせず私は続けた。
「明日には帰りますね」
父は心底驚いた顔を見せた。
「なんだと?」
まるで、私がそんなことを言うなんて考えてもなかったみたいだ。元々、ミュリエルの顔だけ見たら帰る、と手紙で再三伝えてあるのだが。
「ミュリエルの容態も心配なさそうなので」
そう言うと、父は不機嫌そうに首を振った。
「なぜわからない? お前が来たから無理をして元気に見せかけているだけだ。あの子はお前といたいんだよ」
まさか、と笑いたいのを堪えて私は言う。
「私がいることで無理をさせるくらいなら、いない方がいいですよね?」
「……屁理屈を」
父は苛々したように、グラスを傾ける。そしてまた新しいボトルを開けさせた。
「トーマス、私にはもうデザートをお願い」
「かしこまりました」
父に付き合っていたらいつまでも食事が終わらないので、私は私のペースで進めることにした。
「あら、懐かしい。小さい頃、よく作ってもらったわね」
運ばれてきた、アイスクリーム添えのミントゼリーに、ここに来て初めて声が弾んだ。トーマスが満足そうに頷いた。
「クリスティナ様がお帰りになるとのことで、厨房が張り切っておりました」
「……ありがとう」
口に運ぶと、昔のまま、冷たくて甘い味がした。
初めて、家に戻ったんだと思えた。
「とにかくまだ来たところじゃないか。もうしばらくいなさい」
私の感傷など気にもしない父は、無遠慮に同じ話を繰り返す。
私は父を見ずに答えた。
「来週、フレイア様が主催する演奏会があります。お手伝いをしなくてはなりませんから」
「それくらい、誰かに頼めばいいだろう」
「私じゃなくてはわからないこともあります」
「ふっ、ずいぶん偉くなったつもりだな?」
私は淡々とスプーンを動かす。
「そんなことは申しておりません」
アイスもゼリーもあっという間になくなってしまった。となると、もうこの場所にいる必要はない。
「疲れておりますので、先に休ませてもらいますね」
そう断りながら立ち上がると、
「ダメだ」
父が反対した。
「休んではいけないのですか?」
聞き返すと、むっとした顔で付け足した。
「宮廷に戻ってはダメだと言っているんだ」
「なんの話ですか?」
空になったグラスに、ワインを注がせながら父は言った。
「よくわかったよ、やはりこの家はお前がいないと始まらない」
「は?」
「まずはミュリエルの躾を頼む。家庭教師を何人も辞めさせて、トーマスが困っているんだ。助けてやってくれ」
呆れてすぐに言葉が出てこなかった。それをどうとらえたのか、父は流暢に続ける。
「王太子妃殿下には私から言っておこう。荷物は後で送ってもらえばいい。なんならシェイマスに——」
「嫌です」
「手配してもらって、ん?」
「嫌だと言いました」
「……誰に向かって?」
「お父様です」
「あまり調子に乗るなよ?」
「無責任なことはしたくないだけです」
そのとき私は、父の次の行動がほんの少しだけ先に読めた。
父の腕が伸びると同時に、私は半歩後ろに下がった。
それだけでよかった。
ばしゃ!
どこか間抜けな音を立てて、ワインが床を濡らした。
父が私にかけようとしたのだ。
間一髪で私は無事だった。
——でも椅子は濡れたわ。染み抜きが大変そう。
冷静に観察していると、怒鳴り声が飛んできた。
「俺のワインをよけるなっ!」
「……何言ってるんですか」
本当に何言っているんだろう、と思ったが同時に、それが父だとも思った。
自分がかけようとしたワインをよけることすら許さない。
その傲慢さにため息をついた。
「……心底どうでもいいですね」
「何がだ」
「お話しすることが」
父はワインと同じくらい真っ赤になった。
「親を馬鹿にするのか!」
「ワインをかけられそうになってまで尊敬しろと?」
——ガシャン!
今度はグラスを投げつけた。
それは予想できなかったが、幸い怪我はなかった。
「お父様」
私は表情ひとつ変えずに言った。
「もう、そんなことでは私は怖がりません。子供じゃないんです」
「うるさい!」
「約束を守りたいので、宮廷に戻ります」
「許さないぞ! この屋敷から一歩も出さない!」
まあ、そうだろうなと思った。
父が私をいいように利用するだろうことは想像していた。
—=悲しいことに、嫌な予想はことごとく当たってしまう。
おそらく、父は私を閉じ込めるために、警備の者を増やしている。
門にも見張りを立て、馬車も使えないようにして。
玄関の出入りも制限するかもしれない。
「お父様」
苦い思いで私は言う。
「私、お父様の道具ではありません」
私が父の行動を予想していることを、どうしてこの人は予想しないのだろう。
簡単だ。
父にとって私は「道具」だからだ。
——道具に意思はない。
だから、父は、私が自分の行動を予想するとは思っていない。
それならそれでもういい。
「生意気なことを言うな!」
「失礼します」
それ以上話す気もなく、私は食堂を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます