30、回廊の外
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父からの手紙は端的に、ミュリエルが病気なので戻ってこい、とそれだけだった。
だが、トーマスではなく、自分で書いてあるところに、私はミュリエルが本当に病気の可能性もあるのではないかと考えた。
「嘘だろ、仮病だよ」
あっさりとそう言ったのは、シェイマスお兄様だ。
「やっぱりそうかしら」
天井画が美しい宮廷の回廊を、お兄様と二人で歩きながら話す。
「本当に病気なら、僕のところにも知らせが来るんじゃないか?」
「来てないの?」
お兄様は頷いた。
「まったく」
でも、となぜか私はかばうように言ってしまう。
「ミュリエルは、特に私に会いたがっているって書いてあったわ。だから私にだけ先に送ったとか」
「それも嘘だろ」
「そうね……」
「せっかく家を出てきたのに、今さらミュリエルが気になるのか?」
私は正直に言う。
「そうなの。放っておけばいいのはわかっているのに」
「クリスティナは昔から面倒見がよかったからな。自分を後回しにしても周りに気を遣う。抱えすぎるとしんどいぞ?」
そうかもしれない、と私は頷く。
そんな私を見て、お兄様は考え込むように腕を組んだ。
「僕が様子を見に行ってもいいんだけど、今、領地の方でも気になることがあってな……おっと、これは父上には内緒だぞ」
領地?
アカデミーの卒業を控え、文官見習いもしているのに?
「お兄様こそ、一人で抱えていない?」
「一人じゃないさ。むしろ跡取りとして今まで見て見ぬふりをしてきたことを反省している」
そう語るお兄様が、なんだか大人びて見えたので、私は思わず質問した。
「お兄様?」
「なんだ?」
「昔はもっとぼんやりしていたわ。どうしてそんなに行動的になったの?」
おいひどいな、と呟いてからお兄様は答えた。
「ぼんやりしてたか? そんなに変わらないだろう」
「人の話をよく聞かないから、いつも私が付いて回ってあげていたじゃない」
本に夢中になってすぐに時間を忘れるお兄様に、食事の時間や勉強の時間を教えてあげるのが子供の頃の私の役割だった。
「ああ、うん。お前にはよく時報になってもらったな。でも今ではきちんと時計を持っている」
わざわざ懐中時計を取り出した。私は苦笑する。
「時計を持つようになったからって、領地のことまで気にするようにはならないでしょう。何があったの?」
——自分の代できちんと立て直す。
お兄様のそんな決意を、イリルから聞いてはいた。
だけど、きちんとお兄様から聞いておきたかった。私の記憶の中のお兄様は、そんなことに興味を持たない印象だから、余計に。
「やっぱりアカデミーでの暮らしがお兄様を変えたのかしら」
首を傾げると、お兄様は顔を赤くして、小さい声で言った。
「それもある」
「それ以外もあるの?」
お兄様は辺りを見回し、人の気配がないのを確かめてから言った。
「……偶然知り合った男爵令嬢なんだけど」
「は?」
「彼女の影響が大きいんだ」
「えっ? お兄様それって」
「違う! そんなんじゃない! そんなんじゃないんだ」
「何も言ってませんけど」
「なんかここ暑いな」
パタパタと、手で顔を仰ぐお兄様を意外な気持ちで眺める。
お兄様に婚約者は、まだいない。父が選んでいる最中なのだ。
だけど、遅かれ早かれ、いずれはお兄様も結婚する。貴族の常として、それは政略結婚だ。お兄様もそれは、よくわかっているはずなのに。
「たまに会って少し喋るだけなんだ。それだけなんだけど、なんていうか、彼女といると本当に目が覚めるような気持ちになるんだ。裕福でないみたいなんで、苦労しているはずなのに、すごく前向きで。彼女を見てたら、今まで自分は何してたんだろうって反省した」
本当に幸せそうに語るので、私は何も言えずに聞いていた。
「父上の言う通りにすればいいかと思っていた頃と違い、今は、本当にそうしていいのかどうか、まず考えなきゃいけないって思えるようになった。全部彼女のおかげなんだ」
珍しく饒舌なお兄様は、そのまま回廊の端まで来て、やっと話題を変えた。
「おっと、話がずれたな。だからミュリエルの件だけど、帰らなくていいと思うぞ」
帰らなくていい。
確かにそれはその通りだ。
帰らなければ、私はこのままここで安全に過ごせる。
でも、屋敷の人たちは?
そしてミュリエルは?
私は「前回」の火事を思い出して、思わず手を握りしめた。
私がここにいることであれを回避できる確証があるなら別だけど、それはまだ誰にもわからない。
もしかして、放っておくことが同じ結果を生むかもしれない。
何回か深呼吸してから答える。
「いいえ、お兄様。私、やっぱり一度家に戻るわ」
「なんだよ、急に」
変わるにはきっかけがいる。
例えば、お兄様にはその彼女との出会いが。私の場合は、巻き戻りが。
——でも、ミュリエルには何もない。
「このままだと、ミュリエルはずっとそのままだと思うんです」
私はお兄様をじっと見た。
「もちろん、私がミュリエルを変えるなんておこがましいのはわかってます。そんな簡単な子じゃないし」
「そうだな」
私もお兄様もちょっと笑った。
「でも、あの屋敷以外にも見るものや聞くことがいっぱいあるってわかってもらえたら、少しはいい方向に動くかもしれない。そう思えてきました」
私が自分からミュリエルに関わろうとしたのは、これが初めてかもしれない。
「クリスティナらしいといえば、らしいけど……無理せずすぐ帰ってこいよ」
私は頷く。
「長くいるつもりはありません。フレイア様にもそう申し出ていますから」
「わかった」
回廊から外に出ると、青空が広がっていた。
「いいお天気」
私は思わず目を細めた。
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