22、傘の下の近さ
「どういうことですか?」
思わず勢い込んで尋ねる。
するとイリルはごく自然な動作で、私の手から日傘を奪った。
え、と思うまもなく、一つの傘の下の近さで、私たちはお互いを顔を見つめ合う。
「内緒話にはこの方が都合がいいから」
イリルの表情はいつもと同じで、私はそうなのかとひとまず頷く。
——内緒話のためにね? そうなのね? そうなのかしら?
でも、と私は思う。
少し離れて見守ってくれている護衛の方やルシーンとの距離を思うと、相合い傘まではしなくて大丈夫では?
私がいささか混乱していると、イリルの声がまた降ってきた。
「オフラハーティ公爵からレイナンと義姉上、両方に打診があったんだ」
「お父様から」
ひとまず切り替えて、私は話に集中する。
イリルの顔を見上げると、日傘の作った影の中、少しだけ眉が下がっているのがわかる。私のことを気遣っているのだ。つまり、公爵家にとってよくない話なのだろう。
「私なら平気ですので、どうぞ聞いたままおっしゃって」
そう言うと、では、と続けた。
「二人とも断りたいそうだが、一応君の意見を聞きたいそうだ。特に義姉上は君次第だと言ってーー」
「お断りしてください」
考える前に口が動いていた。
イリルが目をぱちくりとさせている。
私も手で口を押さえてしまった。
でも、正直に言おうと思った。
「今のミュリエルにはまだその役割は早すぎます。気さくに接してくださるとはいえ、フレイア様は王太子妃殿下。礼儀のなっていない者を近づけるわけにはいきません」
「わかった」
私はため息をついた。
「申し訳ありません」
「なぜ謝るの?」
「少し考えたらわかることですのに、父が無理を申しまして」
イリルは試すように言った。
「オフラハーティ公爵から見たら、妹君の礼儀は完璧だということかな」
「いいえ……」
私は少し前に届いた、父からの手紙を思い出した。
執事のトーマスが代筆したそれは、ミュリエルがわがままで困っているから、早く戻ってこい、というものだ。私はまだ出仕したばかりでそんな無理は通せない、と返信した。
するとまた似たような手紙が来た。
——慣れない宮廷暮らしでは、辛いこともあるだろう。早急に戻ってくる日時を知らせること。
同じようなことを代筆させられるトーマスを気の毒に思いながらも、私もまた同じような返信を書いた。よほどミュリエルがわがままを言っているのだろう。
ある意味、父を相手にしても変わらないミュリエルは大したものだと思うが、それも離れているからこその感想だ。目の前にいたら疲れるに違いない。
それにしても、と私は目を伏せた。
私が相手にしないからと言って、直接フレイア様たちに申し上げるなんて、お父様、どうかしてるんじゃないかしら。
苛立ちを抑えきれずにいたら、イリルが傘を持っていない方の手で私の後毛を触った。
「え?」
「綿毛が飛んでいた」
手のひらをパッと広げると、ふわっと風に乗って綿毛が飛んでいった。
「あ、ありがとうございます……」
恥ずかしがる私に、いつもの笑顔で言った。
「じゃあ断ろう」
「お願いします」
そのまま歩き出す。
イリルは、さらに少し小声で話し出した。
「実はねクリスティナ。僕とレイナンはずいぶん前から、シェイマスから相談を受けていたんだ」
「お兄様から?」
「アカデミーに入って、離れたところから父親を見ると、どうも尊敬できないことが多い。特に領地経営に関しては不安があるとね。文官見習いとして宮廷に入ったことでさらに客観視できたそうだ」
まったく予想していない話だったので、足を止めてイリルを見た。イリルは小さく首を振る。
「歩きながらの方がいいと思う。内緒話だからね」
ゆっくりした速度でまた私たちは歩き出す。この話をするために、距離を近くしたのかもしれない。
イリルは続ける。
「公爵は元々、宮廷でも部下となる身分の低い文官たちへの態度が横柄だったんだけど、最近は特にひどいらしい」
「……申し訳ありません」
「クリスティナが謝らなくていいよ」
「ですが」
「謝罪ならシェイマスが代わりにしてくれた。僕やレイナンに。そして、待って欲しいって言われたんだ」
——待つ? 何を?
私が目で問いかけると、イリルは頷いた。
「自分の代できちんと立て直すから、もう少しだけ待ってほしい、と」
——お兄様の代できちんと立て直す。
その意味を掴みかねていると、イリルは囁くように言った。
「公爵家ともあれば、失脚を望む者は多いだろう。特に今の公爵は隙だらけだ。シェイマスはそれを何とか防ごうとしている。僕とレイナンはひとまず、シェイマスを見守ることにした。もちろん、僕たちも僕たちの立場があるから、対立することもあるかもしれない。だがあれほど大きな家が潰れるとなると王家の威信にも関わるからね、ひとまずはシェイマスを静観するよ」
「……わかりました」
「公爵がシェイマスの意見を取り入れるという可能性もまだある」
「そう……ですね」
イリルやレイナン様に感謝しながらも、それはないだろうと私は思った。
父は自分の利益にならない人間は容赦無く切り捨てる。
——だからこそ、期待されていないと名言された私は家から離れる決意をしたのだから。
兄は大丈夫だろうか。
漠然とした不安をどう言葉にしようか考えていると、
「おっと、人が来た。はい」
イリルの声で我に返った。先ほどと同じようにごく自然な動作で、イリルは私に日傘を戻した。
ありがとう、と言う間もなく背後から騒がしい気配がした。
「まあ! イリル殿下、クリスティナ様、ごきげんよう」
ギャラハー伯爵夫人だった。
「先日は誕生日パーティに出席してくださってありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。それより、今、相合い傘をしてらしたような……」
ギャラハー伯爵夫人はわざとからかうように言う。
イリルがまったく動じない笑顔で答えた。
「彼女の傘が風で飛びそうだったから、僕が持っていてあげただけですよ」
「あら、まあ、風が」
楽しそうなギャラハー伯爵夫人の後ろから、また人影が見えた。
「伯爵夫人、こちらでしたか」
見ると、上等な服装を身にまとった、不思議な雰囲気の男性が現れた。この辺りでは珍しい黒髪と、もっと珍しい赤い目をしている。外国の方だろうかと思っていると、ギャラハー伯爵夫人が少女のように笑いかけた。
「アラナン! ごめんなさい、探してくれたのね」
鈍い私でもそれだけで、二人の仲が何となく察せられてしまう。
「殿下、こちら、アラナン・ドゥリスコル伯爵です。帝国からいらっしゃいました」
ああ、とイリルは思い当たる顔をした。
「お話は伺っていますギャラハー伯爵のところにしばらくいらっしゃるとか」
「はい。よろしくお願いします」
どこまでも礼儀正しいやり取りなのに、私はなぜか、ドゥリスコル伯爵から離れたい気持ちになった。
だがそんなことはもちろんできなくて、ドゥリスコル伯爵は、私にも丁寧に挨拶してくれ、私も返す。
だが。
「ギャラハー伯爵夫人から伺っておりますよ、とても姉妹仲がいいと。いつか妹様にもお会いしたいですね」
その言葉には社交辞令でも、はい、と言えなかった。
「ありがとうございます。ですがまだ子供ですので」
「そうですか、残念です」
微笑む伯爵の、赤い目は全然笑っていないように見えたのは、気のせいだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます