17、魔法がとけたような
「離れたいってどういうことだ?」
まずは穏やかに質問してくれる。やっぱりお兄様は優しい。
小さい頃から優秀で、本ばかり読んでいたお兄様。
どこか飄々として、たまに人の話を聞いていないときもあるけど、思い起こせば、お兄様はいつも一緒に困ってくれた。
今みたいに。
「そのままの意味ですわ。この家を出てどこか違うところで暮らしたいのです」
馬鹿馬鹿しいと一蹴されても仕方ない思い付きを、うーん、と腕を組んで考えてくれる。
「やっぱり、昨日のことが原因か?」
三年後にミュリエルが家に火をつけることは、お兄様に言うつもりはなかった。
お兄様にとっては、私もミュリエルも妹なのだ。私の話を信じたら、お兄様はきっと悩む。信じてもらえなかったら、私が悲しむ。
私は言葉を選んで説明した。
「お互い離れているほうが、健全な関係を保てると思いません?」
お兄様が憐れみを含んだ視線を寄越したので、慌てて言い添えた。
「あの、お兄様、私、自棄になっているわけではありません。あくまで前向きな結論です」
「そうは思えないけど」
こほん、と私は咳払いする。
「ここにいていつまでもミュリエルと比べられるくらいなら、どこかの家で侍女として働くほうがずっといいと思いませんか? 見聞も広まります」
お兄様は目を丸くした。
「侍女?! クリスティナが?」
「はい。つきましては、肝心の働き先を紹介していただけたらありがたいのですが」
「……そんな大事なことを僕に託していいのか?」
「私よりもお兄様の方が適任ですわ。淑女をやめたので、出来ないことは出来ないと言うことにしたのです」
「淑女をやめる? なんのことだ?」
なんでもありません、と誤魔化して聞く。
「反対ですか?」
お兄様は、大きく息を吐いた。
「いや……父上にあんなことを言わせた責任は僕にある。できれば協力してやりたい」
「さっきも言いましたが、お兄様のせいではありませんわ。でも、それでは」
目を輝かす私を手のひらで制した。
「だけど、働き先は紹介できない。というか、ないだろう」
どうして、と聞く前にお兄様は説明する。
「これでもうちは、四大公爵家のひとつだ。そんな大きな家の娘であり、第二王子と婚約しているお前を働かせる貴族はいないだろう。使いにくくて仕方ない」
——確かに。
反論の余地もない。私は肩を落とした。
「その通りです……思い付いたまま申し上げていたから、そんな簡単なこともわからなくなってました……でも」
「まだあるのか?」
納得してしまったけれど、淑女ではない私は諦めが悪いので、すぐに次の提案をする。
「それならば、オキャランのお祖父様のところはどうでしょう。ずっとは無理かもしれませんが、しばらくの間だけでも過ごさせていただけないか、お兄様、手紙を書いていただけません?」
「僕が?」
「もちろん、私も書きますが、一通より二通、二通より三通の方が聞いてもらいやすいのは、ほかでもないお兄様が証明してくださってます」
オキャラン伯爵家とは、母が亡くなってからは活発な交流はしていない。だが、誕生日にカードと贈り物を送り合う程度にはまだ繋がっていた。
悪くない考えだと思ったのだが、お兄様は難しい顔をした。
「聞いてみてもいいが、そこだって安寧の地じゃないぞ。父上が呼び戻せば終わりだ」
私はちょっと笑った。
「お父様が私を呼び戻すことなんてあり得ません」
あの父が、私を必要とすることなど絶対にないだろう。
しかし、お兄様は不穏な表情を崩さない。
「やはり、難しいでしょうか」
「いや、家を出ること自体は、実は賛成なんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。アカデミーで僕が、初めて呼吸ができたと感じたように、お前も違う場所で違う空気を吸った方がいいと思う」
「ありがとうございます!」
「だけど、あと少し我慢したら、イリルと結婚だろ? それを待つのが一番じゃないか?」
正論だと思う。
しかし、私は首を振った。
「待てません。あの人ーーお父様の顔も見たくありませんの。わがままなのはわかっています。でも、我慢の限界なんです」
「領地で過ごすのはどうだ?」
私は歯切れ悪く答えた。
「王都から、出来れば離れたくないのです……」
「ああ、イリルか」
私が思わず顔を赤らめると、お兄様は、そうか、イリルか、ともう一度呟いた。
「話は変わるが……王子妃教育は大変だと聞くけど、そうなのか?」
「ご安心ください。ほぼ終えてますわ」
「本当に?」
「なにか出来る度に褒めていただけるのが嬉しくて。張り切って勉強しましたの」
父は私が何をしても絶対褒めなかった。だがそれも、ミュリエルを「優先」していた結果なのだろう。
——わかり合えないことがわかっただけ、よかったと思いましょう。
「クリスティナ」
「あ、はい」
ぼんやりしてしまった私に、お兄様が質問する。
「王太子殿下や王太子妃殿下とは、円満な関係だよな」
「とてもよくしていただいてます」
お兄様はホッとしたように言った。
「じゃあ、宮廷はどうだろう」
「宮廷?」
いいんじゃないかな、とお兄様は呟いた。
「王太子妃殿下の話し相手として、宮廷に住み込むんだ。それなら父上も駄目だと言わない。きっと」
宮廷で暮らせる?
ここから離れられる?
王太子妃殿下の笑顔を思い出した私は、胸がいっぱいになった。
「イリルを通して……いや、僕から王太子殿下にお願いしてみよう」
「よろしいんですか?」
「妹に甘い兄のふりをすればいいんだ」
「もう十分甘いですわ。ありがとうございます! お兄様!」
照れたのか、お兄様は慌てて紅茶を飲み干して、じゃあそういうことで、と部屋を出ていった。
その後。
お兄様を通して、宮廷から了解の返事をいただいた私は喜び勇んで、父にそれを伝えにいった。
どこにでも勝手にいけばいい、そう言われると思っていたら、
「何言ってる? そんなことは許さないぞ」
頭ごなしに否定された。
「え? どうしてですか?」
思わず聞くと、父は不機嫌そうに答えた。
「まだわかっていないのか? 私がダメと言えば、それが理由だ」
なるほど、と思った私はすぐに答えた。
「清々しいまでの理由ですね」
「そうだろう」
「それでは一週間後に出発しますので、失礼します」
お辞儀をして私は父の部屋を出た。
クリスティナ、と怒鳴り声が聞こえたが振り向かなかった。
今まで、私にとって父の意向は絶対だった。逆らうことなんてなかった。
でも、やっとわかった。
それとこれは、全然別のものなのだ。
——なんだか魔法がとけたような気分だわ。
そう思いながら歩く。
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