16、わからないことだらけ

        ‡


「クリスティナ様。おはようございま……えっ」


翌朝。

いつものように部屋に入ってきたルシーンは、私を見るなり言葉を詰まらせた。


泣きすぎて、ひどく目を腫らしてしまったのだ。


「……そんなに?」

「まあ、ええ、はい」


こういうときのルシーンは、決して嘘をつかない。


「もう今日は外に出ないわ」


うなだれる私にルシーンは、


「まあまあ、クリスティナ様。そうおっしゃらずにマリーを呼びましょう」


と、声に笑いを含ませた。





「クリスティナ様! お呼びっ……えっ!」


現れたマリーも、やはり声を詰まらせる。


「そんなに……?」

「まあ、そうですね。はっきり言ってかなりです。ですが」


ルシーン以上に正直なマリーは、やる気に満ちた顔を見せる。


「ここはマリーにお任せください!」


いくつかの薬草と、濡れた布、そして心地いいマリーのマッサージ。


「すごい……早技」


あっという間に腫れは引き、手鏡を覗き込んでいた私は振り返る。


「ありがとう、マリー」


マリーは弾けるような笑顔になった。


「お役に立てて嬉しいです!」

「マリーはいつもそう言ってくれるのね」

「だって、こんなに目を腫らすほど、クリスティナ様、お勉強なさっていたんでしょう? そんな一生懸命なクリスティナ様にマリーができることってこれくらいですから」


不意に私は胸がいっぱいになった。

マリーの口から語られる私は、確かにこの間までの自分だったから。


学ぶことだらけで、深夜まで机に向かい、そのまま寝てしまい目を腫らすことが何度かあった。

今日もそれだとマリーは思っているのだろう。


——そんな立派じゃないのに。


父にとって私は生まれたときから期待外れだったのだと、めそめそと泣いていた昨日の自分が、恥ずかしくなった。


「クリスティナ様?」

「どうされましたか?」


黙り込む私に声をかけてくれるマリーとルシーンを見て思う。


——お父様に期待されないことくらい、大したことじゃないわ。


それはもちろん強がりだけど、そう思うことにしたのだ。

今この瞬間から。


——そっちが期待していないのなら、私ももう、期待しない。


「ご気分でも?」


ううん、と首を振って笑顔を作る。


「なんでもないわ。本当にマリーの腕は一流ね」

「もったいないお言葉ですっ」


そうだ。自分を哀れんでいる暇なんて、ない。この人たちを守るために、まだまだ考えなくちゃ。


だって、今日は十五歳と二日目。


こうしている間にも、あの日に時間は流れていくのだから。


          ‡


その日の朝食は、部屋まで運んでもらった。

お父様とミュリエル、どちらとも顔を合わせたくなかったのだ。



食べ終えるとすぐに、書き物机に向かった。もう一度状況を整理しようと思ったのだ。

「前回」を踏まえて、今回の役に立てる。

そのつもりでペンを握ったが、すぐに頭を抱えた。


「わからないことだらけだわ……」


そもそも、「前回」のミュリエルがなぜ、屋敷に火をつけたのかということすらまだわからない。


——お姉様のもの全部ほしい。


それだけで、あそこまでするだろうか。それに。


「……あんなことをしなくても、そのうち全部ミュリエルのものになっていたんじゃないの? 特別な子供なんだから」


「特別な子供」が何を期待されているのかわからないが、父の様子からして、悪いことではないのだろう。

となると、次に考えられるのは。


「……やっぱり誰かに騙されていたのよね、きっと」


でも誰に?

そこがわからない。


「前回」の私の交友関係は、それほど広くなかった。

第二王子の婚約者として、知り合いだけは多かったが、いろんな思惑が絡む社交に疲れていた。

だから、広く浅く、けれど毅然と、を心がけていた。


ミュリエルもそれほど広い交流を持っていなかった気がする。

少なくとも、女友達は皆無だった。


選り好みするので、婚約もまだだった。ただ、姉の私がまだ結婚していなかったので、それほど急ぐ必要はなかった。


夜会に来る男性に、華やかに如才なく振る舞う術は身につけていたミュリエルだが、いつも、何をしてもどこか子供っぽさが残った。


今から思えば、それも無理はない。

誰もミュリエルを大人として扱ってこなかったのだ。


あの頃はそうは思わなかったけど、「前回」のミュリエルはかなり孤独だったのかもしれない。


「……だけど、お母様の形見のレースのリボン。あれを奪われたのはやっぱり許せないわね。そうそう、イリルからの手紙を全部隠されたこともあったわね。なんとか見つけたけれど、気が気じゃなかったわ」


それらを防ぐにはどうしたらいいだろう、と考えた。

隠しても見つけられそうな気がする。


そうだ、いっそ——。


思い付いたその案は、実行する価値があるように思えた。


         ‡


お兄様は珍しそうに辺りを見回した。

もしかして緊張しているのかもしれない。


「クリスティナの部屋に来るのは久しぶりだな」


そんなことを言う。


「お兄様と二人きりでお茶を飲むのも、久しぶりですわ」


カップを持ち上げた私は、拗ねたように言う。


「お兄様ったら、アカデミーから全然帰ってきませんもの。よほど居心地がいいんですね?」

「なんだ? お小言か?」


言いながらお兄様もカップを傾ける。私は、真面目な顔で告げた。


「いいえ。まずはお礼申し上げます。先日はありがとうございました。お父様にあそこまでおっしゃることは、私にはできないことでした」


お兄様は、気まずそうに下を向いた。


「余計なことを言ったせいで、お前を苦しめたんじゃないかな」

「そんなことありません。お兄様は本当にお優しいわ」

「優しくなんかない」


お兄様はお茶を飲み干して、小さく笑った。


「今回だってイリルとルシーンとトーマスに説得されなきゃ、帰りたくなかったくらい薄情だ」


私は目を丸くする。驚いたのは、帰りたくないとお兄様が思っていたことではない。


「ルシーンとトーマスが? お兄様を説得したのですか?」


それは、初耳だったのだ。

 

「ああ。二人とも、別々に、同じ内容の手紙をくれてね。お前の誕生日パーティー、僕がエスコートしてほしいと」

「……私が出した手紙だけじゃなかったのですね」


お兄様は頷いた。そして、ふと思い出したように言った。


「そういえばそのとき、お前が熱を出していたのを聞いたんだ。軽い気持ちでイリルに伝えたんだが」


私は白い一重の薔薇の花束を思い出して、微笑んだ。お兄様も同じようなことを思い出したのか、肩をすくめる。


「まさか飛んでいくとは思わなかったな」


私は胸にそっと手を当てて、呟いた。


「……皆の気持ちが、ありがたいですわ。お兄様も重い腰を上げてくださってありがとうございます」


お兄様は皮肉っぽく笑った。


「よっぽど僕は家に寄り付かないと思われていたようだ。その通りなんだけど」


私も笑った。

そしておもむろに打ち明けた。


「それでお兄様、折り入ってご相談があるのですが」

「なんだい?」

「私、この家から離れたいのです。協力していただけないでしょうか?」


お兄様は、困ったような、悲しそうな顔をした。

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