9、これは公にできない話なんだけど
さすがに、息が止まった。
なんとか言葉を紡ぎ出す。
「……ど、どういう意味ですか?」
イリルは私の顔を覗き込んだ。
睫毛の長さまでわかる近さに、別の意味でまた息が出来ない。
「さっきからずっと思っていたんだ」
イリルは続ける。
「この前、アメジストを届けに来たときとクリスティナの雰囲気が全然違う。あんなに気を遣っていた妹君にも、今日は別人のように毅然と接していた。でも」
決して大きくはないのに、威圧感を感じさせる声が響く。
「決定的なのは呼び方だね」
——あ!
私は思わず手で自分の口を押さえた。
言われるまで気づかなかったが、確かにそうだ。
「クリスティナは今まで、僕のことを敬称を付けて呼んでいたよね? イリル様って。何回呼び捨てでいいよと言っても、恥ずかしがって変えなかった」
その通りだ。
私はずっと『イリル様』と呼んでいた。かたくなに。
「でも今日は、僕と二人のときだけイリルと呼んだ。それも自然に使い分けてる。咎めているわけじゃないんだよ? 呼びたいなら呼べばいい。でも僕の知っているクリスティナなら、呼び方を変える前に、僕に聞くだろう」
「それは……」
十七歳のときから、呼び方を変えた。
気持ちを伝えた私を抱きしめたイリルが、耳元で囁いたのだ。
これからはイリルと呼んでほしい、と。
すっかり習慣になっていて気付けなかった。
「気持ちの変化だけでは説明できない、違和感だった。だから聞いている。君は誰なの? 誤魔化そうとしても駄目だよ」
——ああああ。やっちゃった……。
「クリスティナ?」
動揺を隠しきれなくなった私を見て、イリルの声音は少し、柔らかくなった。
「だから、咎めているわけじゃないってば」
距離は相変わらず近い。
「でも、この間までの君と今日の君は、途切れてるというか、つながっていないんだよね。それがなんなのか僕は知りたいんだ」
「……わか……た」
「ん?」
私はなんとか声を出した。
「わかりました……説明するので、どうかもう少し離れてくださいっ」
真っ赤になって下を向いた私から、イリルは慌てて体を離した。
「ごめん、つい」
「いえ……」
落ち着いた私は居住まいを正して、呼吸を整えた。
「信じられないとは思うのですが、最後まで私の話を聞いていただけますか?」
「もちろん」
イリルは、真剣な顔で私を見つめ返す。
「なるべくに手短に話します」
そして私は説明し始めた。
淑女の鑑をやめると決めたことと、あの夜の火事のことを。
‡
「三年後にそんなことが?」
すべてを話したあと、さすがのイリルも驚いたようだった。
「やっぱり信じられませんよね」
けれど、それには首を振る。
「いや、そんなことはないよ。疑ってはいない。でも、えーと……ちょっと頭の中で整理する」
イリルは眉間に皺に寄せて、黙り込んだ。
その間に、話している間にすっかり冷めてしまったお茶を、もう一度温かいものに変えるよう指示を出した。
いい香りのするそれを一口飲んでから、イリルはようやく話し出した。
「クリスティナ、これは公には言えない話なんだけど」
「はい。どこにも漏らしません」
第二王子から語られる『公にできない話』に、私は緊張する。
「先々々代の女王陛下の妹、シーラ様のことを知ってる?」
私は急いで記憶を手繰り寄せた。
「……確か、ペルラの修道院を作られた方ですよね」
「そう、その方だ」
海に面した小さな町ペルラに、古い修道院がある。それを作ったのがシーラ様だと聞いたことがある。
「実は、シーラ様も、君のように、未来に行って戻ってきたことがあると聞いたことがある」
「え!」
「そのおかげで二回ほど、戦争を防いだとか」
まさか、似たような経験をしている方がいるとは思わなかった私は、ただただ目を丸くして固まった。
——あ。
そして思い出す。
「関係ないかもしれませんが」
「何? なんでも言って」
イリルが、優しい眼差しでその先を促した。
「そういえば、あの火事の少し前、私、そこを訪れました」
「そこって、ペルラの修道院?」
「はい。母の、オキャラン伯爵家とも繋がりがある修道院なので、結婚前に行っておいたほうがいいと、オキャランのお祖父様がおっしゃったのです。特に何があったわけではないのですが」
しかし、イリルは興味を抱いたようだった。
「シーラ様、ぺルラの修道院。このふたつを調べてみてもいいかもしれないな。何か出てきそうだ」
いつもと変わらないその態度に、胸が熱くなった。
「あの……私の話を信じてくださるんですか?」
「当たり前じゃないか」
荒唐無稽だと退けられても仕方ないのに、イリルはあっさり頷く。
「どうしてですか?」
簡単だよ、とイリルは焼き菓子に手を伸ばした。
「僕の中では、辻褄が合ったんだ。目の前のクリスティナは、やっぱり僕の知ってるクリスティナだとしっくりきた。それだけだよ」
「ありがとうございます……」
私は瞬きを何度もした。
涙がこぼれるのを誤魔化そうとしたのだ。
なのに目敏いイリルはためらいなく指を伸ばし、それを拭う。
——か、簡単にそういうことをするのやめてほしいっ。
イリルの指が離れても、固まったままの私にいたずらっぽく笑う。
「ねえ、さっき最後に言っていた、淑女の鑑をやめる話」
「はい」
「それは無理だと思うよ」
「え?」
なぜ、と聞く前にまた笑った。
「反対してるわけじゃない。やってみたらいいと思う。けど、無理だと思うな」
「出来ますよ!」
珍しく私はムキになる。
「いいね」
なぜかイリルは嬉しそうに笑った。
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