7、一重咲きの白い薔薇
完全に扉が閉まるのを見届けて、私は呟いた。
「今日のお父様は機嫌がよかったみたいね。あんまり怒鳴らず、物も投げなかったわ」
いつも黙ってる私が言い返したことに驚いたのだろうが、ルシーンが「第二王子妃」の言葉を出したのも大きかったに違いない。
私は振り返ってお礼を言った。
「ありがとう。ルシーンが口添えしてくれたおかげだわ」
「そんな、私などなにも」
恐縮するルシーンに、首を振る。
「でも、これだけは約束して。無理しないで、危ないことが起こったら、いつでも逃げて」
例えば夜中の火事とか、とは言わずに呑み込んだ。
「クリスティナ様?」
ルシーンが怪訝な顔をしたので、私は笑顔を作る。
「食事はもういいわ。早く手紙を書きたいの」
「ではすぐにマリーを呼びますね」
「お願い」
‡
マリーに手伝ってもらいながら着替え終えた私は、書き物机の前で悩んでいた。
……親愛なるイリル様、数日前にもお会いしましたが、お元気でしょうか。
——そのまま書くとおかしいわよね。
視察に出る前に少しでも会えないか、お伺いを立てようと思ったのだが。
——よく考えれば、不自然だわ。
私の感覚では久しぶりなのだが、実際ははアメジストを届けにきてくれたときに顔を合わせている。
「いくらなんでも、頻繁すぎるわ。でも出来れば視察の前に会いたいし……」
頭を抱えていると、ノックの音がした。
どうぞ、と声だけで応じる。
「クリスティナ様にお届け物です」
え? と思って顔を上げると、執事のトーマスが両手に余るほどの花束を抱えていた。
「こちらを」
一重咲きの白い薔薇が、綺麗に束ねられていた。
トーマスはにこやかな表情でそれを差し出す。誰からなのか、聞かなくてもわかった。
「イリル様ね!?」
「はい」
「素敵……」
感極まりながら花束を受けとる私に、トーマスが言う。
「クリスティナ様のご都合がよろしければ、本日の午後お邪魔したいとの伝言も承っております」
「まあ!」
幸せな気持ちが胸一杯に広がった。
私は出さずに済んだ手紙をちらっと見てから、微笑んだ。
「もちろんお受けして。トーマス、急で悪いけど準備をお願い」
「かしこまりました」
とても優しい香りの薔薇だった。
‡
その少し後。
「どなたがいらっしゃるの?」
準備に駆け回るマリーを引き留めたのは、ミュリエルだった。
「第二王子殿下です。クリスティナ様の婚約者の」
ふうん、と短く頷いたミュリエルは、お礼も言わずに立ち去った。
気にはなったが、ミュリエルが気まぐれなのはいつものことだ。
——あっ! そろそろ焼き菓子が出来上がる時間だわ!
それどころじゃない用事を思い出したマリーは、慌てて台所に向かった。
‡
「ようこそいらっしゃいませ」
「突然すまなかったね」
「いいえ、とんでもありません」
その日の午後。
はしゃいだ気持ちを隠しながら、私はイリルを出迎えた。
「シェイマスから熱が出ていると聞いていて、いてもたってもいられなくなったんだ。具合が悪いようなら遠慮するつもりだったんだが」
「ありがとうございます。今朝から調子が良くなりましたの」
「本当に?」
人懐こい緑の瞳を細めてイリルは笑った。その赤茶色の髪に快活な笑顔。すべて、私の記憶の中のものと同じだった。
——ああ、本当にイリルだわ。ちょっと若いけど。
何年前でも、イリルはやはりイリルだった。
ほっとした私は挨拶を続ける。
「お忙しいのにお気遣いいただいて。申し訳ありません」
「気遣いで来た訳じゃない」
イリルは屈託なく笑う。
「シェイマスの話が要領を得ないんで直接来た方が早いと思ってね」
「まあ」
つられて私も笑った。
シェイマスお兄様ととイリルはアカデミーの同級生だ。
二人とも十八で、普段は寮で暮らしている。
「お兄様は私に、というかこの家にあまり興味ありませんの」
「近くにあるものほど、価値がわかりにくいということかな」
「そういうことにしておきましょう」
私とイリルは家同士の結び付きを第一考えられた、いわゆる政略結婚のための婚約者だった。
どちらかというと公爵家より、母の実家のオキャラン伯爵家が動いて出来た結び付きだと聞いている。
私が八歳、イリルが十一歳のときに婚約は成立した。
だが、私たちは長い時間をかけて、ただの政略結婚以上の気持ちを育む関係になっていった。
自惚れではなく、そう思う。
白状すると、最初に恋に落ちたのは私の方だった。
第二王子とはいう難しい立場ながら、屈託ない明るさを持ち続けるイリルの芯の強さに、私が先に惹かれた。
それを受け入れる形で、イリルは私に愛を誓ってくれた。
私が十七のときだった。
もちろんそれ以前も、私たちは仲がよかった。というより、私にとって唯一の心を許せる人がイリルだった。
だから私は、今回もイリルにだけ打ち明けようと思っていた。
この巻き戻りの出来事を。
もちろん、信じてもらえないかもしれない。
それでも、イリルなら、馬鹿にしたりはしない。ちゃんと最後まで話を聞いてくれる。
そんな確信があった。
だから。
「今日は外でお茶にしようと思うのですが、よろしいですか?」
「もちろん」
常に誰かがそばにいるサロンではなく、庭の東屋に案内した。
そこなら、姿さえ見せれば声は聞こえなくても大丈夫だ。イリルの護衛にも、少し離れて待機してもらえる。
「お花、ありがとうございした」
「気に入ってもらえたらよかった」
ようやく東屋に落ち着いた私は、どういうふうに話を切り出すかで頭がいっぱいだった。
それで、うっかり忘れていた。
「お姉様! お客様がいらっしゃるのに、どうして私には案内がなかったの?!」
——私のものを、なんでも欲しがる妹を。
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