最終話 二人だけの時間
はじめに家を出てから五十分、時刻は一時を回っていた。
しばらく歩いていると、いくら肌が露出しているところは寒いと言っても着込んでいるところはとても暖かい。息が切れて、呼吸が速くなる。
あっつぃ。と言葉をこぼした凛は、首に巻いているあたしのマフラーをグイグイとほどく。凛は分かりやす過ぎるくらい疲れが表に出る。眉間にシワをよせ、ここの家きれいだのここに引っ越すだの今までの発言量からは考えられないくらいに黙り込む。
神社から十五分ほど経つと、五階建てのアパートが見えてくる。
築五年、家賃約四万円。一人暮らしの大学生には十分な物件だ。バイトの収入と親からの月五万円の仕送りで生活している。
エレベーターで三階までのぼり、優は三○四号室に、凛は三○五号室に入る。
「またねっ」
玄関の扉から左手だけを見せる凛が言った。
一度玄関に入り、ふぅ。と一息ついたあともう一度顔を出してみると、ひょこっと凛も玄関から顔を覗かせていた。ビックリしたのか、凛はあわてて扉の影に顔をシュッと戻す。かと思ったらすぐにまたシュタッと生えてきた。
「ねぇ今日そっち泊まっていい?」
「やだよ、はよ帰れ」
ブーっと口を尖らせる凛にふふっと笑みを送って私は玄関の扉を閉じる。鍵をかけ、
うわぁ消すの忘れてた、電気代勿体なぁ。なんて事を思いながら部屋の扉を開ける。
うちの匂いだ。
自分の家は何処となく独特な雰囲気を感じる。落ち着くような、他のところとは違うようなそんな雰囲気。
着ていたアウターをハンガーにかけ、部屋着に着替える。靴下を洗濯機に投げ入れ、足を軽くシャワーで洗う。家に帰ってからのルーティンだ。
家では靴下を脱ぎたい派の人だ。なんかこう、スッキリとして気持ちがいい。
そうこうして部屋に戻ると、丸テーブルの上にラップのかかった蕎麦が置いてあることに気がつく。
「ああぁ、忘れてた……」
深夜、炭水化物を摂取するには少し気が引ける時間。しかもこの前体重計に乗って
「ま、明日でいっか」
明日でいいのか? 日付変わってるし今日になるのかな? そんな疑問が頭の中でグルグルとしている。蕎麦を冷蔵庫に入れ、部屋の電気を“豆電”にする。
みんなは、小さく橙色に光る電球の事を何と呼ぶのだろうか。
『ナツメ球』『小丸電球』『ベビー電球』『常夜灯』……他にも色々な呼び方があるとかなんとか。
そんなことを考えながら、スマホのロックを解除しベッドへと向かう。
シュッ……パッ。
トイッターのタイムラインを更新すると、フォローしているネッ友同士の会話や、神絵師の神絵、可愛い動物の面白動画……たくさんの投稿が一気に流れてくる。ゲラゲラと声を上げて楽しむ事でもない、なんなら真顔でいることの方が多い。でもなぜだろう、指が勝手にアプリを開いている。いや別に面白いわけじゃない。ほんとに。だって今も真顔だもん。
『そっち布団二つあるっけ』
凛からのメッセージが画面上部に表示される。
『ないけど』
『りょか』
りょか? 了解ってことか? てかそんなこと聞いてどうするつもりだ、本当に泊まりに来る気なのだろうか。
そこで会話は終わり、また一人でスマホと見つめ合う時間が流れる。
道路を走る車の音、郵便屋さんのカブの音、空を通り過ぎる飛行機の音、換気扇のコォ〜っと微かに聞こえる音。
聞こえてくる音一つ一つが何故か懐かしく感じ、気持ちが落ち着く。
スマホの電源を切り、胸を大きく広げベッドに倒れ込む。
肺いっぱいに空気を吸い込み、一気に吐き出す。
凛と一緒に年を越すのは二度目、前回はあたしの部屋でインヌタグラムでライブ配信をしながら過ごしていた。いい思い出だ。
今回も楽しかったなぁと、記憶を蘇らせる。
深夜に家から引きずり出されたこと。寒い寒いと駄々をこねる凛にマフラーを貸したこと。お願い事が二人とも同じだったこと。帰り道、手を繋いで帰ったこと。前回のグダグダしていただけの年越しとは内容が段違いな、そんな思い出になった。
だんだん思考の流れが悪くなってくる。
目を開けようとする優と、全力で閉じようとする体の競り合いが繰り広げられる。
結果は優の負け、完敗。
まぶたはギチィっと閉じられ、全身の力が抜けていく。
ああ、お風呂入ってないや。そんなことを思い出すのにはもう遅い。すでに寝る体制に入ってしまっている。明日でいいや、どうせ休みだし……
ピコンっ
スマホの通知音が、眠りの海に沈むあたしの意識を引き上げる。
もうあたしは寝るんだ、邪魔するでない。
優は懸命に眠りの海の深みを目指し手足を漕ぐ。
ピコンっ
ああもうこのやろう。
流石に二回も送ってこられたら気になってしまう。スマホを取り、横になりながらロックを解除しようとするが顔面認証がうまくいかない。仕方なく数字を入力して解除する。
『優のマフラーいい匂いする』
『はやく取りに来てくれないとおかしくなりそう』
凛から、二件のメッセージが送られてきていた。
そして思い出す。あの後マフラーを返してもらっていなかったことに。
てかこいつなに匂い嗅いでんの?
ああもう。と小さく声をあげながら体を起こし、ベッドに少しの間の別れを告げる。部屋を出て、玄関でサンダルを履き鍵を開け外に出る。
「うぅっ、さっむ」
気温は変わることなく、氷点下。
ピンポーン
凛の部屋のインターホンを鳴らす。
両手で肩をさすり、膝を曲げるようにして足を後ろに振り上げる。
――呼んできたくせになかなか出ない。
もう一度鳴らしてみる。
足踏みをして、寒さを堪えながら待ってみる。だがインターホンから返事は返ってこない。
「チッ……」
別にイライラしているわけではない。ただ、早くこの極寒から解放されて欲しい。その気持ちが表に出てしまったのだろう。
優は扉を掴み手前に引く。すると、すんなりと開いた。
「りーんー、入るよー」
返事はなかったが、扉の内側へと足を入れ、サンダルを脱ぎ部屋へとあがる。
「凛〜、マフラー取りに――」
部屋の扉を開けると、凛はベッドにうつ伏せになり、足をバタバタとさせていた。
「なにしてんの」
目を細め、眉間にシワを寄せて優は言う。
すると足の動きは止まり、抱き枕を抱えた凛は、体を起こし、こちらを向く。
(…………?)
凛の顔が少し赤くなっている気がする。
「どしたの、風邪でもひいた?」
凛の方へと歩み寄り優は言った。
目を
「優の匂い嗅いでたら我慢できなくなっちゃった」
涙に潤わされた瞳で誘いをかけてくる凛に、あたしの“理性”が飛びかける。思わずぼけ〜っと突っ立ったままになってしまう。
「……だめだよね、ごめんね」
抱き枕をギュッと強く抱きしめる凛。
緊張もあったのだろう。凜の声は少し震えて聞こえた。
もういいや、こんな気持ち。こんなの“理性”なんかじゃなくて、カッコつけたい正義感なだけ。あたしは凛のこんな顔見たくない。
優はうつむく凛の顔をクイっと上げ、目を閉じながら顔を近づける。
静かな部屋、口づけの音だけがそこにある。
「んっ……ちゅっ……そっち行っていい?」
「うん」
優はベッドの上へと体を移す。
さっきまで抱き枕を抱いていたはずの凛の腕は、いつの間にか優の体を包んでいた。
「優、すきだよ」
「うん」
「優は?」
首をコクっと横に傾ける凛。
「すきだよ」
とろんとした笑顔を浮かべる凛の体を優しく押し倒す。
「お風呂入ってないけど……いい?」
「私も入ってない」
「ならいっか」
凛と優は体を触れ合わせ、肌を感じ合う。
冷蔵庫にある蕎麦はもう完全に伸びていた。
これは、あたしの彼女と――私の彼女の、二人だけの物語。
これからも、君と。 48いぬ @48inu
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