第3話


 父はあればあるだけ使ってしまう人なので、無駄なお金は使えない家庭でした。

 給食もありましたし、生きていくのに困るほど飢えることはありませんでしたが、いつもお腹は空かせていました。

 父は気に入ったおかずがあるとわたしの皿から摘まみ上げ、弟も容量よく自分の取り分を確保していましたから、気付けば薄い味噌汁と茶碗に半分ほどの麦飯だけを食べるばかりの日もありました。


 でも、良い思い出もあります。


 ある日、台所仕事を手伝っていると母が「内緒よ」とさあどこから手に入れたのか、苺を四粒、平皿に入れて渡してくれました。

取り上げられぬようあわてて手掴みすると、半ば腐っていたのか掌の中で簡単に潰れ、熟れた果物独特の甘い匂いがぷんとしました。    

 甘いというだけで御馳走でしたから、指の股や手のしわまで必死に舐めすすったのを覚えております。あの贅沢品を自分だけ与えられたという優越感は、何事にも替えがたいものですね。


 もちろん、最悪な思い出というのもあります。

 父は普段は人当たりも良く、気の良い人なのですが機嫌が悪くなると駄目でした。特に、お酒が入るといけません。

 そういう時、部屋は決まってスエた匂いがするのです。

 酒の匂い、汗と皮脂の匂い、あるいは吐瀉物や排泄物の匂い。堕落した場末の匂いです。

 父が眠っていれば少しはマシでしたが、畳に転がる背中は小山のようにも異形のようにも見えました。恐ろしいものは、すぐに害がなくても恐ろしいのです。


 そんな父に障りのないよう片付けをするのはわたしの仕事でした。

 父は酒を飲んだまま深く眠ると、時折尿や糞便を漏らしました。

 そのままにしておくと起きたときに汚いと暴れるので、わたしはしばしば息を止めながらそれの処理をしました。


 ああ、あの時の心臓が押し潰れるような息苦しさったら。


 濡れた雑巾で何度拭いてもぐじゅぐじゅに潰れた畳の目に細い糞便が染み込みました。   

 綺麗に掻き出しておかないと、乾いたときに黒いそれらがぽろぽろとこよりのように溢れてくるのです。

 掃除の時より、数日経ってその黒い粒々を見つけたときにみじめさが襲ってきます。

 おまけに弟に見つかると騒ぎ立てられましたから、使い古しのつまようじまで使って必死に掃除しました。畳が痛むのが早いと母に怒られましたが、やめられませんでした。従順だったわたしの唯一の反抗です。 


 母は、大人しい人でした。だからよく覚えていません。時代のせいもあり、弟には優しい母だったと思います。

 ああ、でも正確にはひとつだけ、確かに覚えていることがあります。わたしに月のものが始まったときのことです。十三歳の夏でした。

 蒸し暑い中、気付いた時には下着とスカートを血で濡らしていました。どう処理をすればいいかわからず、古布を下着と性器の間に押し込んでタオルを腰に巻き、台所にいた母に助けを求めると、母は美しい顔を歪ませてこちらを見ました。


 そこにあったのは深くて暗い穴でした。


 いつも品のある母が憎々しげに舌打ちをして、乱暴にわたしが腰に巻いたタオルを取って血に汚れた下半身を確認しました。


「役に立たないのに、身体だけは一丁前に……いやらしい」


 内腿を生温い経血がねばこく伝う感触に、指先が痺れました。床が汚れると怒られると思い、あわててスカートを引っ張って内布で拭きました。

 そんなわたしを見ながら母は低い声で一言、


――妊娠なんか、しちゃ駄目よ。逃げられなくなるから。


 不思議なことにあれだけわたしを殴った父はわたしの中になにも残さなかったのに、母の呪いだけは未だにわたしを縛っています。

 セックスをするとき、扉を開ける瞬間の指先の冷たさが心臓に穴を開けて、その穴が母の目と同じ色をしているのです。

 絶頂に至る前には黒い粒々が脳内に浮かんできて、いつも息を止めました。

 そういうのが好きなのかとわたしの首を絞めた男もいます。


 でも、それだけの話です。

 カルミンの販売が終了したと知って思い出しました。


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