第2話
帰宅するときはいつも気を張っていました。
父の機嫌が悪くないか、弟が癇癪を起こしていないか、母が物煩いをしていないか。
不思議なことに、そういうときは物音がしなくとも扉から不穏が漂っているのがわかります。
引き戸に指をかける前から、立ち昇る予感に指先がひやりと冷たくなっていくのです。身体が無理矢理二センチほど押し潰されたような居心地の悪さ。
頭が痺れて足はふわふわと浮いているのに身体だけはいつも通り――いつも以上に、そうっと扉を開けていました。自分という身体が自動ドアーになった気分で、そうであればいいと願っていました。
何も考えないようにしようと扉を開けながら、しっかり心を閉じるのです。それは必要なことでした。
何事もない温度の声で「おかえり」と母の声が飛んでくれば安心します。
わたしが秀悦さんの家に行ったあと数日は、いつも母の機嫌が良いので助かりました。
父は……父は嵐のようでした。
理不尽だ、とわたしは思っていましたが、もちろん子が親に理不尽だなんて思うことは善くありません。ですから、そもそもの性根が生意気だとよく躾けられました。小賢しい目をしている癖に俺をいちいち腹立たせるのが気に喰わない、というのが父の言い分で、母もよく同じことを嘆いていました。
――お父さんの道理さえわかって、それがちゃんとできていればあんなに怒られることもないでしょう。
哀しい顔をして嗜められれば、わたしは反省するしかありません。弟はしょっちゅう父を怒らせて殴られるわたしを見て馬鹿だと言いました。
――われわれは困難に耐え忍ぶことで苦行を超越し、救済を得る。
誰にも聞かれないように便所の中で小さく呟くと、血の香りがする口内にも薄荷の香りが蘇ってきます。そのときだけは、わたしも秀悦さんの言う神なるものを信じられました。
父にとってぱらいそとはパチンコ屋であり競馬場でした。機嫌がよいと連れて行かれ、玉拾いだの馬券拾いだの細々したお手伝いをしましたが、わたしが役に立たないので結局父に腹を立てさせてしまうことが多かったです。
上手くできさえすれば小遣いや菓子を貰えるのですが、父の都合が悪くなると「お前が辛気臭い顔をしていて不幸を寄り付かせるせいで負けた」と舌打ちされるので一長一短でした。
パチンコ屋はきらびやかな光と音で満ちているにも関わらず、灰色に煙って鬱屈した空気をしています。
まれに同じように玉拾いをさせられている子どもがいて、嫌でした。
大抵は痩せた男の子で、垢の浮いた首筋やそれを掻いて黒くなった爪先をしていて、だるだるになった襟ぐりのシャツはすれ違うと酸っぱい匂いがしました。
当時、近所にも何人かそういう子どもたちがいました。
わたしは「お前は醜いから余計に気を使いなさい」と母に言われて育ち、手拭いで身体を水拭きしたり学校の石鹸のちびたやつを持ち帰って衣服を洗濯したりしていたので、汚い子どもを見るのが苦手でした。いつもさっと目をそらして、ホールの床に転がる玉に意識を集中させました。銀色の玉は汚い床の上でころころと光り、這いつくばって拾うと靴の裏がきゅっと鈍い音を立てます。
その点、競馬場は広々としていて好きでした。
でも競馬場にいる馬が隆々とした筋肉を持ち生命力に満ち溢れているのに、ちっぽけな人に繋がれムチでぶたれたりするのは不思議に思っていました。
ある時父に尋ねると、馬は育てるのにたくさんお金がかかり、食べるものや、とにかく生きているだけで金食い虫で、こうして稼がせないととてもやっていけないと答えられました。
そう聞くと、馬と玉拾いの男の子たちが同じものに見えて途端に嫌いになりました。
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