地獄、ぱらいそ、カルミン

いりこんぶ

第1話



 六万円の馬券も一パック二千円の焼酎も買えるのに、六百八十五円の上履きは買えないのです。そういう家庭で育ちました。

 父と母が一人ずつ、娘のわたし、三歳下の弟が一人の平凡な家族でした。

 カルミンの販売が終了したと知って思い出しました。


 カルミンは駄菓子です。今風に言えば大粒のミントタブレットで、外装は細長い佇まいをしています。水色の紙に包まれていて、開くと丸い真白のカルシウムタブレットが行儀よく一列に並んでいました。

 齧るとラムネとはまた違うかりりとした独特の食感でうすら甘く、息をすると少しだけ薄荷の香りが口の中に広がります。


 もちろん、余裕のない我が家では贅沢品で、おいそれとわたしの口に入るものではありません。

 でも月に一度、秀悦さんのところに行けば貰えました。


 秀悦さんは、さあなんと言うのか……世捨て人のような方でした。川のそばの文化住宅に住んでいて、いつもどぶの匂いがしました。秀悦さんがくさいのか、はたまた家自体に匂いが染みついているのか、秀悦さんが外に出たところを見たことがないのでどちらだったのか今でもわかりません。


 秀悦さんは坊主頭で、敷きっぱなしのせんべい布団の枕元にはいつもバリカンが置いてありました。カビや染みだらけの秀悦さんのお家の中で、そのバリカンだけがいつもやたらぴかぴかと銀色に光っていたのを覚えています。今ではちょっと見かけないような、二本の持ち手がついた手動のバリカンです。一見ペンチめいたそれがわたしには拷問器具かなにかに見えました。

 秀悦さんは思いついた時にその場所で髪を刈られるので、秀悦さんのお家に行ったあとは、靴下の裏にたくさんごま塩のように短い毛がへばりついていたのを覚えています。


 わたしが秀悦さんのお家に行くのは「御用伺い」という名目がつけられていました。

 ろくに見当もつきませんでしたが、秀悦さんからお金をいただくにはとりあえずそういう名目が必要だったようです。


「ほんじつも、ごようをききにうかがいました」


 わたしが親から躾られた通りの挨拶をすると、秀悦さんはようやく半ば顔を埋めるように読んでいた本から猫背を持ち上げてこちらを見ます。秀悦さんはいつも正気とは言い難いようなどろんと濁った目をしていました。


「誰か」

「秀悦さんのいとこの道子がわたしの母で、わたしは加奈子です」

「ふうん、親戚か。ああ、道子ちゃん……元気かな。嫁に行って子どもまでこさえたなんて立派だな。男の子はいるのか?」

「弟がいます。三つ下です」

「ああ、そりゃあ立派だ。道子ちゃん……道子ちゃんか。わざわざ挨拶まで来てくれて……役所の犬がこのあいだから嗅ぎ回っているけれど、道子ちゃんなら安心だ。赤い服が似合っていたなあ。道子ちゃんはね、いちいちが洒落てるんだよ。知っているだろう? 君は赤い服を着ないのか」

「派手な服は、怒られます」

「そうか。あなたは瓜に似ているし愛想がないね。瓜をちょっと切ってちょっとひねって目鼻が出来てるみたいだ」


 母は華やかな顔立ちをしていたのに、わたしは父に似た細い目と小さな魚のような口を持っていました。

だから、

「お前はお父さんに似ているし不細工な上に陰気だから見ているだけで腹が立つし恥ずかしい」と何度も言われながら育ちました。


 母はやつれて頬がこけていても美人の面影が残っており、弟も母によく似たくりくりとした瞳のあどけない顔立ちをしていました。

 性格も天真爛漫な弟と違って、わたしだけが父のみっともない血を受け継いでいたのです。


 秀悦さんはよく「ぱらいそ」の話をされました。そこに行けばなにもかもがよくなると奇妙に熱のこもった目で力説しました。唾がたくさん飛ぶので、わたしは病気が怖くて顔を背けたいのですけど失礼になるのでそれはできませんでした。


 ――ぱらいそに行けば、神がいて、神はわれわれに幸福を与えてくれる。現世のしがらみは階位を引き上げるための試練であり、それらも神に与えられたものである。われわれは困難に耐え忍ぶことで苦行を超越し、救済を得る。


 正座をした脚の違和感は、痺れているのかそれとも細かい虫が這っているのかいつも区別がつきませんでした。

 それでもきちんと拝聴して相槌を打っていると、いつのまにかレコードが壊れて途切れるようにふつんと話の終わりがきます。

 秀悦さんは宙を見つめ、舞い散るほこりのひとつひとつを愛しむように目を細めて、最後にはいつも獣のように短くどふっと息を吐きました。


「また来なさい」


 秀悦さんは茶封筒と一緒にいつもカルミンを一本くれました。

 弟は薄荷味の菓子が苦手で、わたしがカルミンを持ち帰るとそんなものしか貰ってこれぬわたしをなじって次第には大声で泣き喚きます。だから、カルミンはいつもその場でいただきました。

 弟が泣けば、わたしが父に殴られます。弟はそれをよく知っていました。


 わたしがかりかりとカルミンを齧っている間、秀悦さんは無言でぼうっとされていました。どぶの匂いがする部屋で、口の中だけはうすら甘い薄荷の匂いで満たされて幸せでした。

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