闇に抱かれ


「あれ…………?」


奏汰かなたっ!?」


 果たして――――目覚めた奏汰の視界に真っ先に飛び込んで来たのは、涙を浮かべて自分を心配そうに見つめる母の姿だった。


「え? あれ……? …………」


「どこか痛いところはない……? 先生は大丈夫だって言ってたけど……ああ……本当に良かった…………っ」


 黒く長い髪を一纏めに、ほんの僅かにを奏汰へとまっすぐに向ける母――――剣葵つるぎあおい


 葵は奏汰の額に手を当て、嬉しさと安堵。そして先ほどまで感じていた胸が張り裂けるほどの辛さがない交ぜとなった複雑な表情を浮かべた。


 奏汰は最初こそ僅かな違和感を感じたものの、すぐに母の手から伝わるぬくもりに心を落ち着かせると、ゆっくりとその瞳を閉じてにっこりと笑った――――。



(そうだ。僕は――――)

 


 奏汰の脳裏に、自分の視界を覆う大きなトラックの映像が浮かび上がる。


 後に聞いた母の話では、奏汰は奇跡的に突っ込んできたトラックの下に倒れ込み、で済んだのだという。


 半日ほど意識を失っていたものの、病院での精密検査の結果は問題なし。


 知らせを受けて急ぎ駆けつけた母ともこうして再会し、夕方には無事に二人で暮らす我が家に帰ることが出来た――――。


「本当に良かった……奏汰が事故にあったって連絡が来た時……目の前が真っ暗になって……私まで倒れるところだったんだから……っ」


「ごめんなさい母さん……心配させて……」


「ううん……もういいから。今は、こうして奏汰が無事でいてくれたのが一番…………本当に、良かった……っ」


 狭い室内。互いのぬくもりを確かめ合うように、しっかりと奏汰を抱きしめる母。

 そんな母に対して奏汰もまた、心配させてしまったことを謝罪するようにその小さな腕を回し、自身のぬくもりを伝えた――――。



 まるで――――を見ていたような気がした。



 夢の中の奏汰は、



 とても綺麗な青い髪の女神様に言われたのだ。 

 どんな悪者も倒せる力を差し上げます。だからどうか世界を救って下さいと。


 小さな奏汰は、女神様から貰った力で様々な場所へ行った。

 そして行く先々で悪いドラゴンや魔法使い、大きな鬼や魔王と必死に戦っていた。


 しかし――――夢中で戦っているうちに、いつしか奏汰は迷子になってしまう。

 家にも帰れず、奏汰は暗い森の中を一人、泣きながら歩き続ける――――。



 怖い夢だった。

 とても恐ろしい夢だったと奏汰は思った。



 そしてそんな夢を見ていたと奏汰が話すと、葵は笑みを浮かべてこう言った。


なんて…………私は、奏汰にそんなことをして欲しくないかな……。奏汰は友達とケンカしたりもしないし、兄弟もいないからまだわからないかもしれないけど――――誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりするのって、とっても辛いことだから――――」


「うん……! 僕もそう思うっ! 皆で仲良くするのが一番だよねっ!」


「ふふ……きっと、今奏汰が遊んでるゲームのせいでそんな夢を見たのかもね。だって、奏汰が誰かと戦ってる所なんて母さんも一度も見たことないから」



 



 奏汰は優しく微笑む母を見つめると、心の底からそう思った。

 ここが自分の家――――自分のいるべき場所。


 奏汰はそう思い、随分と長く留守にしていたような気のする怪獣のイラストが描かれた布団で横になると、そのまま穏やかな気持ちで眠りについた――――。



 六年間を過ごした小学校生活は、あっという間に終わりを告げた。



 母は忙しい仕事の合間、息を切らしながらも奏汰の卒業式にやってくると、卒業証書を受け取る奏汰の姿にボロボロと涙を零していた。



 中学の入学式は親子二人で記念写真を撮った。



 入学式の看板が掲げられている場所で暫く並び、すぐ後ろに並んでいた親子連れが、奏汰と葵が二人で写れるようにモバイル端末を操作してくれた。


 意外なことに、奏汰は中学の

 

 体を動かすことが好きな奏汰のこと、てっきり運動部を選ぶと母は思っていた。

 しかし奏汰はなにやら世界的なエネルギー問題に興味が沸いていたらしく、それを解決する勉強をするのだと意気込んでいた。


 中学での三年間は奏汰にとって実りの大きいもので、高校も無事志望校へと入学することが出来た。高校生となった奏汰は仕事の忙しい母を助け、支えながらも、立派に自らの人生も歩んでいった。



 それは――――通りの日々だったのだろう。

 幸せな日々は瞬く間に過ぎていった。まるで、瞬きする間の出来事のように――――。



「俺……やっぱり母さんの子供で良かったよ。いつも、とってもありがとう」


「ふふ……それはお互い様でしょ? 今じゃこんなに色々やってくれるようになって。母さんだって、奏汰のおかげでとっても助かってるんだから」


 やがて奏汰が十七歳になった頃。いつものように奏汰が用意した食卓を二人で囲みながら、奏汰は母にそう話した。

 

 奏汰のその言葉を聞いた葵は、突然改まった様子でそう口にした奏汰を不思議そうに見つめたが、特に気にすることもなく微笑む。そして――――。


「ねえ、奏汰――――」


「なに、母さん?」


「母さんね――――奏汰はもう、と思うの。ずっと前に言った通り――――ううん。それ以上に立派に胸を張って、と思う――――」


 食事をする手を止め、葵はその顔に穏やかな、しかしどこか悲しげにも見える笑みを貼り付けて奏汰を見つめた。


「奏汰はもう、の――――ここで、誰からも傷つけられず、誰も傷つけないで、ずっと私と一緒に暮らしていられるの。奏汰がそうしたいなら、私はなにがきたって、絶対に奏汰を――――」


「母、さん…………?」


「いいんだよ――――。外には辛いことも、悲しいことも沢山あるんだもの。私は――――これ以上奏汰に少しだって傷ついて欲しくない。だって――――貴方はもうこんなに傷ついてる――――」


 母はそう言って正面に座る奏汰の手を自分の手で握ると、慈しむように握った。

 開かれた奏汰の手の平は


 だがしかし、その手の平を見た奏汰に驚きはなかった。


 見慣れた手の平だった。


 、奏汰はなんの違和感もなく受け入れていた。


「ごめんね…………、ここまでしか見せてあげられない。――――ただ貴方の記憶の中にある願いを――――、かすかな記憶を見せてあげることしかできない――――」


 不意に――――目の前にいるはずの母の姿がぼやける。


 奏汰はそれが何を意味するのかをが、


「でも、それでも――――私たちなら貴方を守ってあげられる。こんなになるまで戦ってくれた貴方が、これ以上傷つかないように――――貴方を傷つける全てから――――いつまでも」


「もう、傷つかなくても…………」


 その輪郭をおぼろにしながらも、母は奏汰に向かってその手を差し伸べた。

 その母の手は温かく、優しく、そして幸せに満ちていた。


 迷う必要はないはずだった。奏汰にとって、その母の手こそずっと望んでいたものだった。その母から差し出された手を取らぬなど、あるはずが――――。




 しかし――――。




「ははさまぁ…………っ。ととさまぁ…………っ」


「っ!?」


 しかしその時。奏汰の耳に一人の少女の泣く声が届いた。


 奏汰が虚ろとなった室内を見回すと、崩れた景色の一角から伸びる深い闇の中で、うずくまって泣く姿が見えた。



なぎ――――っ!」



 奏汰は少女の名を叫んでいた。なぜその少女の名がわかったのか。今の奏汰にはそれすらも思い出せなかった。


 しかし奏汰は即座に座っていた椅子から立ち上がると、闇の中で泣く少女――――凪を助けようとその場から駆け出す。だが――――。


「駄目――っ! 行ってはいけない――――そっちへ行けば、貴方はっ!」


 少女に向かって駆け出した奏汰の背に、母の声が響いた。

 母のその声は、奏汰を案じる悲痛な色に満ちていた。


「行かないで――――! 行けば貴方はきっと――――今度こそ本当に、何もかも失ってしまうっ!」


 その声には、一欠片の欺瞞も邪心も感じられなかった。先ほどの言葉通り、奏汰にこれ以上傷ついて欲しくないという切なる願いだけがあった。


「俺は……っ」


 奏汰はしかし、その瞳を悲痛な思いで閉じ。両の拳を握り締めて僅かな逡巡を見せる。だがその間にも奏汰の耳には全てを失って一人になった少女の泣く声が響き続けていた。奏汰を呼ぶ声が届き続けていた。



 故に――――奏汰は。



「俺は――――凪を一人にはできないっ!」



 奏汰は叫び、少女真実の元に走った。


 は、最後まで奏汰の背に手を伸ばしていた――――。 


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