全てを忘れて
「かな、た……!
すると奏汰の体は一切の抵抗を見せずにその場へとくずおれる。
「な……ぎ……?」
「奏汰!? そうじゃ! 私はここにおるっ! 何をされたかはわからぬが、今私が治してやる……っ!」
光を映さぬ瞳を虚空へと向け、奏汰は呟くように少女の名を呼んだ。
凪は必死に奏汰の体を抱き留めると、何度も少年に呼びかける。
それと同時、凪は周囲にありったけの神力で白銀の結界を展開すると、その全ての力で奏汰を癒やそうと試みる。
「だ……め……だ…………」
「っ!?」
奏汰は何もその瞳に映さぬまま、その震える手を凪を探し求めるように伸ばした。
凪はその奏汰の手を即座に掴むと、悲痛な表情で治癒の術式を行使する。しかし――――。
「きえ……る……ぜん、ぶ…………ごめ……凪…………」
「奏汰…………っ! 体には傷一つ無い……っ! どうして……っ!」
しかし、奏汰の肉体は傷一つ負ってはいなかった。周囲に展開された符の輝きの中、奏汰の身を探った凪はあることに思い至り、背後のミスラへとその
「お主――――まさか、奏汰の
「…………はい。私には
凪の視線の先で未だ地面へと膝を突くミスラは、大きく肩で息をしながらも言葉を発すると、見開かれた凪の視線と目を合わせずに俯く。
「故に…………私は最初から剣さんの心を…………正確には、剣さんの記憶の消去を狙ったのです……これが、私が導いたあまねく世界を救うための最善の道…………」
「奏汰の……記憶……っ!?」
「そうです……それもただの記憶消去ではありません……剣さんが人としてこの世に生を受けてから今までに体験した全てを……母の胎内でその意識を生じた時から今に至るまでの全てを消し去る、完全なる記憶の消去……」
「馬鹿なっ! そのようなことをしたら奏汰はどうなるッ!? 何も残らぬ……っ! 何も残らぬではないかっっ!?」
そのミスラの言葉に、凪はその表情を痛苦で染め抜くと肉体の治癒へと使っていた自身の力を奏汰の心の保護へと切り替える。するとどうだろう。
今の大魔王ラムダに匹敵、もしくは上回る程の力量へと達した凪には、奏汰の心の奥――――記憶の抹消が凄まじい勢いで進んでいるのが手に取るようにわかった。
「あ…………れ?」
「奏汰っ! 私が分かるかっ!? 今助けてやるのじゃっ!」
奏汰の体から力が抜けていくのがわかった。凪は必死にその砕かれていく奏汰の記憶を自身の力でかき集めようとするが、人の心に習熟した術を持たぬ今の凪には、膨大な力はあっても今すぐそれを阻止するほどの効率的な使い方がわからなかった。
それはまるで、こぼれ落ちる大量の水を両手で押しとどめようとする行為に似ていた。
止められない。
凪は力を使えば使うほどその現実を理解し、いつしかその大きな瞳から止めどなく涙が溢れていた。
「…………こうするしか…………なかったのです…………私は剣さんの記憶の消去に全ての勇者の力を注ぎました。いかに貴方でも、それを今すぐに止めることは出来ない…………」
「なぜ…………なぜじゃ…………っ? なぜ奏汰ばかりがこのような仕打ちを受けねばならぬ…………っ!? 奏汰は……ただ母様の元に帰りたかっただけじゃ…………そのために世界も救った……皆を何度も救った…………っ! 懸命に、胸を張って生きてきた……っ! 皆と手を取り合って生きてきただけじゃ…………っ! なのに……なぜ……このような仕打ちを…………っ! なぜ…………っ!?」
必死に呼びかけ、抱きしめる少年の体から力が抜けていくのを凪は感じていた。
ミスラの言うことが本当ならば、やがて奏汰は呼吸することも、自らの心の臓を動かすことも忘れ果て、たとえその命を繋いだとしても、ただ生きるだけの屍と化すだろう。
「それが……世界のためなのです……剣さんは、もしかしたら最初からこうなることが決まっていたのかもしれない……世界のために生き、人々のためにその命を……」
「ふざ……けるでない……ッ! 自らの都合のために命を――――奏汰のささやかな願いを踏みにじる……ッッ! 貴様と神――――一体何が違うッッ!? 同じじゃ……貴様らのやっていることは、貴様らが忌み嫌う神々と同じじゃ……ッッ!」
「…………っ」
それは余りにも悲痛な叫びだった。
凪の放つ悲しみの気はミスラを射貫き、その背後に浮かぶ
凪はそれでも、必死にその身に溢れる力の全てを注ぎ込んで奏汰の記憶を押しとどめようと抗った。だが――――。
「あ…………」
凪の腕を握り締めていた奏汰の手が、力なく落ちる。
その抱きしめた体から感じる鼓動がみるみるうちに弱くなり、奏汰の全身から血の気が引いていく。
死ぬ。
心の全てが消え、生きるという生命の始原の願いすら忘れたとき、奏汰は死ぬ。
その瞬間の訪れを悟った凪が悲痛な声を上げ、奏汰の身をかき抱いてその命をつなぎ止めようとする。
「だめじゃ…………駄目じゃ奏汰…………っ! 忘れてはいかん…………っ! 私のことも、新九郎のことも…………母様のことも、忘れては…………っ!」
しかしそれらは全て無為。奏汰の命を繋ぐことはできない。
凪にもそれはわかっていた。
だがそれでも凪は必死に呼びかけ続けた。
誰でも良い。
誰か、この目の前で彷徨い続ける迷い子を助けて欲しいと、そう願った。
しかし、その時動いた者。それは――――。
「……っ!?」
「これは……!?」
声が響いた。確かに聞こえたその声は、闇から響いた。
「そんな……こんなこと……!? 駄目……っ! やめなさい真皇っ! それをしてはいけない――――ッ!」
ミスラはその動くことすらままならぬ身を必死に立ち上がらせ、自身の背後に鎮座する闇に向かって手を伸ばした。
しかし、すでに闇の意識はそこにはない。
たった一人生きてきた少女と、たった一人生きてきた少年。
今この時も懸命に支え合う二人の元へと、その手を差し伸べていた。
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