第三章 父と娘

もう一つの親子


 それは――――おぼろとなった少女の記憶。


 闇の中でたゆたう景色の中。華奢きゃしゃで病弱そうな外見の父は、いつも少女に向かって申し訳なさそうに謝っていた。


 急な仕事が入ったり、帰れるはずの時間に帰ることができなくなったり。

 時には少女の誕生日を共にすることが出来ないこともあった。


「ごめんよ……いつも一人にしてしまって……。今の仕事が終われば、もうこんな忙しくなくなると思うから……」


 それが父の口癖だった。


 ボサボサに伸びた髪と、飾り気のない塗装の剥げた古い眼鏡。いつも眉を八の字にして謝罪する父に、少女はいつも自分は大丈夫だと元気よく告げていた。


 確かに寂しかったが、それでも父が自分のことを大切に思ってくれているのはわかっていた。


 父は一緒にいるときはいつも少女の手を握り、踏切や横断歩道では必ず少女が前に出ないような位置に立っていた。父の振る舞いには、常に少女への想いが見て取れた。


 少女は、それが嬉しかった。


 ただそれだけで良かったのだ。


 たとえどんなに忙しくても――――ただ二人で一緒にいる時に、父が手を繋いでくれさえすれば、それで――――。



 ――

 ――――

 ――――――



「本当によろしいのですかな。煉凶れんぎょうさん――――?」


「……ああ」


 どこまでも広がる江戸の町を眼下に見下ろす夜空の中。

 静かな、しかし強い決意の込められた声が響いた。


 二つの声の主。それは強大な力を持つ大位の鬼。

 紫の大位――五玉ごぎょくと、緋の大位――煉凶。


 そして、煉凶の巨大な腕の中で静かに寝息を立てる黒髪に褐色の肌を持つ十歳前後に見える少女――――緋の小位、風断かざだち


「四位冠の皆様の許しを得たとは言え……このようなことをしても、この後に風断さんが助かる可能性は殆どないと思いますがねぇ……」


「それでいい。俺はあの剣奏汰の光の中で自身の願いを取り戻した。しかし、我らが主にはそれ以上の、俺の全てをもってしても返しきれぬ恩がある――――」


 煉凶は言うと、腕の中で眠る風断の横顔をその目に焼き付けるようにして見つめ、そっと――――その丸く柔らかな頬をなぜた。


「ん――――……おとう……さん……」


「ああ……良い子だ」


 眠るままに呟かれた風断のその言葉に、煉凶は赤銅色の皮膚で包まれた顔に別人のような穏やかな笑みを浮かべた。


 煉凶のその姿に、五玉は沈痛な面持ちで四つの顔をうつむかせると、短く一度だけ頷いた。


陽禅ようせんさんの時もそうでしたがねぇ……私はこうして去って行く皆さんを引き留めるつもりは元々ないのですよ。私にとって皆さんは家族のようなものです――――家族の幸せを願わない者がどこにいましょうか?」


「すまんな五玉――――いつも世話ばかりかける」


「キキキ……いいんですよ煉凶さん。私と貴方の仲じゃありませんか。どうせ間もなく何もかも終わるのです。せめて、想い遺すことなく――――後を濁さずに散ろうじゃありませんか。私の方こそ、こうして最後までお付き合い頂いて嬉しいですよ――――」


 煌々こうこうと輝く半月を背に、五玉と煉凶。二体の鬼は互いの顔を見合わせて笑った。


 それは、鬼という恐るべき存在であるはずの異形の者とは思えぬ、どこか清々しさすら感じさせる笑みだった。


「元より俺は風断に親らしいことは何一つとして出来なかった。最後まで俺の我が儘に付き合わせるわけにはいかん――――主たちがそれで良いというのなら、せめて最後は終わらせてやりたい。剣奏汰つるぎかなた――――あの少年ならば聞き届けてくれよう」


「超勇者――――いえ、恐らくあの少年はあらゆる世界でとなる存在。我々がせっせと真皇しんおう様に献上した憎悪と苦しみの闇と対になる究極の光――――さすがと言ったところですかねぇ……キキキッ」


「刻限だ――――征くぞ」


 言って、五玉の言葉に煉凶は頷くと、その弛緩しかんした空気を戒めるように瞳を閉じ、ゆっくりと江戸城城郭内へと降下していった。


「ええ、ええ――――どこまでもお供しますとも。残る位冠持ちもいよいよ――――大勢の家族が私を地獄で待っていますのでね――――」


 五玉もまた、そんな煉凶に続いてゆっくりと無数の星々が輝く夜空から降りていく。


 それは――――永久とこしえにこの日の本を苦しめ続けた位冠持ちの鬼による、最後の出陣だった――――。


 

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