父の剣 母の言葉


「よし! ――――本日はここまでだ。また腕を上げたな、新九郎しんくろう


「はっ……はっ………――――はいっ! 今日もありがとうございました、父上っ」


 江戸城城郭内、本丸御殿からやや離れた稽古用の道場に大きな声が響いた。


 一方は精悍せいかんな顔つきの偉丈夫いじょうふ。第十二代将軍徳川家晴とくがわいえはる。そしてもう一方は、家晴の実子にして男装の姫剣士、徳乃新九郎とくのしんくろう


 双方はその両手に持った二本の木刀を自身の足元に置くと、向かい合って膝を突き、互いに深々と頭を下げた。


 時刻は間もなく昼下がり。あと半刻もすれば日の傾きが顕著けんちょとなり、江戸城の大堀からヒグラシの鳴き声が聞こえてくるだろう。


「二人ともお疲れ様! 見てるだけでも凄い勉強になったよ! 特に将軍様の剣――――初めて見たけど、新九郎とは全然違うんだなっ!」


 互いに礼を終え、一息ついたタイミングでその様子を横から見学していた奏汰かなたが二人に声をかけた。

 大粒の汗を手拭いでぬぐう新九郎と違い、将軍家晴はこの真夏の屋内で体を動かしたにも関わらず、僅かに汗ばむ程度で息すら上がっていなかった。


「うむ――――天道回神流てんどうかいしんりゅうを修める者は、その剣の最終形を皆伝した各々が見出すべしとされている。俺の剣と新九郎の剣――――例え基本は同じでも、新九郎が高みに近づくほどにその形が異なるのも必然であろう」


「実はここだけの話ですけど……僕は男性ほど腕力が強くないので……父上からも言われているのですが、剛の陽炎剣よりも、静の清流剣の方がどうしても先行する癖があって――――」


 悠然ゆうぜんとその身を起こして奏汰へと力強い眼差しを向ける家晴と、未だその汗を拭きながら息を整える新九郎。


 天道回神流での序列は共に皆伝まで到達している家晴と新九郎だが、その二人の剣の腕にはまだまだ相当な開きがあることを、互いの様子からはうかがい知ることができた。


つるぎ殿も新九郎から剣の手ほどきを受けていると聞いた。せっかくこうして剣殿にも城内を固めてもらっているのだ。一つ手合わせしていかぬか?」


「え!? 俺もいいんですかっ!? やりますやりますっ!」


 まだまだ余力十分と言った様子の家晴からそう言われ、奏汰は興奮した様子で壁に掛けられた木刀を掴み取ると、喜び勇んで再び家晴の前に戻ってくる。


 エッジハルトの神代神社襲撃と、六郎ろくろう理那りなの記憶の復元から三日が経っていた。

 

 最早鬼側の狙いが明白となった今、奏汰たちから報告を受けた徳川幕府はその戦力の大半を江戸城へと集め、本丸御殿の防備増強体勢へと移行。


 現在の江戸城には奏汰以外にも、鬼の動きを阻害する大規模結界を凪と共同で構築中の高名な密教僧や、あやかし衆から派遣された玉藻前たまもまえぬえ、更には討鬼衆とうきしゅうも総出で昼夜問わず警戒を行っている。


 ラムダの話では関東一円を守る結界は最早彼の力でも張り直すことも、修復することも出来ないのだという。

 『なんでじゃ?』と尋ねた凪に対しても大魔王はそのキモい体を赤くするばかりで答えようとしなかったため、結界を張り直せない理由は今もって不明である。


 結局、あの後無事に目覚めた女神オペルの護衛として大魔王ラムダは依然として神社に居座っているが、ラムダを含まずともこれほどの戦力が江戸城へと集ったことは徳川三百年の歴史においても初めてのことであった。


「うむ……では、まずは剣殿の好きなように打ってみるといい。どのような技でも構わぬ。俺は君の動きを見た上で


「わかった! よろしくお願いしますっ!」


「ご、後の先ですかっ!? ち、父上!? いくらなんでも奏汰さん相手に後の先は……っ!」


 父家晴のその言葉に、新九郎は一度は引いた汗を再びどっと流しながら焦ったように口を開いた。


 奏汰と二人で勇者式清流剣青の型を編み出したのは他でもない、新九郎なのだ。


 彼女からしても、斬撃の瞬間に亜光速へと達する奏汰の青の型や、刀身もろとも溶解させる赤の型を通常の剣術で受けきれるとはとても考えられなかった。 


 この場にいる者の中で、両者の実力を共によく知っている新九郎だからこそ、という父の言葉は余りにも無謀に思えた。しかし――――。


「勇者式清流剣――――青の型、百連――――ッ!」


「えっ!?」


 だが次の瞬間。新九郎は信じられないものを見たとばかりにその目を剥いて驚きを露わにした。否、実際にとても信じられない光景が彼女の目の前に広がったのだ。


「――――うむ、見事だ。太刀筋、速さ、正確さ、そして剣に込められた力。全てにおいて俺から言うことは何もない」


「うおお……!? やら、れた……っ!?」


「え!? ええっ!?」


 一度の閃光の後。


 なんとそこには、確かに握り締めていたはずの木刀を呆気なく取り落とし、その首元に木刀の切っ先を突きつけられて動けずに立つ奏汰と。僅か一歩の踏み込みのみで亜光速の斬撃を制したらしい家晴が立っていた。


「す、すごい……! なんで……どうして俺がああ動くのがわかったんですかっ!? わかってたからんだろっ!?」


「そうだ。剣殿の言う通り、俺には君がどのように動くかが見えていた」


「奏汰さんの足捌きや、力の入り方からですかっ!? でも、奏汰さんはそういうのも凄く分かり辛くて――――そもそも速すぎて、来ると思ったらもう斬られてるのにっ!」


 奏汰が取り落とした木刀を拾い上げた家晴はそのまま奏汰と新九郎の前に歩み寄ると、その太陽のような温かさを持つ眼差しでまだ年若く、しかし才気に溢れる二人の剣士を満足そうに見つめた。


「俺が見ていたのは剣殿の足運びや視線と言ったものではない。彼が俺に対して放つ剣気を捉えたのだ。自らの気と対峙する相手の気を合一させ、同化する。さすれば相手の狙いも、動きも、まるで自らのことのように捉えられる」


「うおおお……!? 凄い……っ! 凄すぎるよ将軍様っ! 凄すぎて凄いしか言えないくらい凄いっっ!」


「相手の気を捉える――――……僕は、まだその境地には……っ」


 家晴が示したその剣の極意に、奏汰はただひたすらに感動して見せ、新九郎は自身の未熟さを痛感したようにうつむいた。


 そんな二人の姿に家晴は何度か大きく頷くと、奏汰と新九郎、二人の肩にその大きな手を包むように乗せ、穏やかな笑みを浮かべた。


「はっはっは! そう焦ることはないぞ新九郎よ。お前はいつも相手のことを第一に考え、相手すら気付いていない心の機微まで察することができるではないか。しかしそれ故に、自らの気をのだ。 ――――。相手の気を呑む必要もない。お前が誰も傷つけたくないというのなら……ただ相手の心に寄り添うだけで良い。お前はお前のやり方で、自らの道を極めれば良いのだ」


「相手に寄り添う……? 僕に、そんな剣が……」


 家晴はまず、悩み顔の新九郎へとその眼差しを向けて助言を与えた。


 誰よりも相手を気遣い、相手の立場になれる新九郎だからこそ見えるものがある。家晴はそう伝え、最愛の娘を励ますようにその深緑の髪を撫でた。そして――――。


「そして剣殿――――君はすでに理解しているようだ。君の剣が斬るべきものは、と」


「俺が、斬るべきもの――――」


 それは深い意味の込められた言葉だった。


 奏汰を見つめる家晴の瞳は、奏汰がすでにその境地へと至りつつあることに驚きもし、そして同時に、哀れんでいるようにも見えた。


「そうだ――――剣とは結局、どこまでいってもその道には刃がつきまとう。たとえどれほど剣を振るう者の心が清廉潔白で慈愛に満ちていようと、その者が剣を握っている限り、何かを傷つける定めからは逃れることは出来ない――――君は、もうそれに気付いているのだろう?」


「将軍様……」


 まるで全てを見透かしているかのような家晴の言葉。しかし奏汰はその家晴の言葉の向こうに、何か自分や新九郎以外の誰かの姿を見たような気がした。


 自分を見つめる家晴の瞳の奥に、懐かしむような、かつて失ったぬくもりを愛おしむような音色を感じたのだ。


「死んだ俺の妻……新九郎の母もよくそう言っていた。俺が剣を握る限り、それは誰かを傷つけずにはいられないと。守ったものと同じ数だけ、その剣で失っていくのだと――――」


 呟くように放たれた家晴のその言葉。


 それでも剣を握り続けることしかできなかった家晴と、そうではない道を模索しようと歩みを始めた二人。


 家晴がかつて新九郎の母から伝えられたその言葉は、どこまでも重くその場に残り続けたのだった――――。


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