その日々は遠く
そこは狭い家だった。
古すぎるわけではないが、新しくもない単身者向けマンションの一室。
玄関から入ってすぐに細い廊下が奥に延びていて、狭いキッチンの他に部屋は二つだけ。
「ごめんね……いつも仕事仕事で。もう少ししたら落ち着くと思うから」
それが母の口癖だった。
母は忙しい人で、職場でもそれなりに重要な役職を任されていた。
幼い頃は奏汰もそれを寂しいと思っていた。
保育園の子供たちの中で、奏汰はいつも一番最後まで残っていた。
日が暮れた外はすっかり暗くなり、職員以外もう誰もいない保育園の中。奏汰は母が迎えに来てくれるのを、いつも楽しみに待っていた――――。
「ううん、大丈夫。僕、ぜんぜん大変じゃないよ!」
小学校での生活も半ばを過ぎた頃には、奏汰も自分と母の境遇がクラスメイトや友人達とは少し違うのだと言うことを理解していた。
自分がお母さんを助けてあげないと。
お母さんは、ずっと一人で頑張ってくれてるんだ。
奏汰は誰から言われたわけでもなく、自然にそう思うようになっていた。
自分のために頑張ってくれている母を助けたい。力になりたいと思っていた。
「ねえ奏汰。奏汰はいつも良い子で一生懸命だけど、なにか自分のやりたいこととかはないの?」
「やりたいこと? うーん……走ったりするのは好きだけど……」
ある日、母は奏汰にそう尋ねた。
多忙ではあったものの、仕事に追われる日々は経済的な
奏汰がなにか興味のあることがあるのなら、習い事の一つでもさせてやりたいと母は
「――――今は、特にないかな? それよりさ、母さんこそ僕に何かして欲しいこととかないの? また僕がご飯作ろうか!?」
「もう……いつも私のことばっかり言うようになって。そう言ってくれるのは嬉しいけど、私は奏汰にもいっぱいやりたいことをして貰いたいなって思ってる。奏汰が本当にしたいことを、好きなだけ……」
「もうしてると思う! 毎日楽しいもん! 友達もいっぱいいるしさ!」
やや
「ありがとう奏汰……。どうか、胸を張って生きて。たとえどこにいても、何をしていても――――お母さんは奏汰のこと、いつも応援してるからね」
「うん……わかってる」
奏汰はそう言うと、自分の手に添えられた母の手を優しく握り返した――――。
それが――――奏汰が母と過ごした最後の夜だった。
気付けば奏汰は一人、それから七年もの歳月が流れていた。
もはや、母と共に穏やかに過ごせるはずだった日々は遠く過ぎ去った。もう二度と、決して戻ってくることはない。それは奏汰もよくわかっている。
だからこそ。
だからこそ、奏汰はただひたすらに胸を張って生きてきた。
自分の正しいと思ったことを。信じたことをひたすらにやり抜いて生きてきた。
赤の他人を助けてどうなる?
そんな問いは、とっくに七年前に終わっている。
それが良いと思ったから。
それこそが母が言った、胸を張って生きると言うことだと信じたから。
奏汰は今も闇の中。ただ母との絆だけを支えにその命を繋いでいた――――。
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