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 条約法条約に対する藍子の理解は、突出して優れたものであり、この条約にまつわる国際法のいくつかの学説にも通暁つうぎょうしており、授業を担当する教授は、二重の交錯した感情を彼女に抱いたこともあった。


 勿論、藍子は、この講義から最上級の判定を受け単位を取得し、その他の授業に関しても落単することはなかった。長閑のどかな春の陽気の影を踏んだまま、清々しい気持ちで夏期休暇を迎えることができた。それは藍子だけではなく、小太郎にとっても祝福するべきことであった。


「ようやくこれで、再帰的なラヴも終わりだね」

「ちゃんと、することをしていたじゃない。進歩的に……」


 藍子が、帳場に座って、来ないであろう客を待っている間、小太郎は、居間に続いている障子の前に椅子を持ってきて、棚から抜き取った本を読みふけった。


 フランス文学の名作を集めた短篇集だった。無論、藍子は、この文庫本を彼が読み終えたら、代金を請求することに決めていた。しかしいままで、小太郎がそれを渋ることはなかった。


 彼女の父親も母親も、適当な用事をこしらえて藍子を残し外出していた。勿論、ホテルの門をくぐり遊び心のある部屋で慰めあうためである。藍子はそのことを知悉ちしつしていた。


 しかし、両親の交合を想像することは、あまりにもグロテスクだった。扇風機はゆっくりと首を振り、本棚の影にある帳場をいくらか涼しくしていたが、軒先に吊った風鈴は微動だにしなかった。休日だというのに、この半シャッター商店街を歩くひとはまばらで、騒々しい音などひとつもしなかった。


「ノーパンで座ってなよ」

「いやよ。だれか来たらどうするの」

「だれも来ないって。じゃあ、俺が店先で見張っていてやるから、下半身は全部、露出してくれないか? 十分くらいでいいから。それでその後、藍子のをチェックさせてくれ」


 藍子はこのに従うことはなかった。が、その魅力的なたぶらかされるのも時間の問題だった。


 不思議と彼女は、小太郎のことを変態だと思うことはなかった。むしろ、純粋無垢な青年のように感じていた。慾求を直接的に要求することほど、汚れ無き子どもらしい態度はないではないか。藍子はおもむろに上の方を脱ぎはじめた。


「汗をかいてきちゃったから」

「着がえるの?」

「ううん……少しだけ涼もうと思うの。扇風機の向きを固定していい?」

「よし、なら俺は店先の方へいてやろう。だれかが来たら、なにか合図を出してやるよ。なにがいい?」


 下着を外す手を止めて、藍子はしばらく考えた。しかし、なんの名案も浮かんでくることはなかった。小太郎は皮肉な微笑を見せてから、身勝手に合言葉を取り決めた。


「ハーフナー・ヴァン・デ・ホン・エッゲンシュタイナー」

「なにそれ?」

「天才的な小説家だよ。俺はエッゲンシュタイナーの信奉者だからね。ここは本屋だし、小説家の名前を言うのは自然じゃないか」


 藍子は下着を外すと、陽光の届かない帳場の下に隠して、汗のしたたる双丘を、あらゆる響きを押し黙らせる夏の影にまぎらせた。

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2024年6月29日 01:00

The "Mourning" Sun Rises. 紫鳥コウ @Smilitary

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