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 枕草子の作者の名前を暗記するために、ノートに十回も書いたり、テストの当日に友達に問題として出してもらったりしていた、中学生のとき。小雨が降るにもかかわらず水泳の授業が敢行かんこうされたことがあったのを、彼女は思いだした。


 藍子はターンをするときに、思いっきり水を飲み込んでしまい、プールサイトで嘔吐えずいた。それを遠くで見ていた教師は、彼女に駆け寄ることなく、プールから出るように命じた。その命令に従った藍子は、小雨を浴びているよりも泳いでいた方が温かいのだということを発見した。


 あの教師のことが嫌いだったことを思いだす。男子のあいだで流通していた「マグロ」という一方的で身勝手で想像でしかない性交への評価を、改めておさらいし、声がでないように笑った。「マグロが泳いでるぞ」という男子たちの冷評は、クロールをしている教師には聞こえていないことだろう。しかし当時の藍子は、もしかしたらこの教師は、どんな体位もそれなりに得意にしているのではないかと考えることもあった。


 しかし藍子は、その頃から、高度なテクニックをひとつふたつ身に付けていた方が、オトコは悦ぶものだと、もうすっかり知悉ちしつしていた。そしていまの彼女の得意技は、小太郎が要求しているものを充足させる技術techniqueだっただけに、ふたりは何度も肌を重ねたのだ。それなのに彼は、彼女に対してありきたりなこきゅうろうすることしかできなかった。


 この不均衡が示すのは、藍子の優越感でも小太郎の劣等感でも、凹凸が組み合わさり長方形になるということでも、水と油の関係であるというわけでもない。陽と月だ。それ以上に適当な形容表現があるとしたら、藍子と小太郎の技術のいくつかを転倒させた先にしかない。陽である藍子と月である小太郎の性戯。不等式な等式。詩歌管弦しいかかんげんの凋落と復権。整序されたハーモニーというよりフレキシブルな物語であるふたりの性交に、誰が容喙ようかいを加えることができるというのだろう。


 プールサイドで体育座りをしていたとき、向こう側の男子の群れを見ると、ひとりが股間に注目が集まらないように振舞っているのを発見した。平時のものを知らないから、どれくらいの状態へ変貌を遂げているのかを判別することはできなかったが、おそらく、半分ほど頭をもたげていたのだろう。藍子はふと思いつき、彼がこちらに気が付くまで、じっと視線を注ぎ続けた。すると間もなく、半屹立状態の男子は、藍子の目線に気が付いた。


 見るからに狼狽ろうばいしている。藍子は、お前の秘密を看取しているということを、その眼で訴えかけた。そしてその男子は、ザブンとプールへと飛びこんだ。同級生たちの視線は、間もなく水面から現れた彼の顔に注がれた。男子生徒は教師に注意されながらも、中々プールサイドにい出ることができなかった。


 これだけの騒ぎがあってもなお、いや、それだからなのか、まだ彼のものは竹輪ちくわであるらしかった。藍子にはそれが愉快でしかたがなく、彼の性的な特徴を看破したということも一種の悦楽へと変じていた。教師からこっぴどく叱られている男子生徒は、藍子を憎んだだろうか。いや、どうやら、幾分かの性的な満足を抱いているのかもしれなかった。


 運転席の窓が下げられた。辺りを見回してから、藍子は小太郎の唇に吸い付いた。陽はちょうど斜めに降りそそぎ、絶え間なくふたりの唾液を祝福していた。勿論、喇叭らっぱを携えた天使が松の枝に座り、この愛惜post-rendezvousに冷笑を与えていた。

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