57

 国際法と文学の関係性を論じた論文を、論文検索サイトで調べてみたが、なんの成果を得ることもできず、「国際法と文学」ではなく、思い切って「主権免除とメロス」という風に打ち込んだが、なにもヒットしなかった。藍子はその事実に衝撃を受けた。自分の文学への感性が、他の部員に比べて遅延しているのだということを知り、文芸部の部室に内側から鍵をかけられた気持ちになり、爆薬を大腸に貯めこみたいと思い至った。


 裁縫が得意ではなかった藍子は、破れた父のシャツを縫合することがうまくできず、それを小太郎に委嘱いしょくした。そのことを知った父は、小太郎への憎悪に燃え、そのシャツをズタズタに切り刻み、あちこちを転げ回り、いまにも悶死しかねない勢いであった。藍子は煙草の吸い殻を片付けながら、客のいない隙に帳場の後ろで小太郎の屹立したものを慰めたときに口腔で暴発したマグマの残滓ざんしが、まだほほの後ろに残っているような感覚に不愉快をおぼえていた。


 その日から父は、ほうれん草のお浸しを口にすることがなくなった。自分の妻が作ったということを報せているのに、頑なに我が子がこしらえたと信じていた。作るところを見ればいいと台所へ連れていこうとしたが、父は「くたばれ!」と叫んで新聞紙を丸めてあちこちを叩きはじめた。藍子は二階から最新号の部誌をつかみとり、それを床へと思いっきり投げつけた。「じゃあ、くたばってやるよ!」と、こころのうちで怒声を上げながら。


     *     *     *


 商店街を突き抜けた先に駅があり、藍子は、そこから電車で大学へ向かうわけだが、小太郎とヤった日は、彼の車で送迎してもらうことに決めていた。


「たまには、車でヤってみたいな」

「イヤよ。あれには、もうりだから。口でならしてあげないこともないけど」


 小太郎は、もう潰れたレストランの駐車場の一番奥に車を止めて、屹立したものを藍子に提示してみせた。


「なんで、手なの?」

「夜じゃないから」


 藍子は車に被さるように垂れている名も知れぬ樹木の幹をじっと見ていた。そよ風に枝が揺れて、一斉に葉がざわめくのを瞳にうつしていた。藍子は陽の光が葉の裏を照らしているのを目に焼きつけながら、小太郎を憎む気持ちがくすぶっていることに気付きそうになっていた。


 枕草子の作者の名前を暗記するために、ノートに十回も書いたり、テストの当日に友達に問題として出してもらったりしていた、中学生のとき、幹、枝、葉……それらを、いまのように、じっと見つめていたことがあった気がする。どこでのことかは思いだせないけれど、そんな記憶がたしかにある。涼しいそよ風が吹いて、前髪を気にしていたことも覚えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る