56

 『公孫樹子爵夫人』(抜粋)


 3(の最後の段落)


 床の間には、白百合を二本挿した花瓶と、朱の唇と着物の金箔が美麗な舞妓の人形との後ろに、雲煙飛動な「日日是好日にちにちこれこうじつ」の掛軸が垂れている。紫陽花あじさいの風呂敷に包まれて、床の間の隅にこの額縁は立てかけられていた。


 4


 磨きのかかった品のよい紫檀したんの額縁が、四六版の用紙に描かれた水彩画を護っている。


楊柳観音ようりゅうかんのんとは、参りましたなあ」


 石嵜いしざきは朝日の煙を吐き出しながら、こわれかけた瓦斯暖炉がすだんろの上に掛けてある紫檀の額縁に、卑しい目つきを与えていた。


「もう、色事には飽きたのかね。すっかり、風流人ぶっているじゃないか。惚れて通えば千里も一里の男だったろうに、色遊びも年貢の納め時かね」

「光子が欲しいというから、譲ってもらったんだ。光子がここに飾りたいというから、ここに飾ったんだ」

「はあ、光子さんが。あれだけの器量の持ち主だから、いくら好色一代男の弓木世之介ゆみきよのすけといえども、廊下鳶ろうかとんびにもならねえってわけだ」


 散々からかわれた弓木は、これ以上は御免だとばかりに、話頭を転じた。


「きみには、あれがどういう画に見える?」

「風流人的に言えば、霊妙かつ光彩陸離こうさいりくりだな。でも、好色男の俺からすれば、下卑た言葉しか出てこない。どうだ? その中から試しに二、三の高尚な諧謔かいぎゃくを弄してみようか? それにしても、この絵を見ていると、良い愁嘆場しゅうたんばが書けそうな気がする」

「そうかね」

「どうだ。俺に貸してくれないか?」

「それは御免だ」


 平生のような会話をしていると、光子が部屋に入ってきた。


「これは光子さん。ボオイ・フレンドをちと拝借させていただいてますぜ」

 岩嵜のその言葉に会釈だけで済ませて、光子は向こうの部屋へと行ってしまった。


「チェッ。不相変あいかわらずへんにましていやがる」

 あえて光子に聞こえるように怒鳴ったあと、岩嵜は急に身を乗り出して、声をひそめた。


「光子さんには、悪いうわさが二、三はあるぜ。そろそろ手を切った方がいい。野口が言うには、天稟てんぴんの悪女とのことだ。お前もきっと、あの悪魔主義者の小説の人物になるかもしれないぞ」

「野口はもっと何か言ってなかったか?」

 弓木もまた声をひそめて、そういた。


「なんでも、お前の所に来る前に、川瀬の奴が一文無しにさせられたらしい。文科のぼたんさえ売ってしまったっていう話だ」

「道理でどこにも見なくなったわけだ」

「でも、お前は惚れている。それを止められない。困ったものだ」

 それは事実だった。光子に近づきすぎることの危険を、弓木は承知していた。


 事実、あの楊柳観音の画は譲ってもらったのではない。さとから送られてきた金で買ったのである。のみならず、大学に収める授業料が不足しているという嘘をついていたのだ。


「友人として一応忠告しておこう。では失敬。あっちの部屋でランデブーにふけたまえ」

 岩嵜はコップ半分にウヰスキーを残したまま去ってしまった。

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