虫人間

生田 内視郎

虫人間

「じゃーねー」

「バイバーイ」 


 友達と別れて一人になった帰り道で目の前を小さな蝶がひらひらと飛ぶのを目で追っていると、交差点を曲がった先にある公園の広場で、黒いランドセルに隠れて男の子が背中を丸めしゃがみ込んでいるのが見えた。


 彼の名前は、確か生島君だっけ

 何をしているのだろう、具合でも悪いのだろうか

 

 心配になり駆け寄って彼の顔を覗き込むと、彼はトカゲを手に持ち、今まさに胴体と尾を引きちぎろうとしているところだった。


「何してるの!可哀想だよっ!」

 思わず叫んだが、生島君は私の忠告を無視して左手で尻尾だけを持ちグルグルと振り回して遊び始めた。


 トカゲが死んじゃう


 私は衝動に任せて彼を突き飛ばすと、彼はバランスを崩して倒れ、衝撃で飛んでったトカゲはそのまま草むらに消えていった。

 トカゲが無事魔の手から逃れられたのが見えてホッとした瞬間、


「何すんだよ!」


 肩を殴られた。

 さほど痛くは無かったけど、一人っ子で直接的な暴力を振るわれた事がなかった私はそれだけでびっくりして目尻がぐわ〜、と熱くなるのを感じた。

 私はやり返すように彼をもう一度突き押し、走って逃げ出した。

 後ろで彼が何やら言い返していたが、聞く耳持たずに家まで全速力で走った。

 家につき急いでドアを閉め、覗き窓で彼が追いかけてこないことを確認して、一息ついてその場でへたり込んだ。


こ、怖かった──


──「てな事があったんだよ、酷いと思わない?」


 一家団欒の食事時間、私は両親に昼間会ったことを報告した。

 お母さんはあらそうなの、酷い子ね〜、と私の意見に大いに賛同してくれたが、お父さんは口をもごもごさせて何か言い淀んでるようだった。


 「まぁ、年頃の男の子って平気で残酷なことするからね」


 「そう!そうなんだよ!蟻の巣に爆竹ぶっ刺したり、トンボの頭千切って飛ばしたりな」と嬉しそうに反応するお父さんを見て、最低、とお母さんと私は冷ややかな目を飛ばし、お父さんは背中を丸めて小さくなった。


「その子、名前なんて言うの?」

「生島君 クラスおんなじだけど下の名前は知らない」


 お母さんは生島君の名前を聞いて、はーん、と妙に納得したようだった。


「とにかく、生島君と学校で会ってもなるべく無視しなさい。何かいじめられるようなことしたら、すぐ先生に言うんだよ」


 お父さんはたかが子供のことに、とぶつぶつ何か呟いていたが、お母さんがひと睨みするとまた小さくなってしまった。


──────


 翌日、学校に行くと予想だにしない事態が私を待ち受けていた。

 なんと、生島君に通りがかりに暴力を加えた乱暴な加害者として、HRの授業で学級裁判にかけられることになってしまったのだ。


 クラスが二つに割れ激しい舌戦が繰り広げられる中、どうしてこんなことに、と私の頭の中はひたすらその言葉ばかりが反芻していた。


「波多野さんが俺を急に押してきて、転んで手首を痛めました」

 生島君は手首から腕にかけて巻かれた包帯をこれみよがしにかがけ、クラスからはどよめきが起こった。


 嘘だ!絶対そんな怪我するほど強く押してない……はず……。


「これについて何か意見はありますか」

 

 裁判官役となった男子が私に弁解のチャンスを与えてくれた。

 私は慌てて事の経緯を細かく説明し、彼の残虐さと助かったトカゲの命の尊さについて熱く語りながら自分の行いの正当性を必死に主張した。


 クラスメイト達は、私の熱い弁論を聞いて大半の子達が私に賛同してくれた。


 だけど、彼の手首に痛々しく巻かれた包帯と、「先に手を出した方が悪い」とこの場で唯一の大人である先生の言葉によって私の主張は封殺され、全面的に負けを認めさせられる形になった。


(言ったって聞かないから、助ける為に他に解決法が無かったんじゃないか……)


 確かに不満はあるけれど私に全く非がないとも言えず、私は心の中でひたすら舌打ちしながら嫌々頭を下げて謝罪した。


 だけど生島君はそんな私の気持ちなどお見通しだったようで、驚くべきことに


「誠意のない謝罪なんてして貰っても何の意味ないです」

 

 と私の謝罪を突っ撥ねた。

 

 私は「はぁ!?」と思わず目を丸くした。

 普通、こう言う時は相手が謝罪した時点で終わりじゃないのか。


 男子達はもっとちゃんと謝れよ、とブーイングを鳴らし、女子達は謝ったんだからいいでしょ、と

それに応戦し、クラスはまたも真っ二つに別れて戦争になった。

 謝罪の一言で終わるはずだった議論に再び火がついたうちのクラスは、結局他のクラスが帰りの会を終えてもなお居残り、この話を一時間近くもずるずると引きずることになった。

 

 最終的にぐだぐだと延長した割に解決には至らず、最後は各々の意見を尊重する、というなあなあな結論で先生によって強制的に幕を下ろされ、議題は棚上げとなり、先生はさっさと教室を出て行ってしまった。


 だあぁ〜、とクラス中から疲労の溜息が漏れた。

 無駄に疲れた……、


 クラスの子達はこの長時間に渡った拘束に皆辟易し、謝罪を頑なに受け入れず下校時間を無意味に伸ばし、皆の貴重な時間を奪った頑固な生島君は、迷惑の元としてクラスの全員から嫌われる対象となった。


 私にも原因の一端はあるのでクラスの男子達から多少の文句はあったものの、そもそもの行動からしてやはりアイツはおかしいとクラスの中では彼について様々な誹謗中傷が飛び交った。


「私前、あの子がカエルを壁に叩きつけて殺してたの見た」

「アイツ頭おかしいんじゃないの」

「私が見た時は笑いながらトンボの羽千切ってた」

「怖ーい」

「ああいうの、サイコパスって言うんだぜ」

 

 クラスの何人かが噂するのを皮切りに、言葉の意味もよく分からず生島君はサイコパスだというレッテルがいつの間にか学校中に広まっていった。


 こうなると社会の縮図とも言われる学校の教室は、集団の中の異物を排除する動きに一斉に傾き始めた。

 先生に見つかるような表立った暴力は無いものの、教科書がゴミ箱に捨てられてたり、上履きを隠されるなど、クラスでは彼に陰湿な嫌がらせをする遊びが流行った。


 結果的に、学級裁判によって私はクラスの皆に同情され、生島君はクラス総動員でいじめの標的となるという、なんとも後味の悪い結末を迎えてしまい、私は頭を抱えた。


 私はただ、可哀想なトカゲを助けたかった。


 自分が行ったことが正しいことだと証明したかっただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのか、これではどっちが残酷な悪者なのか分からない。


 私は自分の正義を貫く為に、生島君が誰かに悪戯される度に目を向け抗議しようとした。


 だけど同級生が笑いながら彼の教科書がビリビリに破るのを見て、勇敢だったはずの私の心は足がすくんでしまった。

 万が一私が彼の仲間だとみなされ、彼と同じようにいじめの標的になると思うと、体が自分のものじゃなくなるみたいに金縛りに遭い、声が掠れて力が出なくなった。


 私は生島君が自分のちっぽけな正義感のせいでいじめの対象になってしまったのに、より大きな邪悪を前に目を伏せて耳を塞いでしまった。

 

 本来ならあの時、発端である私が一番に彼に手を差し伸べるべきだった……


 そうすれば、彼の未来もまた違ったものになるはずだったのでは、と思うと、罪悪感がずっと胸に燻って、今も心の棘となって時々私を無性に苦しめている。


─────


 あの事件があってから一週間くらい経った頃だろうか、学校の授業で「将来自分のなりたいもの」についての作文を発表する機会があった。


 その頃既に先の事件で自分で自分に絶望していた私は、アイドルやYouTuberになるとキラキラと目を輝かせている友達を尻目に、普通に働いて生活に困らないのが夢です、となんともまぁ子供らしくない目標を語っていた気がする。


 生島君の番になった時、彼が何をいうのか皆の注目が集まり、さっきまで希望ある未来について語り合い浮かれていたクラスの空気がしん、と張り詰めた。


「俺は将来虫になりたいです」


 彼は一言そう言うなり、すぐにまた席に着いてしまった。

 聞いた全員がポカン、と口を開けていたと思う。

 意図を得ない発言に先生は「どういうことですか」と尋ねるが、彼はそれから一言も話さず、教室はにわかにざわつき始めた。


「虫だって、気持ち悪い」

 と虫嫌いの女子達は口々に言って気味悪がり、

「アイツやっぱりサイコパスだよ」

 と男子達は頭の横に人差し指を回して彼をからかった。

 彼の周りの席は汚いものを避けるように机を離し、「サイコパス サイコパス」と周りの囃し立てる声が手拍子と共に響いた。


 こんなの、いくら何でもやりすぎじゃないか、

 なんで皆普通にこんな残酷なことが出来るんだ。

 私は何故だかまるで自分が言われてるみたいに思えてきて、悔しくなり唇を噛み締めた。


 なのに当の生島君を見ると、彼はどこ吹く風で何でもないとでもいうように肘をつき、眠そうな目つきで口元をニヤつかせていた。


 私はそんな彼を見て全身に身の毛がよだった。

 こんな風にイジメられたら、普通の人なら我慢出来ずに怒ったり泣くものじゃないのか、なのにずっとニヤニヤ笑ってるだけなんて理解できない。

 私はやっぱり皆の言う通り、彼はサイコパスなのかも知れないと思った。


──────


 ある日、学校の大掃除週間でうちのクラスはうさぎ小屋を掃除することになった。

 可愛い〜、と皆お昼休みにはこぞって抱っこしに行くほど人気者もこの時ばかりは忌避される対象。

 

 うさぎ達はアニメのキャラクターじゃなくて生き物なので、当然、小屋の中は獣臭く糞だらけで不衛生、好き好んで掃除をやりたがる人は誰もいなかった。

 

 私達はすぐサボって遊び始める男子達を叱りつけながら渋々掃除を始めた。


「臭ーい」


「何で生徒が掃除しなきゃいけないんだろうね」


 友達とお喋りしながらも早く終わらせたいので手だけはせっせと動かしていると、うさぎを離した庭で男子達の人集りが出来ていた。


 初めはまたサボりか、と思って無視していたが、

「きゃー」とか「うえー」と悲鳴が聞こえたので、つい気になってしまう。


「サボってないでやってよ!」と叱りに行った女子でさえミイラ取りがミイラになり釘付けになっていたので、何なの一体、と皆で覗き込みに行くと、集団の中心に生島君がいた。


 あ、とあの時を思い出して、心臓がキュッとなる。

 

 生島君は、どこかから捕まえた人差し指サイズのバッタの脚を全て捥ぎ取ると、手に乗せてうさぎに食べさせていた。

  うさぎのバリボリ、とバッタを食う音に血の気が引き、至る所から甲高い悲鳴が上がった。


 そのあまりにも残酷な光景に、ある人は泣き喚き、あるいは呆然とそれを眺めていた。

 

 なんで、何の為にこんな……


 じっと白うさぎの赤い瞳を見つめていた生島君の顔が不意にこちらに向き目が合ってしまった。

 

 止めないの?


 彼の目は無言でそう聞いていた。

 私は何も言えず、ただ彼が恐ろしくて俯いて目を逸らした。

 


 それからも彼の無言の主張は続いた。

 ある時は美術の授業で踏み潰した毛虫を綺麗な色だと言って写生し、またある時は机の上でカッターを器用に使い、丁寧にバッタを解体していた。


 彼の狂気にクラスは恐怖に包まれ、遂にパニックを起こして突然泣き出す子まで出始めた。


 なのにそこまで問題になっても先生は彼を嗜める程度で、積極的にこの問題に関わって解決しようとはしなかった。


 今でこそ学校にスクールカウンセラーが常駐するのが一般的になったが、当時は教室の生徒達は全て担任の先生が監督するのが普通だった。


 庇うわけではないが、多分先生もあの時一杯一杯で生島君にどう接してどう対処するべきだったのか分からなかったのだろう。

 

 そして遂に、転機となる事件が起こった。

 

 朝いつものように教室に行くと、生島君を数人の男子達が激しく罵り、今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気が漂っていた。


 一体何があったのか近くで観戦していた子に尋ねると、どうやら生島君がまた何か良からぬ事をしていたらしい。

 それを見ていたガキ大将の男の子がちょっかいを出し、喧嘩が始まったのだと言う。


 再び彼らに目を戻すと、いつの間にか男子達は生島君を取り囲み軽い暴力を加え始めていた。

 それが段々とエスカレートし、男子達は下卑た笑い声を上げながら、髪の毛を掴んだりズボンを脱がそうとしていた。

 遠巻きに見ていた一人が「先生呼んでくる」と言って廊下を走るが、暴力は一向に止む気配が無い。

 生島君は死んだ目でなされるがままで、碌に抵抗しようともしなかった。

 このままじゃいけない、今度こそ助けなきゃ、そう思って男子達の間に割り込んだ時、彼の手から鈍い光が走ったのが見えた。

 

「危ない!!」


 誰かの叫ぶ声が聞こえ、止めに入った手がカッと熱くなった。

それから、液体が滴る感触がして、赤い絵の具が床に落ちた。

 

 瞬間、教室は阿鼻叫喚の渦に包まれた。

 

 周りの男の子達はまるで石になったみたいに固まり、興奮して息の荒い生島君の右手には真っ赤に染まったカッターナイフが握られていた。


 そのカッターナイフから滴る赤い色を辿って、そこで初めて、ああ、私は手を切られたのだと気が付いた。


 教室に先生達が到着し生島君や男子達が取り押さえられるのを、中心にいた私はただぼぅ、と眺め、意識が遠のくのを感じた。

 不思議と、切られた手からはさほど痛みは感じなかった。

 

 ふと気がつくと、私は職員室にある応接間の椅子に座っていた。

 手には分厚く包帯が巻かれ、まるでいつかの生島君みたいだな、と思った。

 周りを見ると喧嘩の主犯である男の子達と生島君、それから担任の先生と校長先生がいた。

 皆、重々しい雰囲気を纏っており、何も悪いことをしてないはずの私でさえなんだか萎縮してしまう。


 そこに、廊下を駆ける音がして顔を真っ青にしたお母さんが現れた。

 お母さんは私を見るなり泣きそうな顔になり、「大丈夫、痛かった?」と駆け寄って頰を撫でた。

 私は同級生に母に甘える姿を見られるのが恥ずかしく、大丈夫だよ、これくらい、と笑ってみせた。

 だけどお母さんの顔はみるみるうちに険しくなり、その責める視線は大人二人に注がれた。


 「私共の監督不行き届きによりお預かりしている娘さんに怪我を負わせてしまい、大変、申し訳ありませんでした」


 先生達は立ち上がり、間に挟んだテーブルに頭がつきそうな程深く頭を下げた。

 私は大人達が真剣に謝罪をするところを初めて見たのでびっくりした。


 男子達も合わせて頭を下げ、次々に「済みませんでした」と口にし、その内の何人かは鼻を啜って泣いているようだった。

 生島君も頭を下げたものの、「これでおあいこだ」とでも言うように、決して謝罪の言葉は口にしなかった。


 それから先生は、お母さんに媚びるように事の経緯を説明し、男子達を見せしめのように怒鳴りつけた。

 私は、そんな先生から大人の薄汚い何かが垣間見えるようで、目を逸らしてやり過ごしていた。

 

 先生の説教がくどくどと流れ、いい加減帰りたいな、と思った時、職員室のドアがダァン、と乱暴に開く音がした。


 振り返ると、坊主頭に無精髭、金のチェーンとグラサンをかけ威圧的なオーラを纏った、いかにも強面な男が出てきて思わず息を飲んだ。


 男はこちらを見つけるなり無言で近寄ると、いきなり生島君を蹴りあげ、生島君は漫画みたいに派手な音を立てて壁に吹き飛んだ。


「@/#い#@%*#@#%!!!!!」


 何と言ったかも分からないその男の怒号に、その場にいた全員が凍りつく。


「ぶっ殺すぞ糞餓鬼がっ!!!」


腹を押さえてうずくまる生島君に尚も追撃を加えようとする男を、やっと正気に戻った大人達が慌てて制止に入った。


 男は止まらず、今度は呆然としている男子達に一人ずつ平手打ちを浴びせた。

 平手打ちを浴びた男子達は泣き叫びながら必死に謝り続け、私はここが地獄かと錯覚した。


 恐らく生島君の父親だと思われる男は一通り暴力を振るいすっきりしたのか、今度は私の顔を覗き見て「悪いね嬢ちゃん、今回はこれで許してやってくれ な」と私の顔を覗き、颯爽と踵を返して教室を出て行ってしまった。

 

 心臓が弾けそうなほどドクドクと脈打つ。


 私はいつの間にか固く握りしめていた手をほどくと、じわぁ、と嫌な汗が流れた。

 お母さんはあまりの一瞬の出来事に、唖然として私の腕を抱え震えていた。

 先生達は男の後を追って出ていき、教室には私達親子と啜り泣く男子達、それに未だお腹を押さえてうずくまったままの生島君が現実から切り離された空間のように取り残されていた。

 

──────


 翌日、学校に行くと教室は生島君の父親の話題で持ちきりだった。


「夏菜子ちゃん大丈夫?」


「手ぇ痛くない?」


 私は同級生に囲まれ切られた手を散々心配された後、あの時の状況について根掘り葉掘り尋ねられた。

 男の正体はヤクザだとか半グレだとか様々な憶測も飛び交ったが、私も真実は何一つ知らないので適当に頷いておいた。

 

 生島君の席を見ると、彼は今日も何事もなかったかのように平然と肘をつき椅子に座っていた。


 あの事件に遭うまでは気付かなかったが、よく見れば彼の体の服に隠れた部分にはあちこち青痣が出来ており、体は随分と痩せこけていた。

 

 あれ以来、生島君の複雑な家庭環境を察したクラスメイト達はあの男からの復讐を恐れ、誰も、先生でさえ彼に近寄らなくなった。

 

 生島君はいじめの被害から解放された代わりに、学校に存在しない人、透明人間として扱われるようになった。

 きっと気のせいだと思うけど、私はなんだか、そんな生島君の背中がやけに淋しそうに感じた。


 あの事件からまた数日が経った。

 

 あれからクラスは特に大きな変化もなく、相変わらず生島君はいない人として扱われ続けた。

 普通、運動会や他の行事などでどうしたって関わらなければいけない時はあるのだけれど、そういう時は決まって休んでいたので不思議と困ることはなかった。


 一度、先生と私のお母さん含めたPTAの保護者達が集まって彼を警察に預けるかどうか相談してる所を見たことがあった。

 すぐに教室を追い出されたのでその後どうなったのかは分からないけれど、これまで通り生島君が出席してる所を見ると、きっと大してリアクションを起こさなかったのだろう。


 大人でさえ手に余るのに、ましてや子供である私に出来ることなんて何もない。


 お母さんに忠告された通り、皆がしていることと同じように私も彼を見ないふりし続けた。

 最初は生島君が視界の端に映る度に胸がチクリと痛んだが、やがてそんな痛みにも慣れてしまい、同じ教室に居るはずなのに私は彼の存在をすっかり忘れかけていた。


 それからまたいくつかの日が経ち、いつものように友達と別れた交差点の先の公園で、ひらひらと小さな蝶が目の先で舞っていた。

 それを目で追っていると、生島君があの日のように地面にしゃがみ込んでいたのが見えた。


 ギョッとして体が固まり動かなくなる。


 どうしよう、遠回りして帰ろうかと考えを巡らせてる間に、彼がこちらを見ているのに気付いた。


 見つかってしまった、こうなってはわざわざ遠回りするのも逆に怪しい。

声をかけられないようにうつむき速歩きで横を通り抜けようとしたら、こちらに走ってきて突然腕を掴まれてしまった。


「ひっ」


 驚いて声を挙げると、生島君もびっくりしたのか慌てて腕を離した。


「ごめん」


 一言、生島君は掠れた声でそう言った。


 生島君の声を久しぶりに聞いたので、最初は彼が言っていると気付かなかった。

 ましてやそれが謝罪の言葉だったので、私は彼の顔をまじまじと見つめてしまった。


「これ」


生島君は、手に持っていた木の枝を私の顔の前に差し出し、顎をしゃくってそれを受け取るように催促した。


 よく見ると木の枝には何かの虫の繭がくっついており、私は怖くて「要らない」とそれを受け取るのを拒むと、彼は落ち込んだ様子でがっくりと肩を落とした。


「ええ……」


 それが普段の生島君の雰囲気と違ってなんだかとても人間臭くて、私は思わず吹き出してしまった。


 生島君はつられて照れ臭そうに笑い、

「話があるんだ。ちょっと座らない?」と公園のベンチに私を誘った。

 お母さんから彼を無視するように言われていた私は一瞬どうしようか迷ったが、さっき垣間見えた彼の本性が本物なのか、どうしても確かめてみたくなって、一応いつでも逃げ出せるようにとベンチの端っこに腰掛けた。


「……」

「……」


 互いに黙ってしまい、気まずい時間が流れる。

 生島君は私に話があると振っておきながら、木の枝の繭を見つめるばかりで、ちっとも話しかけてこようとしない。

 その内じれったくなって我慢できなくなった私は、思い切ってずっと前から気になっていた質問をぶつけてみた。


「生島君のお父さんって、いつもああなの?」


 敢えてぼかした言い方をしてしまったが、生島君にはちゃんと伝わったようで、無言で縦に首を振って肯定した。


「お母さんは」


「いない 昔に出てったって」


 そうだろうな、とは思っていた。

 普通、学校に呼び出された時はお父さんじゃなくて、お母さんが迎えに来るもんな。


「どうしてあんなことしたの」

勇気を振り絞って、もう一歩踏み込んでみた。


「ごめん」

 彼はそう言って、傷が薄らと残った私の手の甲を見つめた。


「ああ、いや、そうじゃなくて、もう痛くも無いしそれは良いんだけど……、その……、虫……、とかさ、どうしてあんなに酷いことするのかなって」


 聞きながら、私はこの質問が彼の逆鱗に触れて、いつ彼がカッターナイフを持って暴れ出さないかとヒヤヒヤしていた。

 だけど、返ってきた答えは意外なものだった。


「虫ってさ、痛覚が無いんだって」


「え?」


「痛さを感じる器官が無いんだ。魚とか、爬虫類もそうだって言われてるけど。だから、本当に痛覚が無いのか、確かめてみたかった」


「どうして……」

 

 そんなことを確かめたがるのか、可哀想だとは思わなかったのか、とは何故だか聞けなかった。


「虫にもさ、ちゃんと脳はあるんだ、俺らと同じように。だから蜂は巣をつつくと怒るし、生きようとして餌を食べる。

 だけど、それは機械のシステムみたいに単純な思考で、虫の頭には本能しか入ってないって本で読んだんだ。それ知った時、良いなぁって」


 生島君は余程虫が好きなのか、普段一言も喋らない大人しい彼とは考えられないほど饒舌だった。


「思うんだけどさ、人が虫と違って複雑な感情を持つのって痛覚があるせいだと思うんだ。人を憎く思ったり怖いと思うのも、裏切られて悲しかったり、不安だったり、孤独を感じるのも全部心や体が痛むせい。

 だから虫みたいに痛覚が無くなれば、そういうの全部考えなくってよくなるかなって」


 作文の時間、将来の夢で虫になりたいと語っていた生島君の姿を思い出した。


 生島君は酷い悪戯をされる度、まるでなんでもないように振る舞っていたけど、心の中ではちゃんと苦しんで見えない血を流していたのだ。

 

「親父もさ、普段はああやって暴力ばっかり振るうし怖いんだけど、たまに機嫌がいいと凄いニコニコして優しくてさ、俺もう親父を憎めばいいのか好きでいればいいのか分かんなくって……。


 いっそ虫みたいに、何にも考えないで一人で生きていけたらどんなにいいかなって思うんだ」


「苦しいの?」


 彼は苦しそうに心臓の位置をぎゅっと掴み、震えながら、顔は今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。


「どうせ生まれてくるなら虫に生まれてきたかった。そしたらこんな苦しい思いもしなくて済んだのに」


 私は何か慰める言葉をかけたくて必死に言葉を探すけれど、何と言っていいのか分からなかった。


「私、虫なら蝶が好きかな」


 かける言葉が見つからなくて、だけど話題を逸らすのにも何を話せばいいのか分からなくて、私は取り敢えず視界に入った木の枝の繭から連想してそんなことを言った。


 「凄いよね、蝶って。最初はちっちゃい芋虫なのに、蛹になって、体ドロドロに溶かして丸ごと作り変えて空も飛べるようになるんだよ。ええと、こういうのなんていうんだっけ」


「……変態」


「そうだ変態だ」

  

 変態というこの場にそぐわないワードがとっぴで可笑しくて、私達は二人して顔を見合わせて吹き出した。


 変態だって、波多野さん変態になりたいの、

 違うでしょーそうじゃないでしょもー、


 とお互いに腹を抱えてゲラゲラと笑った。


 生島君の話は難しくてよく分からなかったけれど、私は自分に痛覚があってよかったと思う。


 痛覚があるから、苦しいから、相手も同じように苦しいんじゃないかと思える心があって、心があるから、こうして今二人で通じ合って可笑しくて笑い合えてるんじゃないか。


 私はそのことを生島君に伝えたかったけど、なんだか上手く言葉に出来なくて、胸が凄くむず痒かった。


「でもいいね、蝶。俺も虫になるなら蝶がいいな。

これまでの自分を全部捨てて作り変えて、新しい自分として、何にも囚われないで自由に空を飛んでくんだ」


 生島君は立ち上がり、尻の埃を払うと、また私に木の枝を差し出してきた。


「これ、アゲハ蝶の蛹、こないだのお詫び。

……手けがさせて本当にごめん。居なくなる前に、どうしても謝りたかった」

 生島君は私に向き直り、頭を下げた。


「居なくなるって、……引っ越すの?」


「児相の奴等が五月蝿いから引っ越すんだって。

俺は……、俺も、付いてかなきゃしょうがないし」


 そう言って生島君は肩をすくめた。

 もとより、子供の私達に選択肢なんて残されていない。

 子供である自分達は虫カゴに入れられた虫のように、飼い主である親に餌を与えられなければ生きてはいけないのだ。


「次の学校では、精々皆に引かれないよう上手くやるよ」


 生島君は悪戯っぽくシシシと笑うと、さよならをいう暇もなく走って行ってしまった。


 私は生島君の普段の不気味な雰囲気とは全く違う明るいギャップに戸惑い、胸が苦しくて、いつまでもベンチから立ち上がることができなかった。


 それから生島君は一度も学校に現れることはなかった。


 元々いない人のように扱われていたので、クラスはまるで最初からいなかったかのように彼が消えたことを平然と受け入れていた。


 私も、最後に彼と話す機会が無ければきっとクラスの皆のようにそれを当然だと受け入れていただろう。

 そう思うと、どうしようもなく心がジクジクと痛んだ。

 

 いつの間にか彼の机は片付けられていて、今はクラスにぽつんと空いた一人分の空白だけが、彼が確かにここにいたことの証明な気がした。


──────


 ──あれから何年も経ち大学生になって生島君のこともすっかり忘れていた私は、成人式の日に朝のニュースで彼の名前を目にして息が止まった。


 アナウンサーの無機質な声に乗って学生時代の写真が流れ、間違いなく彼だと分かった瞬間、突然わけも分からず涙が溢れ出した。


「本日早朝『息子に殺される』と通報があり捜査官が現場に駆けつけたところ、被害者が血塗れで倒れているところを発見し、その場にいた容疑者と思われる被害者の長男である男の身柄を確保しました。

 容疑者の男は手に被害者を殺害したと思われる包丁を持ち、心神喪失している所を捜査官に取り押さえられたということです。

 捜査員の調べによると、容疑者の男は『殺される前に殺した』と供述しており、以前から被害者の父親に対して強い恨みを…………」

 

 違う、きっと彼はお父さんのことを恨んでなんかいない。恨む気持ちまで捨ててしまったんだ。


 生島君は、心を捨てたんだ。


 心を捨てて、虫人間として生まれ変わって、ただ自分が生きる為に命を脅かす危険なものを排除したんだ。

 

 私は、テレビから流れる音声を遠くに感じながら、生島君から貰った蛹のことを思い出していた。


 あの時、生島君から貰ったアゲハ蝶は蛹から羽化したものの羽根がうまく広がらず、一度も飛ぶことがないままケースの中でうずくまるように亡くなっていた。


 その姿が、公園で一人ぼっちでうずくまった彼の姿と重なり今も私の瞼の裏に強く焼きついていた。

 

 

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虫人間 生田 内視郎 @siranhito

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