月見
小依先輩が連れ出した先は一般棟の屋上、すなわち1つ上の階。立ち入り禁止のはずだが出処不明の鍵で扉を開き、小さなマットだけ敷いて隣り合って座った。
堂々と校則を破りながら、彼女は悪戯っぽく笑った。
「空が良く見えるだろう? 今日は少し隣が騒がしいかもしれないけどね」
天文部と思われる数人の集団が隣の棟に見えた。彼女の懸念は確かだが、隣の棟は3階建て。距離もあるし、音を立てなければ気づかれないだろう。
「あっ、あった」
「何を?」
「ほらほらあれだよ。ちょうど今建物の影から出たところかな」
昇りつつある月が視線の先にあった。彼女は明らかに興奮している。
俺も天体観測は嫌いじゃないが、ここまで熱狂的なわけじゃない。必然的に、見る対象がすり替わった。彼女が一瞬身体を震わせたのを見逃さなかったのは、そのおかげである。
「今日、ちょっと冷えますね」
「上着を忘れたのは失敗だった。実は寒いのは嫌いでね」
「取りに行きます?」
「んー……いや、もうちょっと見てから行くよ。今良いところだから」
もちろんちょっとで済むわけがなく、じーっと星空に視点を固定していた。時折恒星や街並みにも目を向けているから、根本的に夜空が好きなのだろう。
「あの。鍵とかってかけてます?あの部屋」
「念のためね。何か忘れ物かい?」
「それは大丈夫です。しまってある場所教えて貰えたら上着とか持ってきますよ」
「……仕方ない。なら私も行こうじゃないか」
「俺は大丈夫ですから、空見ててくださいよ」
「君、1人にしたら何するかわからないから」
絶望的な信頼の無さだった。多分部屋を漁るとかではなく、うっかり鬱っぽくなって飛び降りる方を気にしているのだと思う。
「じゃあ、やっぱいいです」
「遠慮しなくていいのに」
彼女はそれ以上何も言わなかった。まだ見ていたいのだろう。
10分ほどして、いよいよ限界が来たらしい。
「……ふぇくち!」
「変わったくしゃみしますね」
「うるさいな。これは私なりの感情表現だ」
要は寒いと言いたいのか。かといって彼女は腰を浮かせる気配すらない。このままだと風邪を引くのは明白で、どうせ風邪を引くなら俺が引いた方が良い。男の方が身体も強いし、弱っている彼女を見たくはないという優しさ半分、彼女の方が価値ある人間という根暗半分だ。
ドン引きされないかひやひやしながらも、俺は立ち上がって上着を脱いだ。シャツ1枚では堪えるが、まあ大丈夫だろう。
「良かったらこれ、どうぞ」
「寒いだろう。そこまでする必要は――」
「空を見続けたい小依先輩と、寒い思いをしてほしくない俺を両立させる方法がこれです」
「……約束だ。風邪を引きそうだと思ったり体調が悪くなったら言うこと」
「もちろん。でも馬鹿は風邪引きませんから大丈夫ですよ」
嘘だ。かつて唯依が風邪を引いた以上この言葉は無意味である。
不安そうな小依先輩に、俺は作り笑顔を浮かべた。彼女は困ったような笑顔を浮かべた。
「あんまり似合わないね」
そして2日後、俺は風邪を引いた。
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