攻勢

 小依先輩からの着信に応じると、のんびりとした声が聞こえた。


「聞こえるかい? 電話は不慣れでね」

「大丈夫です。どうしました?」

「どうと言うわけではないんだけど……唯依さんから様子を見てやってほしいと言われてね」


 名前呼びに代わっている。元は立花さんだったはず、どうやら俺の無責任は役立ったらしい。


「俺はあんまり情報収集できてないんですけど、どうですか? 注目度っていうか」

「落ち着いてきているね。君は?」

「似たような物です」

「そうか。実験の再開も近いかもね」


 実験という口実はありがたい。1人を望んでおいて何だが、俺は孤独に耐えられる人間ではなかった。


「実験、なんですけど。会うのは無理としても、電話で話すってのはどうでしょう?」

「……そうか!」


 柄じゃない提案だが、悪くなかったようだ。むしろ喜んだらしく、鼓膜がちょっと痛んだ。

 トーンを落としながらも興奮冷めやらぬ調子で彼女は言った。


「ごめん。でもいい提案だね、何もゼロとイチで考える必要もない。盲点だったよ。早速そうしよう、今日はどうだった?」


 到底そうは思えないが、友達いない疑惑のある小依先輩なら忘れていてもおかしくない。

 

「今日は、何というか。どうもしないですね」

「朝起きてから登校するまでの間はどうだった? 電車で嫌な思いをしなかった? 良いことがあった? 何でも良いんだよ」


 そうか。目から鱗だった。俺と彼女では、日常の解像度が圧倒的に違う。同じ世界を見ても様々なことを覚え、感じている。きっと唯依もそうだ。だからこそ、俺は彼女たちといて楽しいのだ。


 小依先輩は俺なんかの一挙一動に注視してしまう人だ。俺は彼女に、あるいは唯依に注目しただろうか。ゼロではないが、きっと彼女ほどのキメ細かさはない。

 思わず声が漏れていた。


「すごいですね、先輩は」

「え? いやぁ、そんな。ありがとう。それで? 今朝は?」

「どうって話じゃないですけど、寒かったですね」


 天気の話題しか出せない。ただ今日の冷え込みは異常だったし許されるはず。

 甘えの裏でもかいたのか、素っ頓狂な声が聞こえた。


「寒い? 寒がりなんだね、知らなかったよ」

「え、そうですか? テレビで今年初の冷え込みって」

「じゃあコートとか、マフラーとか付けていたのかな?」

「いやぁ持ってないので。手袋は唯依がくれたんですけど」

「そっかそっか!」


 ややゴリ押し気味だった。ここで俺のことを話しても良いが、踏み込むべきだろうか。逡巡していると不思議そうな吐息が聞こえた。

 ここで怖気付く方がきっと小依先輩は嫌がるだろう。


「ずっと思ってたんですけど。先輩、部屋から出てない?」

「お手洗いとかは行ったよ。水道だって使った」

「5階は人気もないし換気もされない。冷暖房完備の部屋で、授業にも出ない。その上寒さを知らない――外に出てない。やっぱりその部屋に住んでますよね」

「……認めようじゃないか。それの何が悪いんだい? あそこは私の自室さ」


 天才にも知らないことはある。大問題があるのだ。

 彼女の研究室、なら俺の心は耐えられる。だが彼女の私室は耐えられない。居た堪れないというか、逃げ出したいというか、妙に気恥ずかしく罪悪感すら感じる。


 こうして時折事故を起こしながらも、会話は流れていった。会話が弾むというよりは、落ち着いたやり取り。穏やかな日々の交換。何気ない雑談にこの上なく安堵した自分を知ってしまった。

 もう戻れるはずもない。一拍の間にねじ込んだ。


「ところで、期日を決めませんか。いつまでも会うのを自粛するのは実験に不都合でしょう」

「うん? ああ、良いけど。いつにする? 来月とか? 中間テストとか?」

「来週の月曜から再開でどうでしょう」


 数秒返事が返ってこなかったが、パニックでも起こしたような声が聞こえてきた。


「あ、あぁうん。わかった。そうしよう、ぜひ」

「大丈夫ですか? 不都合なら」

「いやいやぜんぜん! ちょっと予想外が続いてね。来週楽しみにしているよ。おーっともうこんな時間かぁそろそろ寝るよ。おやすみ!」

「あ、はい。おやすみなさい」


 時刻は19時だった。どう考えても嘘だが、突っ込む勇気はまだなかった。

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