想定外

 翌日、俺は教室で立ち尽くしていた。金がない。定期券もない。クラスの男に取り上げられて、どこかに隠された。多分数日すれば発見されるだろう。

 陸上部が休みなので、唯依はもう帰ってしまった。まあせいぜい数駅分だし、歩けば良いだろう。意を決して廊下に出ると、いきなり何かにぶつかった。


「あいたぁ!?」

「うお……ってあれ、小依先輩?」


 彼女は尻餅をつき、目をきゅっと瞑っていた。スカートが少し乱れていて、中は見えないが目を逸らした。そっぽを向いたまま手を差し伸べると、引っ掴まれた。

 立ち上がるや否や、彼女は睨みつけてきた。


「すみません、まさか先輩がいるとは思ってませんでした。大丈夫ですか、怪我とかしてませんか?」

「怪我はしてないよ……それより瞬君、どうしたのさ」

「教室から出ただけですけど」

「そうじゃない。一応確認するけど、君のホームルームはもう30分は前に終わっているはずだよね。私との約束を覚えていないのかい?」


 心底不満そうだが、本気で怒っているわけでもないようだ。拗ねているのが近い気もするが、まさかそこまで幼くもあるまい。

 原因はなんだろう。ぶつかったことではないらしい。おっと、考えている場合じゃないな。口がへの字に曲がった彼女に、端的に事情を伝えた。


「なるほど……それは災難だったね。うん。立ち尽くしてしまうのも無理ないよ」

「え、そんな話でしたか?」

「しかし歩いて帰るのは大変だろう。秋に入ったとはいえ、まだまだ暑い」

「帰らないわけにもいきませんから」

「まあまあ早まらないで、とりあえず私の部屋においでよ。実験に付き合うって約束だろう」


 俺を助けるのは実験らしい。彼女に引っ張られながら、再び部屋までついて行った。


 ちゃぶ台を挟んで向き合うと、彼女はどこからともなくお茶とお菓子を持ってきた。


「どうぞ。今日も少し長くなりそうだから」

「またですか。昨日結構話したでしょう」

「君との関係については、既に決着がついた」

「ええ。で、何を話すんです?」

「今から敬語、丁寧語、とにかく距離感のある喋り方を禁止する」


 物凄く曖昧な表現なのは、抜け道対策か。早速学習されてしまったらしい。ただいきなり言われたので、何となく嫌だった。


「では、喋らなければ良いのですね?」

「むっ……じ、じゃあ条件を追加だ。毎日この部屋に来て、最低でも1時間は話すこと。無理に喋る必要はないけど、今日何があったのかくらいは聞かせてほしい」

「カウンセラーみたいですね」

「言っただろう、単純に君に興味があるんだ。データを集めるのは当然さ。もちろん言いたくないことは言わなくていい。急用があって来れない日があっても構わない」


 結構な譲歩だ。毎日虚偽の急用をでっちあげて、中身は言いたくない、でも通じてしまう。それがわからない波止場小依ではないだろう。余程話を聞きたいらしい。


「……じゃあ、話すこと自体は理解しました。それと話し方を崩す関係は?」

「これから長い付き合いになるし、形からでも関係を深めようと思ってね。あっでも科学者としてはともかく、個人としては短い付き合いでも全然構わないよ。寂しいけど、私の探求心よりは君の心の健康の方が大事だからね」


 その上で長くなると見越しているからには、彼女から見て俺は相当に重症なのだろう。ずけずけと心の内側に入り込まれるのは嫌いだが、抵抗しても抉じ開けられるに違いない。


「……じゃあ、よろしくです。小依先輩」

「くぅー、先輩は外れなかったかぁ……」

「認めて貰ってるので。あと素で敬語っぽくなるのは良いですよね?」

「わかった、わかったよ瞬君。君の勝ちだ。話しやすいように喋ってくれれば、それで良いよ」


 無駄に悔しそうな彼女を見て、随分久しぶりに笑った気がした。

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