狂気の天才:波止場小依

 波止場先輩は突然立ち上がり、戸を施錠して振り向いた。そのくせ何事もなかったかのように言った。


「すっかり忘れていたよ、普段は鍵をかけているんだ。準備もできたところで本題に入ろっか」


 施錠が準備?

 事務机の上にはパソコンとモニターが設置されている。ソファではなくそちらの椅子に腰かけて、彼女は紙飛行機を読み返した。


「君の手紙を意訳すると、助けが欲しい。でも助けられても無理かもしれないって感じだね」

「助けてくれる奴がいないのも加えてください」


 事情があり、この件で唯依は頼れない。


「なら瞬君には悪いけど、私にとっては好都合だね」


 友達少ないから拉致しても問題にならない的な奴だろうか。彼女は紙をひらひらと空中で泳がせた。


「これを見てぴーんって来た。研究者の魂って奴かな」

「はぁ」

「君は絶望して疲れ切っていて、蜘蛛の糸に縋りつく気力もなさそうだ。私がお墨付きを与えよう。君は放っておいたら、多分最終的な解決に走ってしまうだろうね」


 悪意も蔑む様子もなく淡々と言われた。今更傷つく心もないが、随分直球だ。半ば感心していると、呆れた声が聞こえた。


「やっぱり。かなりキツいことを言ったのに、君は傷ついていない」

「心が強いので」

「いいや違う。それは心に余裕があるんじゃなく、麻痺しているだけだ。いつか限界が来る。もう近いかもしれない」


 余命宣告だろうか。医師免許はないにせよ藪医者よりは余程詳しいだろうし、信憑性は高い。


「そういうわけだから、私は君を助けたいんだ」

「いや、どういうわけですか? さすがに良心1つで誤魔化せる範囲越えてますよ。何かさせたいんですか?」

「なんにも。ただ客観的に見て君は絶望している。その状況は誰かが――例えば私が助けたのなら変わり得るのだろうか。気になってしまったのだから仕方ないだろう。そういうわけで君に興味が出た」


 瞳はぬいぐるみを買い与えられた少女のように煌めいていた。本心にも見えるが、芝居がかっている気もする。ただし興奮した素の可能性もある。これだから人間は嫌いなのだ。何が本心かわからない。


 ともあれ今ある情報から判断すると、波止場小依はかなりの善人で、かつ探求心旺盛な人物だ。噂とはあてにならないものである。故に過剰に警戒する必要はないし、彼女の誘いはプラス要素しかない。

 抵抗しているのは薄っぺらい自尊心と恐怖心だけだ。感情の揺れに気づいたらしく、彼女は目ざとく声をかけてきた。


「気分が悪そうだね。もしかして暑い? エアコン入れようか」

「大丈夫です」

「強情だなぁ、そんなに怯えなくたっていいじゃないか。迷いたいなら迷う時間だってあげるよ。さすがに最終下校には間に合わせてほしいけど」


 優しい人アピールが効いてくる。それとも素だろうか。素の可能性を考えてしまう時点で、かなり毒されているらしい。

 彼女の瞳は輝いていて、純粋な色をしていた。断られるなんて思ってもいないようで、俺が返事をせずにいるとようやく不安げに視線を落とした。


「……ダメかな。これ以上私に提示できる物はないんだけど」

「はあ、わかりました。ありがたく助けられますよ。こうなった以上、期待しますからね」

「やった!」


 砂浜で貝殻でも拾った子供のような表情を浮かべていた。悩んでいたのが馬鹿らしくなるくらい、魅力的だった。


「喉が渇いただろう。というか私が疲れたし、ついでに君にも出そう」

「……先輩は何を飲みます?」


 反応は劇的だった。

 彼女の瞳は丸くなり、優し気な微笑を浮かべていた。見る者を安心させる顔だった。コーヒーを貰い、しばし何も語らずに時間を過ごした。

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