さりとても

sin30°

さりとても

「人のエネルギー源は、タンパク質でも炭水化物でもなくて、愛だと思う」

 そんな歯が浮くようなセリフを真顔で言えるのは、世界中で彼ぐらいしかいないんじゃないだろうか。

 そんなセリフを平気で吐く彼だが、単なるロマンチストというわけではない。なんてったってこのセリフを別れ話で言ってみせたのだから。ロマンチストの風上にも置けない最悪のタイミングだ。


「君がこの二年間、僕に注いでくれた愛で今僕は生きているんだ」

 それに加えて、本気でこんなことを言ってくるのだからたまらない。言われた当時、つまり一週間と二日前はそれなりに感動したものだが、今考えると少し気持ち悪い。まともな感性を持ち合わせている女子ならば言われた瞬間に全身を虫酸が駆け巡ることだろう。まあ問題は私がそのまともな感性とは縁遠い存在だということなのだが。


 はあとため息をついて空を見上げる。バイト先の塾を出たタイミングで降り始めた雨は強くも弱くもならず、今もぼんやりと降り続いている。

 パラパラと力なく傘に当たる雨の音を聞いて、降るならちゃんと降れよと心のなかで毒づく。


 十分ほど前、雨が耳に落ちてきて咄嗟に鞄から取り出した折り畳み傘は、別れる寸前に彼から誕生日プレゼントで貰ったものだった。

 別れても尚彼に助けられることに若干の情けなさはあったが、背に腹は代えられぬ、といつもより二割増で力強く傘を開いた。

 黒地にワンポイントで小さく月の模様が描かれたこの傘は、お世辞抜きでもオシャレだと言える。月が自分の正面に来るように傘を回して、ああ、やっぱりいいデザインだな、と心のなかでひと誉め。


 なんだかこんなことを思っていると未練たらたら女みたいだが、そんなことはない。断じてそんなことはない。……多分。

 そんなことないんだからな、と無邪気に描かれてやがる傘の月を睨みつけた。当たり前だが月には何の変化もなく、ただパラパラと雨が傘を打つ音と、すれ違っていくスーツ姿のサラリーマンのため息だけが聞こえてきた。


 私の持論として、物に罪はないというものがある。例え元カレからのプレゼントだろうと潰れるまで使うし、大嫌いな人の料理であっても美味しければきっとおかわりまでするだろう。だから、これは未練とかそういうものではないのだ。きっと。


 そういえば、と傘に浮いた月を見た。あれは半年くらい前だったか、彼と深夜に電話していた時、「夏目漱石は『I love you』という言葉を『月が綺麗ですね』と訳すべきだと言ったとされてるんだ」みたいなことを言われたことを思い出した。

 その時私はそんなことは百も承知だったのだが、なんとなく「へー、よく知ってるね、すごいね!」とおだてるようなことを言ってしまった。なぜそんな思ってもないことを言ってしまったのだろう、という疑問をずっと抱えていたのだが、今になってなんとなくその理由が分かったような気がする。


 私はきっと、彼のことを本当の意味では信じていなかったのだろう。

 思えばこの二年間、嫌われないことに一生懸命で、見放されないことに必死だったような気がする。

 彼の機嫌を損ねないように常に意識して、世間一般の「優しい」を全力で行う。常にいい彼女であろうとしてきたのだ。付き合っていた間はそんなことなど思いもせずに楽しんでいたのだが、終わってから振り返ってみると知らず知らずのうちにそれが負担になっていたのだろうな、と感じる。


 自分をさらけ出さず、無難にこなしてきたその日々は、きっと本物ではなかったのだと思う。そんな気持ちで付き合っていたのだから、こうなったのもある意味当たり前だったのかもしれない。今回こうなっていなかったとしても、いつかは限界が訪れていたと思う。


 正直、最後の一、二週間は精神的にキツかった。終わりが見えてもなお自然に、明るく振る舞う自分がしんどかった。

 少し前までは彼と会うのがあんなに待ち遠しかったのに、最後の方は会う前日に胃の奥の方に鉄球が仕込まれているような気の重さを感じた。会っている時もこれまでの安心感はなく、まるで知らない人といるような気分だった。


 だから、こうして終わったこと、終われたことは良かったのかもしれない。

 不思議と未練を感じないのも、その辺りに理由があるのだろうか。

 気づけばもう、住んでいるマンションのすぐ近くまで来ていた。雨はまだ止まない。腫れぼったい雲に覆われたせいでいつもより一際暗く見える空を見上げた。――ああ。



 さりとても、今日も月が綺麗だ。

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