第弐佰拾壱話:暗中模索

 天正五年八月、越前の一揆勢を完全に鎮圧したことでようやく織田軍は加賀へ足を向ける。一度、上杉軍が引いたことと長家からの勝勢も届いていたことで、まずは越前の地盤を整えることを優先していたのだ。そも、能登畠山からの救援要請があって初めて加賀、能登への侵攻に大義が生まれる。

 それなしに国を跨ぐことはよろしくない。

 ゆえ、後手を踏むのは戦の構造上致し方ない側面はある。

「……一向宗共め。邪魔をしよって」

「四万の大軍勢ともなれば全てに目を配るは困難かと」

「わかっておる」

 越前と加賀の国境は山が幾重にも連なっており、道も細い。大軍勢を通そうと思えば嫌でも間延びし、山に潜む一向宗門徒の急襲に対応し切るのは困難であった。

 無視して進もうにも彼らも馬鹿ではなく、小荷駄などを狙い撃ちしてくるゆえに兵站を考えた時に捨て置くのも悪手と成る。

 とにかく地の利はあちらにあり簡単ではない。荷馬を今日だけでいくつ失ったか。小荷駄奉行も頭を抱える始末。

 山岳におけるゲリラ戦術の厄介さが国境では際立つ。

「七尾城の様子はどうか?」

「依然として情報は入ってきません」

「……むう」

 総大将を任された柴田勝家は腕を組み考え込む。上杉軍が再度侵攻、七尾城を包囲したと言う情報は入ってきている。だが、その先がなかなか入ってこないのだ。無論、この時代の情報伝達は人の手を介す以上、不測の事態はある。

 それに七尾城も包囲完了前に物資及び人員の収容は完了し、万全の備えであるとも長家の者直々に織田へ伝えてきており、即座に落ちると言うことはない。

 焦る必要はないのだが、多少嫌な予感は募る。

「牛歩の歩みだが、一歩でも先へ進もうぞ」

「承知」

 今はただ進むのみ。七尾城には悪いが上杉軍との決戦が控える以上、出来るだけ軍を消耗させることなく動かしたい。一向宗を完全に放置すれば傷が広がる。その対応をしつつ、一歩でも先へ進む。それが勝家の判断であった。

(わしなら、多少の損耗は無視して時を稼ぐがのぉ)

 ただ、羽柴秀吉の考えは違った。織田軍の基本戦術は相手より数を揃え、圧倒する。と言う物量主義である。ゆえに勝家もそれに則り、数を守りつつ進む手を選んでいた。されど秀吉はその王道が常に最善であるとは思っていない。

 相手が見えぬ時ほど、多少の無茶は承知の上で急ぐ。

 秀吉が総大将ならそうした。

 が、今の彼は勝家の下についており、自分の中でも迷いのある選択を口にすることは出来なかった。急ぎ、兵を、補給を疎かにすることで失われることも少なくない。それが相手の狙いであった時、提案者の己が責任を取ることとなる。

 今はまだそこまですべき時ではない。そう秀吉は判断した。

 その翌日、

「今日も七尾城からの報せはない、か」

「はっ」

 翌々日、

「……まだ、か」

「はい」

 そして一週間、軍勢が山間部を抜け平野部に入ろうかと言うところで、

「……まだ、入らん、だと?」

「……そのようです」

 勝家らは明らかな異常事態を前に顔を曇らせていた。

 ここが加賀国、百姓の治むる国として一向宗が支配しているのは彼らも重々承知している。其処から情報がこぼれることは難しいと判断していた。四万の軍勢が山を抜け切るまで、手持無沙汰だった勝家は周辺への攻撃を指示、情報を持つ者を探したが、一向宗門徒を強請っても何も出てこなかった。

 その上、織田方も間者は常に、それこそ全国津々浦々へ放っている。この軍にも参加している滝川一益などはそれらを統括する責任者でもあった。

 要は忍び、乱破を使っているのに、未だ勝家に情報が入ってきていないのだ。もう要害、手取川は近い。いくら何でもまだ七尾城が落ちているわけはないが、彼らが七尾城突破を諦めて加賀国に戻り布陣、織田軍を待ち構えている可能性もある。

 能登畠山との挟撃と成り得るため可能性は低いが、零ではない。

 情報がない、と言うのはそう言うこと。

 光の差さぬ闇の中を歩くに等しい。

「どう思う、藤吉郎」

「十中八九、封鎖されているのでしょうな」

「七尾城に蓋をしつつ――」

「七尾城にも近づけさせぬ。相当人工のいる作業です。ここまで漏れ出ぬのは異常ですな。何か、隠したいことがあるのやもしれません」

「例えば?」

「七尾城を落としている、とか」

「……不可能だ」

「内応させれば、あるいは」

「温井、遊佐辺りはとうに牙を抜かれておる。そして、長家はかねてより織田と懇意であり、今更上杉に尻尾を振るとも思えぬが」

「……ですな」

 嫌な予感はする。しかし、何一つ断言できない。これが秀吉の歯切れの悪さに繋がっていた。織田家随一の城攻め名人として彼には自負がある。

 その己が判断するのだ。

 あの七尾城を落とせるわけがない、と。

 力攻めはあり得ない。内情をよく知るからこそ調略も難しい。数多の城を落としのし上がった秀吉をして、干殺しにするくらいしか手がない。

 全国の誰もがそう思うはず。

 それこそ何か、不測の事態でも起きぬ限り。

「急報です!」

「来たか!」

 勝家は待ち望んでいた報せに膝を打ち立ち上がる。吉報であろうが、凶報であろうが、知らぬことよりも悪いことはない。

 秀吉も相好を崩す。予感も杞憂であったなら、それで――

「松永弾正、謀反! 天王寺砦を焼き払い、信貴山城へ入り籠城の構え!」

「ま、松永殿が?」

「上様からは、柴田殿には引き続き七尾城救援に向かい、上杉を討ち滅ぼすように、と。松永の件はこちらで始末をつけると申されておりました」

「……」

 待ち望んでいた情報ではない。それどころか虚を突かれたかのような情報である。まさかまた、松永久秀が裏切るとは。三好家を失い、抜け殻のようになりながらも副王の右腕として身に着けた文化人としての素養や、城名人と謳われるほど築城に造詣が深く、現在建造中の安土城にも彼の知恵が盛り込まれているなど、彼の有能さを惜しみ信長は彼を許した。その温情に泥を塗った形である。

 地方であればともかく、畿内で今の信長に逆らうことは死を意味する。

 裏切りの意図が見えない。

「……松永殿、が」

 秀吉の中で、さらに嫌な予感が増幅する。上杉と松永、其処に繋がりは見えない。連動があるとも思えない。しかし、実を言うと信長率いる軍勢もまたこの本隊のあと、援軍及び後詰として動く予定ではあった。

 それに待ったをかける一手である。

 要は松永久秀が死に役を買って出た形となるのだが、それが久秀に何の得があるのかわからないし、そもそも松永や三好と上杉の繋がりが薄過ぎる。

 この場に近衛前久がいればその繋がりを可視化することも出来たかもしれないが、どちらにせよ彼らにはわからないだろう。

 龍と竜、その繋がりを間近で見ていた者にしか。

 時に絆は、一夜で万年ほどに結ばれることもあるのだ。

 彼らは知らなかった。

 松永久秀と言う男が竜に深過ぎる忠誠を誓っていたことを。

 彼らは知らなかった。

 龍と竜の交流を。

 彼らは知らなかった。

 これが龍の、上杉謙信の策ではなく松永久秀の独断であることを。龍はただ、彼に時が来たら立ち、好きなように暴れよと伝えただけ。自分たちの動きを伝え、本願寺と深い連携をするため、彼が上手く立ち回った。

 本願寺と深く繋がっていた長慶の伝手はまだ死んでおらず、彼にとってそれは容易い仕事であった。謙信の望みはそれだけ。それが彼にとって必要であったから。

 だから、これは久秀の独断。

 信長の足を引っ張り、謙信の勝利を少しでも確実なものとするための、捨て身の策であった。端から捨てる命をここで張る。

 連動ではないが、都合が良過ぎる状況に秀吉ならずとも皆、混乱の底へ叩き落される。全てを仕組んでいたのか、ただの偶然か。

 何もわからない。何も見えない。

「何が、起きている?」

 織田軍は今、闇の中にあった。


     ○


「父上、使者が来ておりますが」

「ご苦労様、と」

「はっ」

 松井某と言う織田の使者を追い返す。信長は情に厚い男であるし、裏切りの理由でも問いに来たのだろう。場合によっては許されることもあるかもしれない。何か自身に落ち度があれば改善を辞さぬ男である。

 松永久秀も竜に出会う前なら、心を捧げていたかもしれない。

 だが、久秀は先に竜と出会ったのだ。信長ではなく。

 だから、これは必然である。

 松永久秀は持てる力の全てを結集し、ここ信貴山城にて補強工事は開始していた。少しでも己の本気度を信長へ伝え、こちらへ意識を向けさせるために。

 上杉謙信の力を信じていないわけではない。ただ、現在の織田信長の強大さは風向きもあってか三好時代よりも上である。その怪物相手に一地方の大名が勝てるのか、と思えば少々苦しいように思える。

 ただでさえ四万の大軍、其処に信長の後詰まで加わったならいくら龍でも勝ち目は薄い、と彼は判断した。信長の足は自らの謀反で止める。

 その上で少しでも、あちらの軍が割れてくれたなら――

(織田の国力を考えるに、それは望み薄でしょうが)

 信長は残存戦力で今の久秀程度ならば叩けるだろう。そして、今の久秀程度では周りも同調してくれることはない。

 孤立無援の籠城戦。

 されど、鍛え上げられた山城は時に万の兵をも弾き返す。隙を無くし、抗い続ける心が折れぬ限り、久秀はこの地で戦い続けることが出来る。

 今、彼が持つは三好の残滓でしかない。

 竜の残り火、この時に注ぐ。

「怒りは力……笑ってください。そのための舞台です」

 松永久秀、その貌には竜が宿る。


     ○


 各地の一揆勢力を鎮圧しつつ、織田軍はとうとう手取川水系の手前に到達していた。この湿地帯を大軍で抜けるのは難儀であるが、今まで通ってきた難所に比べたら見通しが良い分容易い。何よりもさすがにここまでくると一向宗の抵抗も薄くなってきた。彼らのゲリラ戦術は見通しが悪いところでこそ真価を発揮する。

 ことここに至ればもう、彼らの妨害は意味をなさない。

 織田軍の狙いは当然、七尾城の救援であり手取川を渡ることに何の異論もなかった。秀吉でさえ、進むべきだと思っていた。

 そう、

「殿、甲斐より戻りました」

「おお、来たか。して、どうであった?」

「……上杉は、化け物です」

「……何を知った?」

「霧がかった川中島の真実を」

 この話を聞くまでは。

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