第弐佰拾弐話:勝家と秀吉
「柴田殿」
「夜遅くに何用だ、藤吉郎」
「提案がございまする」
「……聞こう」
普段、へらへらとしている男が血相を変えて現れたのだ。如何に礼を逸した時間であろうとも、何であろうが耳に入れるのが先決と柴田勝家は考える。
「明日より始まる手取川水系の渡河、中止しこちらに陣を敷きましょう」
「……藪から棒に。そのようなこと出来ようはずがない。情報が入らぬのは不気味ではあるが、我々の目的は七尾城の救援、後詰にある。ここで陣を敷き、上杉軍を待つと言うことは七尾城を見捨てるに他ならぬ。それぐらいは――」
「承知の上で、申し上げております」
秀吉の見せる貌には当然、冗談のようなものは欠片もなかった。まあ、このような提案を冗談で言っていればそれだけで勝家の逆鱗に触れるものだが。
「何故だ?」
「先ほどわしの放っておった草の者が甲斐より戻りました」
「甲斐?」
「甲斐武田にて、とある戦についての情報を調べさせていたのです」
「……」
「上杉と武田、両雄が激突した死戦、四度目の川中島を」
「それが何故、今撤退することに繋がる?」
言うよりも早いと秀吉は小脇に抱えていた地図を広げる。それは川中島の地形が描かれたものであった。海津城、茶臼山、妻女山、千曲川があり、焦点となった横田城などが記載されている。
「上杉軍は開戦当初、海津城そばの妻女山に布陣しました」
「勝手に話を始めよって。まあよい、夜は長いからな」
秀吉は懐から碁石の黒を取り出し、妻女山へ石を置く。
「そして、武田本隊は海津城ではなく茶臼山に布陣」
今度は白石を茶臼山に置く。
「……補給線を断つ狙いか」
「おそらくは」
正直、勝家には秀吉の言わんとしていることはわからない。だが、夥しい死者を出したはずなのに、上杉武田両家からほとんど情報が出てこないのは不思議に思っていた。どちらも自らの陣営が勝利した、以外のことは他国に伝えていないのだ。
普通は勝った方が詳細を喧伝し、自らの威を示すものであるが――
「しばらく膠着状態が続き、武田本隊は海津城へ移動します」
「狙いは?」
「上杉軍を探るため、と」
「敵軍を動かそうとしたわけか。奇妙な戦よな。意図が見え辛い。俺にはそもそも、妻女山に陣を敷くのが悪手に見えるが」
「わしもそう思います。おそらく武田もそう思ったことでしょう」
「……むう」
海津城は対上杉を主眼とし建造された複合城塞郡が中心である。普通に攻めたのでは補給でも断たぬ限り徒労。干殺しとするには各城塞郡全てを包囲するには兵が足りず、無理やり閉じたとしても穴から補給されるのは明白だろう。
信長なら一度手を引き、より多くの戦力を引き連れて全てを包囲してしまうのだろうが、生憎上杉にはそれだけの兵を動員する国力がない。
関東を手中に収めていれば話は別であっただろうが。
「依然、戦は膠着します」
「上杉は動かんのか?」
「はい」
「……理解出来ん」
勝家ならば海津城へ入る気配を見せた時点で、妻女山から下りて野戦を仕掛ける。おそらく武田は乗らず、茶臼山か、もしくは横田城を奪い取って其処を拠点とし、上杉の野戦を封じてくるが、それはそれで戦局は動く。
とにかく今、妻女山にあること自体が悪手に見えるのだ。
勝家なら動かす。秀吉でもそうする。
そもそも彼らなら妻女山へ布陣などしない。
「武田は横田城へ移動します」
「……ここで?」
「はい。上杉の位置は不気味ですが、時期は初冬、武田としてはここが好機と見たのでしょう。上杉の退路を断てば、彼らは自滅するしかなくなる」
「雪か。確かにそう考えた時、横田城の位置は絶妙だな。海津への動きも、撤退への動きも、どちらにも容易く対応が出来る。茶臼山よりも厳しい手だ。だが――」
「その時、横田城は上杉方。普通にやっては落とせない。其処で武田は考えました。この時期、この辺りを覆う霧に乗じて攻め寄せたなら、すんなりと横田城を奪取出来るのではないか、と。油断もあるでしょうし」
「霧、か。毎年この時期に?」
「地元の者がそう申していたそうです。実際に前日も霧が出て、それで武田の当主は横田城攻めを決定した、と」
「武田は軍を二つに割り、陽動のため別動隊に妻女山攻めを。本隊で横田城を攻める、という構図でした」
「駄目押しだな」
「絶対に勝つという執念を感じる手です。が、当日、横田城近くで霧が薄まり、武田の前に現れたのは城ではなく、上杉軍でした」
「……読まれた? いや、だが、そんな手落ちをここまでの者がするか?」
武田が何か、動きを察知させるような下手な捌きをしたとは思えない。あの織田と徳川連合軍を蹴散らした男が率いている軍である。
その強さは今の話の中でも想像がつく。
だからこそわからない。
「何故、上杉が其処にいたか。それは誰にもわからぬ、と申しておりました。何なら、越後の方でも調べさせていましたが、こちらも同じくわからない、でした。突然、指示が出て妻女山を下り、霧の中で行軍し、霧が晴れたら武田がいた、と」
「上杉の撤退と重なった偶然か?」
「草の者が情報を引き出した相手は、妻女山攻めの別動隊の者でした。そして彼らは千曲川にて甘粕景持率いる殿と交戦したそうです」
「……偶然では、ない」
「結果として上杉、武田両軍とも夥しい数の戦死者を出し、撤退していきます。双方自陣営が勝利した、とだけ内外に喧伝して」
勝家は考え込む。複雑に入り組んだ戦の構図。最初から妻女山にこもるという奇手を、茶臼山布陣という妙手で返し、相手の出方を見るための海津城引きにも動かず、最後は霧の中、見えぬまま行軍し決戦となった。
偶然、と考えるには出来過ぎているし、甘粕部隊のこともある。
ただ、そもそもこの戦に関して織田家内では武田が勝ったという認識であった。結局、高梨領を除く北信濃の大半を武田が手中に収め、領地の面で見れば武田が勝ったと見るのが筋であろう。信長は痛み分けと言っていたが、あれは駄々である。
今聞いたらきっと、ボロクソに言うはず。
「俺にはわからん。結局上杉が上手であったのか、それとも偶然か。霧中の撤退と考えたなら、隊が分かれてしまうのも無理はない。たまたま本隊同士が衝突した裏で、たまたま別動隊同士がぶつかった、とも考えられる」
「わしは上杉が勝ったと思います」
「……最終的には――」
「と言うよりも武田が負けた、と考えます。上杉はこの時、武田の重臣を多く討ち取りました。特に当主の実弟、典厩の首は大きい」
「人的被害の面を見れば、そうだろう。上杉もそれなりに死んでいるが」
「よく武田領内で言われていたのが、典厩殿が死んでから御屋形様は変わった、という意見です。特に嫡男との関係性は相当悪くなったようで、その結果我らも良く知るあの一件に繋がった、と。息子を切り捨ててでも駿河を取りに行った、あれは結果として悪手でした。今川を失い、北条とも手が切れ、周囲の信用も失った」
「……個で戦うしかなくなり」
「長篠へ、と言うのは飛躍し過ぎかもしれませんが、武田は死に体です。当主の急死がなければ、という意見もありますが、そもそも西へ伸びてこなければ戦い自体が起きなかった。今川と言う緩衝材が、盾となっていた可能性もあります」
「徳川が喰らっていた気もするがな」
「徳川殿に駿河を喰らう気はなかったと思います。むしろ、ずるずると長引かせ沈静化させているのでは、と当時は思っていたほどです」
「……まあ、その感じはあったか」
領地と言う面では武田が勝った。だが、それよりさらに広く、遠く見た時に、あの一戦で失ったもの、狂ったものは途方もなく大きいのかもしれない。
だから謙信は言ったのだ。領地を奪われていたとしても勝った、と。
「結局藤吉郎が言いたいのは……上杉謙信が化け物、ということか」
「はい。未だ完全には晴れぬ霧。されど、それが必然であったとすれば、もはや彼の本領は我らの手に負えるものではありません」
秀吉の考える最悪はこの川中島が全て謙信の掌の上であった場合、武田の動きも時期も、霧をも勘定に入れて妻女山へ布陣したことになる。山に近ければ近いほど霧は深くなりがちで、そう考えた時妻女山は絶妙な場所へと化ける。
結局もう一つの疑問は残るが、それすらも必然であったならそれこそ秀吉の手に負える相手ではない。いや、誰も勝てない。
「偶然である可能性もある」
「出来過ぎています」
「それを言えば上様の覇道もまた、あまりに出来過ぎておろうが」
「……それは」
上杉謙信の謎めいた物語。その広さと遠大さ、とて桶狭間の奇跡より覇王の道を歩んだ天下人、織田信長には及ぶまい。
「危惧は理解した。だが、進軍を緩める気はない」
「柴田殿!」
「救援を待つ者がいるのだ。それを捨て置くことなど、上様が認めるはずがない。少なくとも偶然の可能性が消え、全てが必然であったと説明出来ねばならぬ。他の者に何と言う? 危険な相手の可能性がある。だから救援に赴かず我が身を守る、と。それは織田家の戦ではない。他ならぬ上様が許さぬだろう」
「しかし、ここで我らが負けたなら、それこそ天下静謐の夢は断たれますぞ! 絶対に負けてはならぬ戦です。わしは能登畠山、いや、能登一国よりも織田家の沽券の方が大事と心得ます。彼らを捨ててでも、万全を期すべきかと」
「何が其処までぬしを駆り立てる!?」
秀吉は勝家に全てが必然であると説明出来なかった。最後の最後、現地にいなかった彼が『飯炊きの煙』に辿り着くのは不可能。あまりにも遠大な最悪を必然とするよりも、偶然と考えた方がしっくり来るまである。
何せ上杉謙信は常勝不敗の名将であるが、疑問符の付く戦も少なくないのだ。特に大局を言うのなら小田原攻めには疑問しか湧かない。
偶然か、必然か。
「……勘です」
「勘、だと。馬鹿なことを――」
「わしは常に、最後の一線、どうしても考えの及ばぬ時は勘に従いここまで来ました。織田家を選んだのもそう。金ケ崎を生き延びたのも、そう」
勝家は秀吉の眼に浮かぶ自身への『確信』を見て静かに目を瞑る。上様、信長にもそういうものはあるのだろう。秀吉にもある。
時代を彩る英傑たちは皆、そういうものを持つのだ。
己にはない、言語化出来ぬ『絶対』を。
「そのわしの勘が言うのです。この川を、渡るな、と!」
「……」
あの桶狭間の時、信長は秀吉の『絶対』を信じた。己のそれと合致したから。
「上杉と戦うべきではない、と!」
そして奇跡の勝利を得たのだ。
万に一つもなかった勝利を、彼らが掴んだ。
勝家の心は揺れていた。『本心』と『責務』の狭間で――
「……駄目だ」
「柴田殿!」
「総大将である俺の意見に逆らう者はこの軍に要らぬ。去れ」
「お頼み申す!」
秀吉は頭を地面につけ、土下座にて請うた。この一戦は織田家の明日を左右する。負けたなら畿内の味方が裏返り、四面楚歌となってもおかしくはない。
新興勢力は常に、そういう弱点を抱えているのだ。
「面を上げよ。藤吉郎よ、ならぬのだ。上様が許さぬからではない。俺や、俺のような古き者たちはここで退けぬ。骨の髄まで武士ゆえに」
勝家は秀吉の肩をポンと叩く。
「今更変わらぬ。俺も、周りも。例えぬしの言う通りだったとしても、敗れ去らねばわからぬ阿呆どもが俺たちだ。それが武士だ」
顔を上げた秀吉に勝家は封のされた書を差し出す。
「これは?」
「上様へ見せよ。信じ、裏切られたことへの怒りが勝るかもしれぬが、それでもないよりはマシだ。首と胴が離れる前に見せ、許しを乞え」
「……」
「その上で、俺が敗れたなら次はぬしが立て。得意の小賢しい知恵を回し、龍を討て。まあ、俺が勝ったらしばらく目の上のたんこぶが居座る覚悟はせよ」
勝家は不器用に微笑む。手渡されたそれを握りしめ、
「……必ずや」
羽柴秀吉は誓う。厳しく不器用、されど決して狭量ではない上司に。
「赤っ恥をかかせてやる」
「是非に。宴の席で存分に阿呆となじられることを祈っております」
「阿呆が。去れ」
「はっ!」
勝家は哂う。彼のような絶対的な勘は己にはない。だが、嫌な予感は軍を興してからずっと、付きまとっていたのだ。
だからと言って退くわけにはいかない。そして、もし敗れるとするなら古き武士である己が矢面に立つべき。新しい時代に傷をつけるわけにはいかない。
武士を率いるとは難儀なことだ、と哂い、目を瞑る。
やるからには勝つ。揺らがず王道を征く。
四万を正面からぶつけたなら、勝つのは自分たちなのだから。
手取川水系の渡河を開始した日、この軍から羽柴秀吉が離脱した。重大な軍規違反であり、多少の動揺も広がったが勝家が締め付け、揺らぎを消す。
天正五年九月二十日のことであった。
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