第弐佰拾話:十三夜の詩
天正五年九月、能登畠山氏を統べていた男は窮していた。
自らが擁立した傀儡、畠山春王丸が疫病に倒れ幼くして死去。総構で守られた城下も疫病が蔓延し、手の付けようがない状況に陥っていたのだ。
七尾城全体が今、地獄と化している。
厭戦感の広がり、などと言う生易しい状況ではない。ただでさえ自らの大義である春王丸を失い、地盤が揺らいでいると言うのに、このような状況では統率など取れようはずもない。いつ寝首をかかれてもおかしくないだろう。
己もまたそういう手を尽くして成り上がった身である。
「……」
乾坤一擲、逆転の一手として放った能登の一向宗門徒へ一揆を起こし上杉をかく乱、あわよくば包囲を解かせられないか、と期待したのだが、その連絡の返事には誰のものかもわからぬ耳と共にただ『不可』とだけ書かれていた。
長続連が懇意にしていた男が取りまとめている一揆衆である。裏切るとは思えない。そうでなくともこんな返事であれば誰でもわかる。
その手は通じん、と謙信に先回りされたのだ。
おそらくはこの耳、続連が懇意としていた男のものであろう。
八方塞がり、状況に好転の兆しはない。
続連は天を憎む。疫病さえ流行らねば、この七尾城が、天宮と謳われた最強の城が窮地に陥ることなど無かったのだ。
天下の織田家へ借りを作る絶好機。ここで名を挙げ、織田陣営で頭角を現す。さすれば長家の未来は安泰、家名は天下へ轟いたことだろう。
されど今、その明日は曇り、見えぬ。
続連は憎む。神の差配を。
「……天は何故、我を見捨てたのだ?」
それが権謀術数のみに長けた、この男の器であった。
○
近衛絶と共に越後へ下った男、河田長親はただ包囲し続けることに疑問を抱く自陣営の姿にほくそ笑んでいた。彼らは知らぬのだ。
神仏をも愚弄するおぞましき策略を。
開戦前より用意されていた壮大な絵図を。
「神か化生か、鬼か龍か、これが上杉不識庵謙信の戦」
直江景綱から引き継いだからこそ彼は知ることが出来たが、教えてもらわねば皆と同様に停滞した戦場にやきもきしていたことだろう。
誰が理解出来ると言うのか。
あの男の戦を。
これはある意味、不抜に終わった小田原城攻めへのアンサーである。当時、長尾景虎であった男が断念し、その後甲斐の虎である武田信玄をも弾き返した絶対防御。形は違えどその強度はここ天宮と近しいものがあった。
城攻めとは軍略の基礎であり兵法家の命題でもある。万の兵を操っても、たかが数百の兵に完封されることもあるのが攻城戦。高い士気、豊富な糧食、そして険しい山を切り拓き建造された山城があれば兵法の介在する余地など無い。
日本と言う国を縦に貫く山脈。日本中、どこを見渡しても山を拝めぬ地域などほとんどないだろう。そんな地形で何百年、何千年とここに生きる者たちは戦い続けてきた。山城と言うのは山のプロフェッショナルである日本人のノウハウを、歴史を継ぎ込んだ兵法の結晶である。幾多攻め滅ぼされ、その度に改修し、改善し、今の形となった。戦国の世が山城の歴史を完成させた。
財を、手間を惜しまず改修した最新型の山城は力では抜けない。包囲し干殺すか、周囲を叩き中の士気を折るか、連絡を絶ち後詰への希望を断つか、そういう搦手でなければ抜けない。それがこの時代、戦に特化した山城の力である。
この時代における城攻めの達人は皆、搦手の達人と言ってもいい。羽柴秀吉を始めとした数多の名手は策を講じて城を落としていたのだ。
其処には能動もあり、同時に受動もある。
相手の備え次第、この受動的な要因は哀しいかな、どうしたって付きまとう。如何なる手段を尽くして心を折ろうとしても、折れるかどうかは中の者次第なのだ。
絶対はない。相手依存である限り、あり得ない。
だが、今回の戦は限りなく必然に近いものであった。
「何にせよ、怪物に違いない」
だから、河田長親は畏怖するのだ。
軍神は絶対防御を静かに、気づかれることなく喰い破って見せたのだから。
○
時は少し遡り東上野、大胡城にて北条氏政の挙兵を聞いた北条(キタジョウ)高広はほっと胸を撫で下ろした。かつて上泉秀綱が治めていた大胡城は現在、息子に家督を譲った高広が治めており、敵の挙兵を聞き安堵するのもおかしな話。
しかし、それには理由があった。
実は彼もまた謙信より一つ、密命を受けていたのだ。
それは頃合いを見計らい、三度目の謀反をせよ、というものであった。かつて高広は二度、謙信を裏切りその都度許された経歴を持つ、いわば謀反のスペシャリストである。本人とすれば一度目はともかく、二度目は不毛な関東遠征に対する抗議の意味が強かったため些か不服ではあるのだが、世間の評価はそんなところ。
すでに家督を譲り渡したが、上野国の重要拠点厩橋城を長年任されてきた男の影響力は未だ消えていない。そんな彼が三度目の正直とばかりに蜂起する。
そうなれば誰もが信ずるだろう。
あ、また高広がやった、と。
「どうせ子獅子に総力戦を仕掛ける胆力など無い。適当に捌け」
「しかし父上、万が一にも――」
「阿呆。ここで勝負を仕掛けられる者が今の織田家に与するかよ。甲斐の虎が西上した時以来、千載一遇の好機ぞ。ここより先に巻き返す機会など無い。これが最後の機なのだ。ここで張れるかどうかが器の見せどころ」
「……」
「噛みつけんのなら、猫と成るしかあるまいよ」
高広は氏政の性格を読み切り、総力戦はないと踏んだ。と言うよりも今の北条が総力を挙げて攻めてきたなら退くより他はない。ならば一応撤退の備えも必要なのでは、と言う息子に高広は苦言を呈したのだ。
あの男の下につくのなら、この程度のことで一々狼狽えるな、と。
「これで我らが謀反を企てる理由が無くなった。おそらくこれは織田家の手配、なればこれ以上の隠れ蓑はあるまいて」
「私が知らぬ、御実城様の真意ですか?」
「私も知らぬよ。だが、想像することは出来る。何故我らが謀反を企てる必要があったか。全ては繋がっている。この戦はな、始まる前から軍神のものなのだ」
「……」
謙信よりの密命はただ、謀反をせよというものであった。主導は隠居した高広、息子は協力に徹せよ、と。自らに二度噛みついた男ならば、意図を察することが出来よう、との信頼が見て取れる。高広もまた黙してただ成すべきことを遂行する。
氏政が動いた以上、もはや高広にすべきことはない。
織田家の飼い猫と堕した『ホウジョウ』を捌くのみ。安い仕事である。
○
かつて宇佐美定満は言った。
『民草が足りませぬ』
と。
長尾虎千代に欠けていた視点。ただ兵と城のみを見ていては視界に入らぬ景色があった。あの時点でそれを教わったのは僥倖と言うしかない。
越後が生んだ稀代の軍略家の薫陶を受け、神童は戦場よりもさらに広い碁盤を得たのだ。兵、城、糧食、民草、町、田畑、家屋や家畜などの資源、それら全てを彼の碁盤の中に収めることが出来た。
それがあの地獄の如し『小田原攻め』を生んだのだ。
堅牢極まる絶対防御の中に民草を押し込み、糧食の減少を促して干殺す速度を飛躍させる。本来受動的となる部分を少しだけ能動とすることが出来た。
いつか、戦場に赴き気づけていたかもしれない。宇佐美は虎千代ならばいつか自分で気づくと笑っていた。だが、謙信はそう思わない。
越後の戦場を謳歌するだけでは大きな視点を得る機会はなかった。小田原攻めは関東遠征の序章である。其処で学んだとて一手遅い。
一手の早さ、それは間違いなく師から受け取ったもの。
しかし今回、それだけでは足りなかった。天下を手中に収めた織田家が関わる以上、糧食は無尽蔵に近い。速攻で攻め寄せるにも、そもそも能登畠山自体が日本海貿易でそれなりの財を築いた名門であり、力がある。
それ以上にあの『天宮』がある。
生半可な人員では返り討ち。されど入念な準備をして向かったのでは海路から織田家の支援を受け取り、後詰を待てる絶対防御が完成してしまう。
ゆえに必要なのはその先――それもまたすでに、小田原時点で届いている。
「霧は軍営に満ちて 秋気清し」
直江文を愛していた。自分の幼き頃を知り、ずっと支えてくれた人。彼女の献身、その奥にある愛に気づいたのはいつ頃だったろうか。少なくとも栃尾から春日山へ至る頃には理解していた。だけど、直視する勇気がなかった。
そうこうしている内に、それを嗅ぎ取り父親である直江景綱が二人を引き裂いた。長尾家に欠かせぬ立場とその手腕により、彼は当主の強権をも封じていた。と言うのは全て言い訳である。ただ、当時の景虎に自信がなかっただけ。
彼女を幸せに出来るか。彼女との間に出来た子を幸せに出来るか。何度考えても否だった。越後を統べる長尾家の当主、この立場に景虎がある限り父同様女房は武家の女として型にはめ、息子は嫡男として縛り付けただろう。
その不自由を誰よりも嫌った自分が、それを強いることに耐えられなかった。
景虎の弱さを景綱は理解し、二人を引き裂いたのだ。
「数行の過雁 月三更」
あの男と彼女の献身は同じ類のもの。それを受け止められぬ弱さと断ち切れぬ弱さもまた、表裏でしかない。
『悪意』と愛は似ている。
其処から生まれる己への『怒り』が戦に駆り立てた。
そして――
「越山併せ得たり 能州の景」
決して巡り合わぬはずの初恋が越山し、越後へやって来た。二度と会うつもりはなかった。会えるとも思っていなかった。
あの頃は自分が長尾家の当主となるとは露とも思わず、彼女は小さな地侍なりに小さな幸せを見つけ、あの約束が開帳されることはない、そう思っていた。
だが、運命の巡り合わせが、他愛もない幼子の約束が、再会に結び付いた。
相変わらず美しかった。それ以上に傷だらけだった。傷に触れたら壊れるのではないかと思うほどに脆く、弱り果てていた。
かつて抱いた恋心と同情、彼女が抱く絶望と敵意。遠ざけねばと思った。それがあの頃の自分、自由を与えて貰っていたことに気づいてすらいなかった間抜けの、小さな、けれど大事だった想いに報いることだと思ったから。
気づけば互いに傷だらけ。己が只人であることを自覚し、背負っていると思っていたものは陽炎で、もういいかな、と思った。
しかし運命は残酷で、神の手は彼女を死に追いやった。この時代における疫病とは治癒不能な災い。ただ祈ることしか出来ぬ天罰。
憎む相手などいない。其処には何もない。
そんなことはわかっている。
それでも天を憎まずにはいられなかった。初めて神の存在を願った。存在していれば殺せるから。蹂躙出来るから。
世界に蔓延る苦痛、苦悩、其処から発する『怒り』をぶつける。
神よ在れ。そして俺に殺されろ。
「遮莫 家郷の 遠征を思うを」
生まれた時から特別だった。名門に生まれ、両親に愛され、その外側にもたくさん好いてくれる人がいた。何でも出来た。何者にも成ることが出来た。
可能性の塊。世界に愛された。時代に愛された。
神がいるとするならば、きっと己は愛されている方だろう。
それが許せない。
『怒り』が彼を完成させた。何者にも成れる男を、本当の意味で戦へと縛り付けたのだ。師が視野を、献身が愛憎を、運命が怒りを与えた。
そう、長尾景虎は上杉に至る前に、小田原攻めの時点で完成していたのだ。誰よりも遠くを見て、誰よりも戦を愛し、誰よりも戦を憎む。
龍はとうの昔に成っていた。
ゆえにこれは答え合わせ。
「おお!」
「何と風雅な」
「さすがは御実城様!」
今、上杉謙信が詠んだ詩は九月十三夜、今宵を表すものであった。兵の慰労を兼ねた月見の宴。その中で彼が披露したのだ。
とても雅で素晴らしい詩である。甘粕景持の隣で近衛絶が感動のあまり号泣するほど、文化人としても卓越した技術を見せた。
皆、素晴らしい宴だと盛り上がる。
河田長親も笑顔で拍手する。しかし、彼は知っている。この宴の、真の目的を。これは最後の一刺しなのだ。七尾城を、すでに崩壊しかけた天宮を落とすための。
あの直江景綱すら舌を巻く、邪悪極まる最善手。
謙信、長親、そして、やられた側だけが理解している。
「……嗚呼」
上杉謙信は見せつけているのだ。最強の囲い、天宮に守られた者たちに。いや、天宮に閉じ込められた者たちに。天国と地獄、今まさに疫病で死に襲われ、運命を呪い、絶望を噛みしめている者たちに、夜闇照らす宴を見せる。
「死にたくない」
苦しかろう。辛かろう。憎かろう。
「……」
哀しかろう。
「……生きたい」
悔しかろう。
「なんで、なんで、誰のせいでこうなった!?」
その『怒り』誰に向ける。
敵対し、天より地獄を見下ろす上杉謙信か。否、今の彼らにそのような力はない。敵と戦う力など、とうに尽き果てている。
だが、
「……全部、全部、悪いのは――」
天宮の中、この閉鎖空間の内側ならば、味方ならば――刺せる。
「ここまでだ、長よ」
「正気か遊佐、温井! 今の織田に逆らう馬鹿が何処にいる!? 絶対に勝てんぞ、必ず後悔するぞ! 今一時耐えたなら、必ず救いの手が――」
「民はとうに限界。その一時が、もうないと言っているのだ!」
「民のため贄となれ。それが上を掴み取った者の、責務だ!」
「や、やめろォォォオ!」
九月十五日、宴より二日後、日本五大山城が一角、天宮七尾城。その門が内側より開く。結局謙信は最小の犠牲で、七尾城を攻略してのけたのだ。
謙信の調略に乗った遊佐、温井らは許され、上杉の軍門に降る。
そしてあらゆる手を尽くしほんの一時、能登国を掌握した長一門はそのことごとくが討ち取られ、生き残ったのは織田への連絡のため外に出て、七尾城に戻ることが出来なかった二人だけ。あとの百余名は皆、七尾城の者に殺された。
「まさか疫病が流行っていたとは」
「これぞ毘沙門天のご加護だな」
誰も考えもしない。
その天運が神の手ではなく、龍の手によるものだとは。
この時代、非戦闘員と言うのは幼子や老人のみ、有事の際は女すら武器を手に取る総兵士時代でもある。七尾城は広い。この広い城域を守り切るには万の兵が必要。戦闘で減ることを考えたならさらに余剰戦力がいる。
実際に謙信が氏政に動きに釣られ、少しして反転し能登へ戻ってきた際、長続連は各地から人をかき集め、この七尾城に収容した。
その数一万五千。上杉軍の動きは早く、続連も急いでかき集めた。一万五千、能登各地より集まった人々の全てを把握するのは不可能である。平時であればしっかり確認する場面でも、非常時にはその工程を飛ばし頭数を揃えることを優先する。
謙信が引き、七尾城は門を開けて反抗作戦に出た。そして謙信が反転したことでまた彼らは引きこもった。構図は同じ。
だが、その中身には毒が仕込まれていた。
直江景綱が集めた疫病のキャリアと思しき者たちを、大規模な人の移動に合わせて紛れさせたのだ。そして一度でも入り込んだなら、一万五千人が密集する閉鎖空間である。病が広がる土壌は十二分に整っている。
全ては仕組まれたこと。
「お見事です、御実城様。直江殿も草葉の陰で喜んでおられるかと」
「ぶは、気色悪いわ」
これがあの時用いなかった小田原城攻略のアンサー。同じ手段を使えば、あの時点ならもっと容易く紛れ込ませることが出来た。今回とは異なり自分たちが収容限界まで押し込んだのだ。そのコントロールは容易であっただろう。
獅子殺しは出来たのだ。しなかっただけで。
「さて、ここからは一気だ。皆、俺に続けェ!」
「応ッ!」
これが『軍神』上杉謙信による攻城戦、七尾城の戦いである。疫病が蔓延し、当主が亡くなり、実力者が失脚すると言う顛末だけ見れば、運で勝利したようにしか見えない。されどその動き、違和感を辿ると見えてくるはおぞましき軍神の戦。
それはかつて、遠い異国モンゴル帝国が西方諸国を相手に城攻めをした際、病で死んだ者を敵国の城に投げ入れ、疫病を蔓延させると言う手法に似ていた。歴史上最強の地上戦力、蒼き狼の群れと同じアンサーを龍は弾き出したのだ。
知り得るはずのない最強同士の相似である。
しかもそれは初恋の、大切な人を奪ったもの。自らの傷をえぐるかのような選択であった。それでも謙信に迷いはない。
龍が今更迷うかよ。軍神は馬を駆る。
ここより龍は風と成る。
今、地上で最も神に愛された奇跡の男、その軍勢を喰らい尽くすために。
神殺しへと赴く。
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